血ゲロのひとつも吐かされたことのない野郎がヒーローを名乗ろうなんておこがましいにもほどがあった
「むむ~」
唸っている。
兄貴の影に隠れながら、諏訪原霧華は唸っている。
「ふふ、はじめまして。よろしくね、霧華ちゃん」
ふわりと微笑むその人を、霧華は難しい顔をしながら見ていた。
艶やかな黒髪。萌葱色のワンピース。涼しげな相貌。あまり涼しげでない胸元。
「む~ん……」
視線を上に向けて、今しがみついている兄貴の横顔を見る。
そして再び彼女に視線を戻す。
……霧華は、人と人との感情の機微に敏い。
だから、篤の前での彼女の立ち振る舞いや細かな仕草から、すでに何事かを察していた。
「どうした霧華。まるで斜陽を浴びる姫路城天守群のごとき顔をしおってからに」
そして、このアホ兄貴が何も気づいていないであろうことも。
ひとまず心胆の置きどころを定め、霧華は篤の影から出てきた。
両腰に手を当て、正面から視線を浴びせる。
とろん、と優しげな眼が出迎えてきた。
「こんにちは、お姉さん」
「はいこんにちは」
口調に硬さを混ぜて見たりもしたが、そういう尖った所も含めて包み込まれるような感じがした。
「眠っている間も、感覚は生きてたから、誰かのお世話になったらしいってことはわかってます」
少し躊躇ったのち、頭を下げた。
「その、ありがとうございました。いきなり担ぎ込まれた見ず知らずの人間なのに、あそこまでしてもらって感謝してます」
これは本心である。食事はもちろん、体を清潔に保つための諸々もすべてやってもらったのには少し驚いている。普通、そういう感覚があったら警戒や嫌悪を抱きそうなものなのだが、この人の手からは労りと優しさが伝わってきた。むしろ不安が薄らいだぐらいである。
「あら……ふふ、お返しに何か頼んじゃおうかな?」
茶目っ気を混ぜて、そう返してくる。
気にしないで、などと言っても、こちらが恐縮するであろうことを見越して、先手を打ってきたのだ。
ふむ、と顎を撫でる。
出来る人だ。
「いいですよ? 何でも言ってください」
「それじゃあお願い。これからみんなで祝勝会みたいなことをしようと思うの。霧華ちゃんも付き合ってくれる?」
ちらりと後ろを振り返り、まったく関係ないことを考えていそうな篤の姿を目に納める。
……いつのまにか頭にあっくんを乗せていた。一体、人間がウサギを頭に乗せるだけでこれほど頭悪そうに見えるなどと誰が予想しえただろうか。
眼を藍浬に戻す。
……まあ、なんというか。
別にブラコンの気はないつもりだけど。
一応、兄貴のことが心配ではあるわけで。
――とりあえず、当面は黙認します。
腕を組みながら、そう思い定める。
とはいえ結論を出すには早い。
――これからじっくりとお姉さんのことは見定めさせてもらいますからね!
「わかりました。お供します」
「ふふ、決まりね」
「話は聞かせて貰った! 人類は滅亡する!」
バーン、と。
扉が開かれた。
「げぇっ! 性犯罪者!」
思わず呻く霧華。
「うむ、帰ったか」
重々しく頷く篤。
「あら、闇灯くん。お帰りなさい」
「ただいま霧沙希さん! 相変わらず大きいね! そしてこんにちは霧華ちゃん! 今日もぺったんこだね!」
「うっさい! 見んな! 寄るな! シッシッ!」
がるる、と威嚇しまくる霧華。
「ふふ、今日はお疲れ様。射美ちゃんも一緒なの?」
「うん、今は攻牙のそばにいるよ。それから、お客さんが来ている」
謦司郎はうしろを示す。
それに従って玄関まで行く三人。
開いた玄関の先にポートガーディアンどもがいた。
「おぉ、皆様方、よくぞご無事で」
篤が声を上げる。
何気に、敬語をしゃべる篤というのはレアである。
「おやおや、誰かと思えば腐れミカン七号と二十号ではありませんか」
発禁先生は相変わらず発禁先生だった。
「うおおおォォォォォォッ! おじゃッ! ましてッ! ますッッッ!!」
「やかましいわ人んちの庭先で!」
馬柴拓治と櫻守有守が言い争っている。
「あら、ふふっ、千客万来ですね」
藍浬は手を合わせて微笑んだ。
「やー、いつぞやの公園ぶりだね、霧沙希さん」
