月と地球

石田信行

月と地球

月の欠片を拾った夜。

深夜に夢から目覚めた、色のない虚ろな景色の中で確かにそれは存在していた。生ぬるいような、少し冷たいような感触。そしてほんのわずかなまどろみのあと、訪れた狂おしいほどの睡魔に身を任せた。それっきり夢は見なかった。

次の朝、目が覚めたときには、その月の欠片の感触はまるで泡になって砂にしみこんでいく波のように引いて行ってしまった。


そんな余韻に浸る暇もなく、否応なしに朝という名前の戦いが始まる。今この瞬間の5分に、日曜日の昼下がりの5分を持ってきて足すことができたらどんなに余裕だろうか。

そもそも9時にその場にそろっていることに、どんな論理的な重要性があるのだろう。まあ確かに、学校の授業みたいに揃わないとはじめられないことに対して時刻を守るのは当たり前だけど、僕の仕事ってそんな内容だったかな、といつも思う。

妻とのお通夜のような朝食をやり過ごし、身支度を整え、ようやく車の運転席に滑り込むと、会社に着くまでのほんのわずかなプライベートタイムが訪れる。タコメーターの赤い針が小気味良く回転して戻ると、カーラジオからJazzピアノが流れ出る。耳障りの良いそれを聴きながら昨夜の月の欠片ことを思い出した。

いや、その直前だ。

しばらくぶりに悪い夢を見た。昔勤めていた会社で失敗したときのこと。もう10年も前の話なのに時々夢に見る。自分で言うのもなんだけど、いい大学を出て「鳴り物入り」で入社したその会社で、自分を優秀な人材と勘違いしていた僕は盛大に空回りをしたんだ。Facebookでいまだにその時の同僚とつながっているけど、ときたま「いいね!」がつくのが憂鬱なくらい、あの会社での思い出はキツイ。

なんであんな夢見たんだっけ?

夢は、「過去の記憶を脳がごっちゃ混ぜにくっつけてストーリーにしてしまう」と何かの本で読んだ。だったら楽しい思い出をてんこ盛りにしてくれればいいのに、経験上、どうもそうはならないらしい。

夢に関する文献を読み漁っても、どうにもつかみどころがない。ようは脳科学者も占い師も宗教家も心理学者も、誰も確たるところにはたどり着けてないんだろう。

でも、僕の中では一つだけ真実がある。嫌なことがあった日の夜は、悪夢だ。

昨日の夜、妻と些細なことでケンカしたんだった。それで早々にした。

喧嘩の内容はこうだ。

妻は言ってることに一貫性がない。こないだ賞味期限を過ぎた食べ物を冷蔵庫から出して食べたことを言われて、昨日は、たまたま見つけた賞味期限切れのドレッシングを捨てたのだ。そしたら「まだ開けたばかりだったのに」。

開けた時点ですでに賞味期限切れだったという定量的事実は、この際、彼女には関係がない。

どうも妻は月に支配されている。女性において「事の大小」はそれぞれだが、どうもそうらしい。男性なので決してわからないけど、知識としてはしっている。

……まあだからそんな些細な一貫性のない話も月のせいにしてしまえば、僕にとって大した話じゃないんだが、結局は僕自身も常に聖人でいられるわけじゃないんだ。僕は月には支配されていないかもしれないが、例えば太陽の前では月も地球も大して変わらない。


国道の交差点で長い信号に捕まった。カップホルダーに入れておいた缶コーヒーのプルトップをはじくと、プシュッと音がした。

「あっ」

昨日の夜も、寝る直前に一階のリビングからこの音がしたことを不意に思い出した。もう少し正確に言うと、金属音の後にはシーという炭酸独特の余韻を伴っていたから、妻がビールを開けたんだろう。

妻がビールを飲むときは、だいたい「反省会」だ。

今朝はろくすっぽ口もきかなかったけど、今頃は彼女も僕より始業時間の早い職場について頑張っているころだ。会社に着いて車を停めたらLINEしよう。それであの話はおしまいだ。確かにあのドレッシングはまだもったいなかった。僕にとっても賞味期限という誰かの決めたルールはまったく論理的に無意味で、それは僕と妻の話。ドレッシングにしてみれば、ただの逆恨みのとばっちりだ。

車を停めてエンジンを切ると、エアコンの冷たい風がんで、とたんに外の生ぬるい空気が混ざり合う。LINEを打とうと、再び妻に思いを馳せたところでようやく気がつく。


ああ、あの月の欠片は妻だったのかと。

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月と地球 石田信行 @boxabu

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