第2話 天は人の上に犬をつくるか

 年々春が短くなり、夏の訪れが早まる昨今、今夜は夕方の雨のせいで蒸し蒸しと暑い。

 僕は額の汗を袖で拭った。少し厚着しすぎたようだ。顔が火照っているのがわかる。

 一方で、一緒に仕事に当たった内藤も目尻を拭いた。僕と違い、顔が青い。嫌な汗をかいているのだろう。

「やっちゃったな」

 ポツリと零した内藤の言い方に、僕を巻き込もうとする意志を感じたので、そうはさせまいと責をなすりつけておく。

「ああ、補助でよかった。どうしますか、先輩」

「お前、責任逃れしようとするな」

「いや、事実、後輩なので。今回は本当に補助の仕事でしたし」

「わが社は年功序列制を採用していない」

「大丈夫です。実力順でも内藤さんの方が上です」

 人気のない倉庫の中、僕と内藤は一体の女性の死体を前にして途方に暮れていた。中年女性の死体は、目を見開いたまま胸と側頭部に銃創をつけて、当然ながら身じろぎひとつしない。

 内藤は腕を組んで倉庫の天井を見上げて悩む。その手には消音器がついた拳銃も握られている。

 僕が殺し屋会社「コルクボード」に入社して約一か月が経った。一人会社をやっていた頃は、月末ともなると経費精算に慄いたものだが、雇われの身に戻った今は実に優雅に月末処理を終えることができる。

 ポチポチと入力して、送信。それだけ。

 事務所では晴海が文句を言いながらパソコンと向かい合っているが、本当に申し訳ないことに、今月の経費精算は追加で申請しなければならないかもしれない。

 それもこれも、今回の依頼のせいだ。


  ◇


 社長が請け負った仕事は、その時点ではごくごくいつも通りのものだった。標的は森本ユウミ。五十歳。依頼主は夫の森本タクミ。タクミ曰く、ユウミは働かないくせにお金は使い込んで、しかもどうやら夜の街で散財する趣味を見つけてしまったらしく、養うよりもいっそ殺してしまおう、ということらしかった。

 どれだけの経済力がある家庭なのかわからないが、例えば僕が稼いだお金を、同居人がじゃぶじゃぶ夜の街に溶かしたなら、それは殺意の一つも湧こうというものだ。同居人がいなくてよかった。

 せめて、殺し屋に依頼するお金くらいは余裕を持って払えることを祈りたい。取りっぱぐれは勘弁だし、それで無一文になられても哀れだ。哀れでもちゃんと徴収するけど。

 社長は内藤メイン、僕を補助でアサインした。内藤は、「玉城一人でいいのに」と僕に押し付けようとしていたが、まだ社長は僕一人に任せるつもりはないようだった。聞いていないけれど、この一か月は試用期間扱いなのかもしれない。どうもその辺、殺し屋会社のくせに常識的なのだ。

 僕らの作戦では、森本家の前に張り込んで、夜の街に出かけようとする森本ユウミを襲撃するつもりだった。シンプルかつスタンダード。家から出て来たところを内藤が尾行し、僕は少し離れた位置で車を動かす手筈になっていた。

「標的はコンビニに入った」

 今日の午後七時、予定通り森本ユウミはめかしこんで家を出た。内藤は尾行しながら僕と通話を繋ぐ。内藤の服にはインカムが仕込まれていて、両手を空けたまま向こうからの音声を受信できる。イヤホンもしており、音楽を聴いている振りをしてこちらからの音声を拾っている。

 現場の状況が逐一送られてくるので、動きを合わせるのは難しくない。思ったより移動が遅くなりそうで、僕は頭の中で車のコースを調整した。内藤が仕掛けるポイントに、ジャストタイムで車を転がし、死体を回収しなければならない。今回は標的がいつも通る、住宅街の一角で殺すつもりだった。夜になれば人通りはほとんど無い。