「はい、布藤さん。今回は皆さんいろいろと大変な思いをされたみたいですね」
「はは……まったく……ね……」
ゲンナリと顔に影が差す勤。
それを押しのけて、櫻守有守が霧沙希の前に立つ。
巫女服の裾を翻しながら、優雅に一礼。
「お主が霧沙希藍浬じゃな? 初にお目にかかる。『萩町神社前』のポートガーディアン、櫻守有守じゃ」
「そしてッ! 俺がッ! 『針尾山』のポートガーディアンッッ! 馬柴拓治だあああああァァァァァァァゴヘェッッッッ!!!!」
鼻面にぐーぱんちを叩き込んで黙らせると、巫女服の美女は何事もなかったように微笑む。
「今回のことは本当に助こうた。我らポートガーディアン一同、お主らには心から感謝しておるぞ」
「ありがとうございます。でも、それは攻牙くんに言ってあげてください。一番がんばったのは攻牙くんですし」
「ふふ……その小さな英雄どのにももちろん礼をしておきたいところであるが、今は邪魔をせんほうがよいであろうな」
軽く肩をすくめる有守。
「今はゆっくりと体と心を休めるが良い。後日あらためて挨拶に伺うとしよう」
「あら、なんでしたら、今から祝勝会みたいなことをしようと思うんですけど、皆さんもどうですか?」
「うむ、人数は多い方がよかろう」
重々しく頷く篤。
「おっ、いいのかい?」
「おやおや、この西海凰玄彩を宴席に立たせると、とんでもないことになりますよ? ククク……」
「ウオオォォォォォォッッ!! 燃えてきたああああァァァァァァァァァァッッッッ!!!!」
「ふむ……ならば豪勢な方が良かろうな。費用は我ら四人が負担しよう」
有守の言葉に、他の三人が顔色を変える。
「えっ」
「えっ」
「なんッッッッ……だとッッッッ……!?」
「お主らタダ飯をたかるつもりだったのかァーッ! いい大人が恥を知れ!」
●
意識が浮上する感覚があった。
眼を開けて、最初に現れたのは、ここ一週間で見慣れた天井だ。
すでに日は落ち、わずかに黄昏の名残が攻牙の顔を照らすのみ。
「うー……」
攻牙は呻きながら伸びをする。
頭が引き攣れた感じに痛い。
――ボクはいつから寝てたんだ?
頭を掻きながら身を起こす。
と、
「~♪」
かすかな鼻歌がただよってくる。
ぼんやりとした頭で横を振りむくと、ベッドに頬杖をついて、女の子がにこにこしていた。
「えへへ、おはようでごわす♪」
「んあ……あぁ」
大きなあくびをひとつ。
頬の動きにともなって、顔にでかい絆創膏が貼られていることに気づく。
――ヤローの拳はなんか尖がってたからなぁ。
頬に触れながら、しみじみと思い出す。
「射美がはったでごわす~♪」
「……そっか。ありがと」
「おかげでほっぺつんつんできないから、攻ちゃんの寝顔をずっと見てたでごわす♪」
「暇だなぁ……」
苦笑する。
普段なら「どんだけ暇なんだお前!」ぐらいのツッコミは入れているところなのだが、なんとなく今はそんな気分でもない。
射美は首を傾げる。
「攻ちゃん、ちょっと元気ない?」
「んなこたねーよ。なんかちょっと……さすがに虚脱してるっていうかさ」
攻牙自身、胸の中に漂っているこの気持ちを、どう言い表せばいいのかよくわからない。
真夏の夕暮れに吹く、爽やかな風のようなこの気持ちを。
「勝ててほっとした」
俯いて、述懐する。
想いを、噛み締める。
「篤に認められて……うれしかった」
「……うん」
どこかで、諦めていた。
勧善懲悪を体現するヒーローとなること。
だから、現実的にそういうものを目指す思考を、避けていた。
絶対に無理だと、わかっているから。
だけど。
それでも。
――目指して、みようかな。
地に足をつけながら、すこしずつでもそういうものを目指していく。
その勇気が、胸の中で確かに燃えている。
――なんて、こっぱずかしくて言えねえけど。
かすかに笑い、頭をかく。
「でも……すこし寂しいかもな。なんだかんだでこの一週間は楽しかったよ」
「うん、攻ちゃんはすっごくガンバったでごわす」
身を乗り出して手を伸ばす射美。
「いいこいいこ♪」
