マイ・フェア・ビギー スリムダウン版
ユリノがそれを見たのは一年前、家近くの某医薬品研究所の清掃スタッフだった時のこと。
――まあ、きれいなブタちゃん。
同僚のおばちゃんがそう呟いた時、ユリノは自分がからかわれているのかと思った。
彼女は肥満体だ。「ブタ」は呪いの言葉そのものだった。なのに。
――なんてきれいな肌。ホントに可愛いわねえ。
それはミニブタだった。派遣の身ではガラス越しだったが、ブタ達は確かに美しかった。
ユリノは感動した。「ブタ」があんなにもつやつやと輝いているなんて。
後に、人づてに実験の中身を知ってもなお、ユリノはブタ達をひたすら眺め続けた。
次の話はつい三日前。しばらく仕事が入らず、だらだらと「求職活動」中だった。
買い物先で昔の同僚に会い、たまたまその噂を聞いた。
――なんでもね、実験動物が何匹か逃げたみたい。
――え、それってモルモットとか?
――ううん、ミニブタ。
さっそく家から研究所までの荒れ地を探し回り始めた。見つけたのは今日の夕方だ。近づいてバナナを差し出すと、ミニブタはあっさりすり寄ってきた。
さすがに家まで運ぶのは無理そうだったので、タクシーを呼ぶ。運転手は目を丸くしていた。
だが玄関へ入るやいなや、母親が絶叫した。
「あんたそれどうするのっ!? 食べるのっ!?」
「飼うのよっ! 文句ある?」
「あるに決まってるでしょう!!」
とりあえず本体は玄関に置いて、緊急対談が始まった。
「急にあんなもの拾って! 警察行きなさい!」
「いいじゃない、せめて……」
ちょうどその時、父親が帰ってきた。が同時に、ミニブタが外へ飛び出したようだ。
「あああ、わたしの農園がああ」
駆けつけて愕然とした。よほど空腹だったのか、ブタは父親が丹精していた庭の畑でトマトに食いついていた。
「畜生っ! 食ってしまえ、こんなブタっ!」
背後では、日頃温厚な父親が罵声を撒き散らしている――。
大騒ぎのあげく、ミニブタを玄関の土間に連れ戻し、ユリノは再び親と対峙した。正座である。しかも今度は相手が二人。
「よりにもよってブタなんて。畑まであんなに」
「わ、私だってああなるとは」
どどん、と父親が卓を叩いた。
「その前に言うことはっ!」
「あ、はい。……すみません。畑は責任持って復旧しますんで」
「復旧とは!? 食われたトマトは!?」
「ええと、高級トマト、私が買ってきますんで」
「金で解決する、だと? その性根の貧しさはなんだっ」
「じゃあ……畑の世話手伝うから、それで」
「それで終わりかっ!? あのブタを差し出す気概はないのかっ!」
「何考えてんの、アンタ達はっ!」
どうやら、親の追い込みが性急過ぎたようだった。
「なんて浅ましい! 恥ずかしくないのっ!? あんな小さな子殺して食べるなんて!!」
成人後の娘から倫理的に非難されると、親としては弱い。
「迷い子なのよ!? 野犬だっているのに! 保護して何が悪いのっ」
「あんた、ブタ一頭にいくらかかるか分ってるの?」
父と入れ替わって冷静に指摘する母。ユリノはちょっとひるんだ。
「残飯分けるだけじゃ済まないのよ。あんたの貯金、残りいくら?」
「も、もちろん働くよ! 次の勤め先、見つけてくればいいんでしょ?」
「病気の時とか、予防注射とか、全然考えてないでしょう」
「考えてます。分ったってば。正社員の就職先見つけてこいってことよねっ!」
「こっちはブタの飼い方なんて知ったこっちゃないんだからね。一から十まで、あんたが責任持って」
「調べます。全部面倒見ます! 心入れ替えて働いて稼いで……あれ?」
「まあ、そこまで言うなら私達口出しすることはないかもねえ、あなた」
「うむ、そこまで言うのならな」
満足気に頷き合う両親である。ようやくユリノは謀られたと悟った。
――しまったぁ……。
ユリノの生活は翌日からがらりと変わった。
