第4話 小さな怪物くん
ゴブリンは外の様子を窺う。
何しろ、これまで散々、あのアンジェラには酷い目に会わされているのだ。
恐怖心を植え付けられただけではなく、彼我の力の差も体で覚えている。
正面から当たってはいけない。
背後からだ。
背後から羽交い絞めにして、自由を奪って。
それから、今までに虐げられて来た恨みを返して。
――思う存分、蹂躙してやる。
想像の中での仕返しの情景に、ゴブリンの頬に下卑た笑みが浮かぶ。
それだけで時間が経つのを忘れるほどに、妄想に心を奪われる。
もう、いいだろうか。
ゴブリンを閉じ込めていた、あの忌々しい頑丈な扉を引いてみる。
キィ、と音を立てて、あっけなく扉が開いた。
ゴブリンは顔だけ出して、外の様子を窺う。そして驚く。
他の部屋も全て、扉が開け放たれているのだ。普段は閉ざされており、唸り声や吠え声しか聞こえてこない部屋が。
何が起こっているのか?
普段、ろくな知的活動を行わないゴブリンといえど、この状況には困惑するしかない。
「ガゥン! グルルルル!」
横手から吠え声が聞こえる。
あれは魔犬!?
それが何故、こんなところに!
「ガゥッ!」
まずい!
単体ではとても敵わない、逃げなくては!
咄嗟に自分にあてがわれた
くそっ!
折角脱出したのに、また逆戻りとは!
ゴブリンは悔しさにギリと歯を噛み締めた。
しかし、外で猛り狂っている魔犬がいる限り、外に出るわけにはいかない。窓から逃げたくとも、鉄格子がはまっていて出られない。
悔しいが、魔犬が諦めるまではここで耐えるしかない……!
「ぎゃうんっ!?!」
どれくらい時間が経っただろうか。
獣同士が戦っているのか、扉の外側から騒音と悲鳴が聞こえて、しばらくして何も聞こえなくなる。
その後、時間が経過しても何も起こらない。ゴブリンは恐る恐る扉を開け外の様子を確認する。
――これは?
廊下一面に血飛沫が飛び散っていた。
先程の魔犬であろうか、切り裂かれた骸が無造作に転がっている。
それだけでなく、複数の獣達の死骸がぽつぽつと見られた。
ゴブリンは、恐る恐る、魔犬が本当に死んでいるのかを確認する。
かなりの深手。
鋭利な何かで切り裂かれ、そしてその上から大きな裂傷ができた、のだろうか。
傷の形状が異なる。殺戮者は複数種類いるのだろう。
しかしこの大きな裂傷、
冗談ではない、あんな子供どころではない。早くここから逃げなくては。
あの
壁づたいに、周囲に気を配りながら、そろりそろりと歩く。
何故このオレがこんな目に会わなくてはならないのか? 神経を削りながら、何者かを呪いながら、ゴブリンは進む。
所々に落ちている惨殺屍体。
ともすれば足を取られそうになる血溜まり。
群れていれば気にならないが、今は単独行動。そこらに散らばる死の象徴は、このゴブリンの矮小な心を蝕む。
いい加減に死体にも慣れた頃、前方に黒い影が佇んでいるのが見えた。
自身よりも一回りほど大きいか? とは言え、さほども違いはない体格。
なら大したことはないか、と自分を棚に上げて考え、緊張を一段下げる。
「オい――」
無造作に歩を進めようとして血溜まりに足を取られ、身体が少し傾いで――
「!?」
それは
大袈裟に体勢を崩して空いた空間を銀光が走った。
慌ててゴブリンが銀光を目で追うと、先程の黒い影がその先にあった。
あの影が、この一瞬であそこに?
何と言う速さ。
人間どころか、ゴブリンの知る限りは魔物でもあんな素早さを持つ者はいない。
つまり、彼奴らはゴブリンも知らない下層の魔物を捕らえていた? ゴブリンであれほど大騒ぎをしていたのに?
いや、どうでもいい。
今は逃げなくては!
普通に考えたら、あの速度で移動する存在から逃げられるわけがない。
だがゴブリンにとって、逃げられるかどうかなど関係ない。考えない。逃げたければ、逃避行動に移る。
その素早い行動がゴブリンに二度目の僥倖をもたらした。
サンッ!
軽やかな音と共に、ゴブリンの肩口が切り裂かれた。慌てて方向転換し無様に体勢を崩していなければ、切られていたのは首筋だったかも知れない。
ヒッ!
恐怖に足がすくむ。
胸に迫る恐怖と嫌悪に押され、咄嗟に血溜まりに沈む何かを投げつけた。
飛沫を撒き散らしながら飛んで行くそれを、影は大袈裟に避け、そして辟易していた。血が目に入ったのかも知れない。
(イマだ!)
ゴブリンは遮二無二駆け出した。
脇目もふらず、影のことに目もくれずに、通路を走る。
(こ、コロされる!)
声を出してはダメだ、位置がバレる。
しかし、恐怖が内臓を鷲掴みにしていて、叫びたい衝動を抑えることが難しくなってきた。
石造りの床を裸足でヒタヒタと走る。ヤツは、いやヤツらはもうすぐそこだ。
――!