くしゃくしゃと頭を撫でられながら、攻牙は眼を細める。
いつもなら「撫でんなー! ガキ扱いすんなー!」と抵抗するのだが、やっぱりそんな気は起きない。
――今だけだぞこの野郎。
瞳を閉じて、射美の手の感覚を受け止める。
「ところで、攻ちゃん?」
「んー?」
「今日は、射美もガンバったでごわす」
「そーだなぁ」
「それはもう、
「禍々しい字を当てんな! 怖いわ!」
「んっ」
ふと、
頭を撫でる手が止まった。
「……?」
眼を開くと、射美はこっちに頭を下げていた。
茶色っぽい髪の中に、右巻きのつむじがある。
「んーんー」
ぐいぐいと頭が押し出されてくる。
「……なんだよ?」
「ほーめーてー」
眼の前で頭が左右に揺れる。
攻牙は小さく笑って、ボブカットの頭に掌を乗せた。
「助かったよ。よくやったな」
ぐしぐしと掻きまわす。指の間を、柔髪が流れてゆくのが、少し気持ちいい。
「うにぃ~」
頭を擦り付けてくる射美。
「おい撫でにくいぞ」
「えへへ、ナデナデされるとムネがきゅーってなるでごわす~♪」
射美は両頬を抑えてくねくね。
「きゅーって……」
ふと、何か違和感を抱いたのかこっちを見上げて眉をひそめる。
「きゅー……ッ!?」
瞬間、その眼が切羽詰まった色を見せる。
攻牙は、直感した。
恐ろしいことが起こる、と。
今すぐこいつを止めないと、恐ろしいことが起こる、と。
「おい射美! ちょっと待……」
「うグッ!」
もちろん、止める暇も逃げる暇もない。
「ごふエエエエェェェェェェッッ!」
ハイパーグラシャラボラスエクスキューション!
視界が、真っ赤に染まった。
びちゃびちゃと生々しい音。
むせかえるような、生臭い鉄の匂い。
ちょっと酸っぱい匂いも交じってる。
……胃液込みだった。
全身血まみれになりながら、攻牙はジト眼で茫然としていた。
「……あ、あはは……」
射美は乾いた笑いを漏らしながら、眼を反らした。
「いっやー、うれしくてついテンション上げすぎちゃったでごわす~」
「てててテメエテメエテメエなにしてんだコラァー! 何なのお前!? 各部ごとに一回は吐かないと気が済まないの!? どーすんだコレ! ちょっ……コレ! 殺人現場かよ!」
攻牙の体のみならず、ベッドにまで血飛沫が散っている。
確実にシミになってる。
「犯人は恐らく、超強くて超かわいいカンッペキな美少女だったと思われるでごわす!」
「黙れ犯人! ……ったくよー霧沙希にバレねーうちになんとかするしかねーなこりゃ」
「いや~……藍浬さんはこれくらいじゃゼッタイ怒んないと思うでごわすよ~。藍浬さんのおっぱい枕で寝てるときに、つい幸せゲージが振りきれて粗相しちゃったことがあるでごわすけど……」
「普段そんなことをしてんのかお前はーッ!」
と、その時、壁越しにたくさんの人間が動き回る気配がした。
「ん?」
複数の物音と、うきうきとした話し声が、かすかに漂ってくる。たまに「肉だアアアアァァァァァッッッ!!!」とか聞き覚えのある絶叫が飛んでくる。
「何の騒ぎだ?」
「えへへ、なんかリビングで準備してるみたいでごわす♪」
「……はい?」
「ほら、立って立って~。シャワー浴びてリビングに突入でごわす♪ 主役が遅れちゃダメダメでごわすよ~!」
射美に引っ張り起こされ、手を引かれながら、
「……あぁん?」
攻牙は首をかしげるのだった。
●
一国を落とせる戦力だったはずだ。
第五級バス停『岩手大学前』のポートガーディアン、藤堂新太郎は、歯を食いしばりながら眼の前の信じがたい光景を見ていた。
見渡す限りの焦土。無数のクレーター。高熱によって溶けかけた大地が、ぐつぐつと煙を上げ、空を翳らせている。
地獄が、そこに現れていた。
かつてこの場所は、豊かな原生林が生い茂る山岳地帯であった。昼なお暗い闇の中に、生命の気配が息づく、揺籃の森であった。
ほんの数十秒ほど前までは、間違いなくそうだったのだ。
「馬鹿な……こんな……馬鹿なことが……!」
藤堂は力なく跪き、呻く。