日中は面接に走り、夜はミニブタの情報サイトを漁り、合間にしつけに励み、とことん面倒を見る。さらに暇を見て父親の畑を手伝う。仕事はさる動物病院助手の職をフルタイムで見つけた。
名前はピギーに決まった。ピギーのためにユリノは休みなく働き、傍目にはそれを楽しんでいるようにも見えた。
たかがブタ一匹でねえ、と家族は絶句し、知人達も変貌ぶりにただただ目を瞠った。
故に誰も知らなかった。ユリノがなぜそこまでそのミニブタに思い入れたのか、その理由を。
「これがそのピギーちゃんですね」
半年が過ぎ、そろそろ次の春が巡る頃、その男はやってきた。仕事のつてで探した獣医師である。まだ若く、聞けば高校の一年先輩らしいが、ユリノの記憶にはない。
家には今、ユリノとピギーだけだ。
「健康そうですね。食事量は確かにお話通りで?」
「ええ」
「それでこの体型……なるほど、可能性は高い」
「ええ、それで、あの」
「ご依頼は承ります。ですが、本当にいいんですか? ペットの体のサナダムシを自分の体に入れるなんて」
「それが私の希望です」
即答したユリノに、何か言いかけた獣医師は、しかしすぐ視線を逸らした。
「あのダイエット法はよく言って賛否両論です。実際、危険もある」
「でもピギーはこれだけ健康なんです。臨床実験は完璧でしょ?」
「まあ、そうなんですが……」
「ピギーのなら安全なはずです。あるいは期待以上の効果も」
「その点に関しては、こちらは一切関知しませんよ」
ユリノは多くを語らなかったが、ピギーを「拾った」経緯で獣医師は大方を察したようだった。
あの研究所が種々の寄生虫を改良し、治療・美容向けの"新商品"を開発している話は、今や公然の秘密だったのだ。
獣医師が帰ると、ユリノはピギーのエサ作りにかかった。気分は爽快だ。
――これで私は"ブタ"から卒業できるっ。
ふと獣医師が帰る間際を思い出す。ドアの前で彼は一度振り返り、「僕は高校時代の君を一応知っているけど」なんて言い出したのだ。
つい不機嫌そうに見返してやると、結局黙って出てしまった。
何が言いたかったのかな。何にしても……昔のことは聞きたくない。
半年間、本当に苦労して駆けずり回ったんだから。
私には報酬を受け取る権利があるっ。
とそこまで考え、あれ? と思う。何か忘れてる……ような。
ピギーがユリノの足元を鼻でつついた。野菜を皿に入れかけ、不意に思い至る。そういえば最近、この子の体重量ってない。
手間だけど、一度こいつを抱えて洗面所まで歩いて、一緒に体重計に乗ってと。うわっ、ほんとに重くなったなあ。
出た数字をメモって、次に自分だけ乗る。引き算しようとしたユリノは、しかし。
ハタとその手を止めた。
数字をもう一度見る。首を傾げて再度量りに。変わらない。
呆然と顔を上げると、前に鏡があった。実は鏡に見入るのも久しぶりだ。ここ半年は出勤前に最低限髪をあたってただけだ。
念入りに見ても仕方ない。そう思ってきたから。
なのに。
ピギーは洗面所から勝手に這い出て、そのままキッチンに向かったようだ。ほっといたら果物とか好きに荒らし始めるだろう。
可愛いけど全然油断ならない、お金のかかるペット。あれのために私はムリな事もやり、出ない費用を絞り出し、苦労をムダにレイズしていった。
何のため? やせるために。スッキリ顔になって、キレイに化けるために。
これからそうなる。だからさっきも大枚はたいて――
もう一度メモを見、鏡を見た。キッチンの方からは、のっぴきならないミニブタの食事の音が聞こえてくる。
眉を思いっきりしかめて、ようやくユリノは叫んだ。
「あっれええぇぇっっ?」
My Fair Piggy 湾多珠巳 @wonder_tamami
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