背中に痛みが走る。
熱い。なのに、徐々に身体が冷たくなる。
もうダメか。
いや! 目の前に光が見える。
闇に生きるオレには眩しすぎて、視界がほぼ無くなる白昼。その強い光は肌を浅く
オレは眩い光の中に飛び込み、そしてそこには己の身の丈を越える戦斧を振りかぶった影が目に入り、慌てて足を止めた。
「て、テメエ、アンジェラ!?」
ゴブリンは叫んだ。
目の前に立ち塞がる少女、アンジェラに向けて。
白磁のように滑らかで白い肌の
代わりに右腕に持つ、彼女の身長程もある戦斧を淀みなく天頂まで持ち上げ、無造作に振り下ろした。
がぁん!!
その戦斧が地面と衝突した瞬間に地面が衝撃で響き渡り、その音でゴブリンの全身に圧を受けたよう感じた。
それほどの衝撃。つまりその戦斧は見掛け倒しではない、重量兵器としてすらも通用するような本物である、ということだ。それを、あの小さい体で?
戦斧の一撃は、ゴブリンから見当はずれの場所に打ち付けられている。つまり威嚇攻撃だ。
だがそうと分かっても、恐怖で縛られて体が動かない。
アレを突破しないと、自分は逃げられない。そうと分かっていても。
力が入らない。
ゴブリンは膝に力が入らなくなり、ぺたりと尻もちをついた。
死ぬ。殺される。
恐怖でもはや力が入らない四肢は震えている。
目を見開き、後方から再び現れた影を見つめるより他に出来ることがない。
「……あたしは、人の三倍食べる代わりに、人の三倍の力を持っている。
今は神の祝福を受け、自身の力を倍に発揮できる加護もある」
そんなゴブリンに向け、アンジェラが語りだした。
「だからこんな戦斧を振り回すことくらいは何でもない……今なら、皆が怖れる力。
でも、昔は。非力だった昔は。
三倍にしても大した力にならなかった頃の非力な私は、皆の食料を浪費するだけの厄介者だった」
涼やかな鈴の音を思わせる美しいその声色は、しかし美を愛でる心に乏しいゴブリンには響かない。
ただただ、何を言い出したんだこの女、くらいに思い、しかしそれを聞くしかない。
「そんなあたしをミハイルがいつも庇ってくれたの。助けてくれた。
彼も不思議な力を持っていた。自分の力を特定の一点に集中する
一時的に他の能力が低くなる代わりに、特定の能力が高くなる不思議な力。
それは素早さだったり。筋力だったり。運動神経だったり。
あの頃、あたし達二人以外はみんな敵と思えた頃は、その能力でいろいろ悪いこともしたわ」
「今では、君の力の方が使い勝手は良いと思うけどね」
ゴブリンを襲い、傷つけた影が後方から近づきながら声を発する。
その高らかな教会の鐘の響きを思わせる美麗な声は、今のゴブリンにとっては恐怖の対象でしかない。
歩み寄り陽の光が当たることで、影はミハイルの形に代わる。
片手に血が滴り落ちている短剣をぶら下げ、全身を赤く染め上げ、しかし普段と変わらずに万人を魅了する微笑みを浮かべたミハイル。
「その頃、薄汚れた子供だったミハイルは、今のように大人を惹きつけられなかった。ただの、どこにでもいる浮浪児。
でも、奇怪な
「懐かしいね。楽しい思い出ではないけれど。
でも、その思い出とも、今日でお別れだよ」
そう言って破顔する彼の透き通るような血塗れの笑顔は、いっそ罪過を背負いなお清浄でいられると言っているかのような、神々しいまでの美しさ。
地面に座り込み動けないゴブリンの側に歩み寄ったミハイルは、手に持った短剣を振りかざした。
剣先から滴り落ちる紅い滴がゴブリンを濡らす。
「彼は、過去に存在したような勇者になりたいの。
輝かしく、一片の曇りもない勇者に。
だからね、彼の心に根付く過去の記憶。彼を蝕む『小さな怪物』と呼ばれた過去と、彼自身が決別しなくてはならない。そういうことらしいわ」
「小さく、醜く、邪悪な。
人から忌み嫌われる存在。
小さな怪物。
昔の、周囲の大人から見たら、僕は君のような存在だったのだろうか。
最初に、瀕死の君を見てそう思ったよ」
ミハイルはそう言って、その恍惚とした視線をゴブリンに落とした。
ゴブリンは思う。
どっちが「怪物」なんだ、と。
お前の方がよっぽど恐ろしい存在ではないのか、と。
「悪いわね、『ヤーヴル』。
お前は最初から、彼に殺されるために飼われたのよ。
この、彼の遊び場。彼が戦士になるための練習場。そのために集めて来られた魔獣の中でも、特別な存在だった。
おまえを殺すことで、過去の矮小な自分を殺して生まれ変わる。
その儀式の生贄なのよ」
ヤ―ヴル。
なんだっけ。
そうだ、自分に付けられた名前だ。
それを思い出したゴブリンは、そう言えばそう呼んでくれたのは、何だかんだで結局このアンジェラだけだった気がする。
……助けて。
死にたくない。その一年で、縋るようにアンジェラの方を向いた。
そこで
「あたしは、ミハイルのためなら何でもする。
いけ好かない怪物の世話でもする。
そして、意にそわない殺しの手伝いだって、する」
絶望に心を染め、ふたたびゴブリンはミハイルの方を向く。
居たのは、場違いな笑みを浮かべて振りかざした短剣を、今まさに振り下ろすその瞬間。
「バイバイ。」
最後に聞こえたのは、何だかんだで彼の面倒を見てくれた少女の声だった。
小さな怪物くん たけざぶろう @takezabro
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