幻想

ヤン

第1話 幻想

(どうしてこんなことになったんだろう…)


 津久見つくみさいは、新しい曲を聞いて顔色を変えていくヴォーカルの三原みはら正司まさしを見ながら、心の中で呟いた。


 この曲が終わったら、三原は怒りだし、このバンドをやめてくれるだろう。それでようやく自由になれる。


 自分に言い聞かせるが、胸が痛む。本当にそれでいいのか。その思いは、まだある。が、これが限界だということもわかっている。


(さよなら、ミハラくん)


 曲が終わった。三原が、才に向かって大きな声で非難を浴びせてきた。



 三原正司と出会ったのは、才が中学に入学して間もなくだった。


 その日、音楽の授業があり、才はピアノを弾くことになった。音楽担当の先生は、才がピアノを習っている先生と大学で同期だったようで、才とも数年前からの知り合いだった。


 他の生徒はリコーダーを吹いているのに、何故か才は伴奏をさせられたのだ。断る理由がなかったので引き受けたが、その時腕時計が邪魔になり、外した。が、弾き終わった後、それをすっかり忘れてしまった。


 ホームルームを終えてから気が付き、音楽室に向かった。教室の前に立つと、中から声が聞こえた。遠慮がちにノックをしてから扉を開けると、音楽教師と男子生徒がいた。


「ちょっと、三原くん。私の言うこと、聞いてるの?」

「聞くわけねえだろ」

「あなたって、いつもそうよね。授業だって、どうせ全然聞いてくれてないんでしょ。いつ見ても、机に伏せてるじゃないの」

「聞いたって、わかんねえんだから、聞くだけ無駄だろ」


 お互いに全く引かない。才は、どうしていいのかわからず、その場に立ち尽くしていた。


 が、音楽教師が、才の視線に気が付いたのか、才の方を見てきた。教師の表情が、急に和らいだ。


「あら。津久見くん。どうしたの? 何か用かしら」


 さっきまでとは、口調も変わり、甘い。その横で、男子生徒が、顔をしかめて舌打ちする。


「何だよ、あんた。えらい変わりようだな。オレに対するのと、全然違うじゃねえか」


 音楽教師は深く頷いて、


「当たり前でしょ。だって、津久見くんよ」

「何だよ、それ? 意味がわかんねえよ」

「津久見くんは、特別なんです」


 音楽教師は、笑顔で言い切った。才にも意味がわからなかった。


「あの、先生。さっきの授業でピアノを弾く時に、時計を外してそこの台に置いたと思うんですけど、確認してもいいですか?」


 先ほどのやりとりは聞かなかったことにして、用件を伝えた。音楽教師は、ピアノの横にある台を確認する。


「あったわ。これ、返してほしいよね」

「はい」

「返してあげるけど、その前に、何か一曲弾いてちょうだい」

「え? 意味がわかりませんけど」


 音楽教師はさらに微笑むと、


「意味なんかどうでもいいじゃない。一曲弾いてくれればすぐに返すわよ」


 才は諦めて、ピアノの椅子に座った。それを確認すると、音楽教師は手近な椅子に座って拍手をした。男子生徒もそれにならった。


 足を組んで、椅子に浅く座って背もたれに寄りかかっている。腕を軽く組み、才をじっと見ている。尊大な感じだ。


 溜息をついてから、鍵盤に手を置いた。そして、ショパンの『幻想即興曲』を弾いた。


 才が弾き終えると二人は立ち上がり、大きな拍手をくれた。特に三原は、熱烈な拍手をくれた。それが始まりだった。


 その日から度々お互いの教室を行き来した。三原は一学年上だったが、三原が気にしないせいか、才が三原の教室にいても他のクラスメイトから何か言われることもなかった。


 彼はパンクな音楽が好きで、自分の好きな音楽についてよく語った。そして、三原自身も、そういう音楽をやりたいと思っていた。


 バンドをやるから参加してほしい、と言われた時は、かなり戸惑った。それまで、そういう音楽を聞いたことはなく、クラシックピアノを習っているせいか、クラシック音楽を聞くことが多かった。が、結局、三原の熱意に負けて、参加することになった。


 三原は、才に優しかった。音楽教師にはあんな態度を取った三原だが、才に対してはいつも気を遣ってくれていると感じた。大事にされていると思うと、嬉しかった。


 出会った頃は、才のピアノに熱烈な拍手をくれる気のいい先輩という位置づけだった。が、それがいつしか、別のものに変わっていた。


 何かの拍子に肩を抱かれたりすると、変に胸がドキドキとした。優しい言葉に心が温かくなった。


 が、それも長くは続かなかった。バンドの初ライヴの日に出会った一人の女性が、二人の関係を変えてしまった。


 彼女が言い寄ると、三原はなびいてしまった。それまで、才を特別な存在として扱ってくれていたと思っていたのに、その人を恋人にした日から、距離が出来た。そうなってみて、初めて才は気が付いたのだ。


(オレは、ミハラくんを好きなんだ)


 それまで、人を好きになったことはなかった。だから、その瞬間まで気付けなかった。


 だけど…と才は思う。三原の態度は、才を好きだと言ってなかったか。それなのに、何故あの人と付き合うのだろう。


 疑問と、裏切られたような気持ちから、才は三原に対して冷たく接するようになった。


 そして、それが積もり積もって、才は胃潰瘍になり、入院することになってしまった。


 一緒にバンドをやっていくのはもう無理なのだとわかった。


 三原を好きだから、三原の好きな音楽を作ってきた。が、才が本当にやってみたいのは、もっとメロディアスな曲だ。


 三原には歌えないだろう曲。そんな曲を三原に聞かせれば、きっと怒ってやめると言うだろう、と才は思った。


 そして、今正にそれが現実となっている。三原は、予想通り怒った。


「こんな曲をオレに歌わせようってのかよ」


 三原は、顔を赤くして怒鳴った。が、才は全く冷静に、


「いや。別に歌わなくていいよ。これがオレのやりたい音楽なんだ。歌えないなら、歌わなくて結構」


 その時、三原は自分たちを見ている少年に気が付いた。少年は少し前に、このスタジオに入ってきていた。


 その少年とは、二日前のライヴの時に出会い、今日この時間にここに来るように言った。三原をやめさせる為に、一役買ってもらおうと思いついたのだ。三原が少年のことを、次期ヴォーカル候補と勘違いしてくれることを願ってそうしたが、これも、上手く的中した。


 三原は、その少年をにらみつけた後、怒鳴るように、「そういうことかよ」と言った。才は、「そういうことだよ。わかったら、さっさと消えてよ」と言い放った。


 三原は背を向けると、スタジオの扉の前まで走って行った。


(これで本当に終わりだ。ミハラくんに好かれてたとか思ってたのも、全て幻想だったんだな)


 才は、必死で自分を保ち、三原を見ていたが、不意に三原が振り向き、才を見た。その表情は、いつもの荒々しい感じはなく、むしろ弱々しいものに見えた。胸が、ドキッとした。


 しばらくそうした後、三原は何も言わずに出て行った。才は、泣きそうな気分になりながら、


(幻想…だったのかな)


 自分の気持ちも、三原の気持ちもわからなくなっていた。        (完)

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