藤堂ら『神樹災害基金』の戦士たちは、禁止区域・朱鷺沢町において非合法なバス停契約集団《ブレーズ・パスカルの使徒》らの活動が確認されたとの報を受け、大規模な討伐部隊を編成し、進軍しているところであった。
その目論見は、彼らの前に勃然と現れた、たったひとりの男によって打ち砕かれることになる。
――いったい、あの光景を、なんとたとえればいいのか。
男が放った、攻撃。
その惨禍。
胸が締め付けられるほどに美しく、恐怖すら湧き起こらぬほどに絶望的な、あの光景を。
胸倉が、不意に掴まれた。
「ぐっ……!」
片手で持ちあげられる。
「ここから先は、立ち入り禁止なのかもな」
藤堂を持ちあげたその男は、研ぎ澄まされた刃を思わせる双眸を光らせていた。やり手の実業家、もしくは数学教師といった風情である。年の頃は――よくわからない。二十から四十までの間なら、何歳と言っても通用しそうだ。
「朱鷺沢町は我々の大いなる実験に使わせてもらっているのかもな。余計な介入は慎んでもらうのかもな」
「き、貴様……まさかヴェステルダーク……!」
「いかにも違わない。人類を〈自由の刑〉のくびきより解き放たんとする悪の尖兵、ヴェステルダークであるのかもな」
藤堂は渾身の内力操作をもって男の腕を振り払うと、ひと跳びに間合いを取った。
ただそれだけの動作にも、全身が軋みを上げる。
……深い、深い溜息が、男の口から流れ出てきた。
「いったい、どうするつもりなのかもな。まさか戦おうとでもいうつもりなのかもな?」
「黙れ! 部下の仇だ……覚悟してもらおう!」
油断なくバス停『岩手大学前』を構える。
男は目を閉じ、無言で肩をすくめた。
再び眼を開いた時、そこに人間の姿はなかった。
「……っ!?」
特に姿が変わったわけではない。
ただ、その男の存在の仕方が、人間を逸脱したのだ。
人の域にとどまらぬ力を携え、人などよりも遥かに巨大な視野を持ち、人とはまるで異なる理屈のものに動く、社会的存在。
地面が、鳴動した。
本来無人であるはずのこの場所に、天文学的な熱量の〈BUS〉が終結しはじめていた。
「人間とは、生まれながらに人間なのではない。社会生活の中で、意図して人間となるのかもな」
ドクン――
と、神の心音を思わせる音が、大地の底にて撃発する。
男は界面下への裂け目を開く。裂け目より、凄まじい勢いで〈BUS〉の光波が噴出してきた。
あたかも、その先に鎮座する巨大な存在の、露払いでもしているかのようだ。
「同様に、《王》とは生まれながらに《王》なのではない。神と人とを繋ぐ存在として、もはや人ではいられぬという事実に耐え、力に伴う責任を認識する――このプロセスを経て初めて、人は《王》となるのかもな」
裂け目より、何かが競り出てくる。
かつて藤堂が眼にした、いかなる宗教的造形物よりも神々しい、その存在。
周囲の大気に、聖性が満ちる。ごうごうと鳴り響き、間もなくこの世に現れようとしている大いなる神樹への賛歌をひしりあげている。
「あ……う……あ……!」
警戒を抱き、警戒は枯れ、恐怖を抱き、恐怖は枯れ、絶望を抱き、絶望は枯れ――
やがて藤堂は、崇拝の念を強く胸に刻み付ける。
――馬鹿な!
相手はただの犯罪者だ。ここで自分が止めずして、誰が奴を止めるのか。
これまでの人生で育まれてきた、倫理観、責任感、愛、義憤、自負、そして自らのバス停への信頼――
それらすべてを用いて、崩壊しそうな自らの心を縛り上げる。
「う、うぉおぉ……!」
得物を振りかぶり、突進する。しかし、その足は笑えるほどに力がなく、雄叫びにも震えが混じっていた。
「王権を、行使する」
ふいに、穏やかな、しかし気が狂いそうなほどの威厳に満ちた、宣告が聞こえた。
裂け目より現れ出でんとしていた〈存在〉が、やがて全身を藤堂の目前に晒す。
正視に堪えかねるほどの威光を宿す、その身に刻印された文字列を、藤堂は目の当たりにした。
「――跪け」
その瞬間、藤堂の心は、砕け散った。
直後に、意識は闇に閉ざされる。
フルスイングでバス停を。 バール @beal
★で称える
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