 五分ほどして、「コンビニから出て来た」と内藤の声が入る。

「了解。予定通りにいきますか?」

「ああ。お前が来たら殺すよ」

 内藤の声に気負いは全くない。晴海からは二撃必要な殺し屋と揶揄されていたが、こうして話すだけで踏んできた場数が察せられる。

 だから僕は油断していた。内藤もそうだったと思う。

 僕が車を走らせる。住宅街の細い道に入るとすぐに、前を歩く二人の後ろ姿が見えた。内藤の前に、黒いジャケットに薄ピンクのスカートを着た女性が歩いている。そのまま接近すると、それに合わせて内藤が標的との距離を滑るように詰めていくのが見えた。

 僕が女を追い抜く瞬間、彼女は僕が乗る車を避けて僅かに道の端に寄った。その、意識が車に向いた瞬間、内藤は一気に近づき、銃口をぴったりつけて心臓と側頭部に発砲した。消音器をつけ、銃口は標的に密着させていたため、銃声はほとんど響かない。ドス、ドス、と鈍い音だけが車内の僕に聞こえた。

 僕は車を停めてトランクを開け、死体を引っ張ってきた内藤と一緒に、いつもの手順で袋詰めしていく。ジッパー付きの大きなビニール袋に死体を入れ終え閉めるとき、ふと違和感を覚えて手を止めた。

「早くしろ」

 その間にも、内藤はもう助手席に座っていた。相変わらず動作が恐ろしく速く、静かだ。僕だって現場に長時間留まるリスクは理解している。トランクを閉め、車を出した。

 だが、言わねばならないことがあった。

 アクセルを踏み、現場から二分間遠ざかって僕は告げる。

「内藤さん」

「何だ」

「これ、人違いじゃないですかね」

「はあ?」

 僕にはどうも、社長から見せられた標的の写真と同一人物に見えなかったのだ。

「いやいや、尾行していたし」

「コンビニから出たときに間違えたってこと、ありませんか」

「服装はちゃんと覚えていたっつの」

 内藤がそわそわし始めた。僕は信号待ちの間に、後部座席に手を伸ばし、標的の写真を探り出した。

「森本ユウミは、右目の目尻に大きな泣きぼくろがありますよね。さっき袋詰めしたとき、多分、ありませんでした。顔も違うような……」

 信号が青になったので走り出す。横目で内藤を見ると、眉間に皺が寄って、真っすぐ前を睨んでいた。

 内藤は、コンビニから出てくるところを見て、尾行を継続したと言った。もちろん、標的に見つかるわけにはいかないから、コンビニから距離を取って、見張っていたことになる。ならば、森本ユウミかどうか見分ける材料は体格や服装だろう。

 尾行している間、当然ながら背中を見続けることになる。顔を近くで、正面から見る機会は無い。

 服装や体格が似ていて、偶然同じ時間にコンビニにいた別人と入れ替わり、それを内藤が誤認して殺してしまったとしたら……。

「玉城」

「はい」

「この死体が誰であれ、処理しなきゃいけないよな」

「それはそうです」

 放置して警察に見つかったら殺人事件として捜査されてしまう。死体処理屋に引き渡して跡形もなく消してもらわねばならない。

「なら、とりあえず処理屋との約束の場所までは行く」

 内藤の拳が強く握られていることに僕は気づいていた。

「そこで、確認しよう」

 裏の世界には、死体処理屋という職業が存在する。薬品と機械を使って、人間の死体を処分する業者だ。通称は葬儀屋。

 日本の警察は優秀だ。死体が見つかれば殺人事件だと露見し、全力で捜査される。中には、一家皆殺しにしてそのまま放置しながらも捕まらないような猛者もいるが、ウチの会社では死体そのものを追跡不能なまでに処分して、そもそも殺人事件として捜査させない方針を取っている。

 今回僕たちは、葬儀屋を予約していた。彼らが所有する倉庫に死体を運べば、それで仕事完了のはずだった。

 その葬儀屋は僕が一人会社をやっていた頃から世話になっている。この辺りの殺し屋連中御用達というわけだ。

 重い沈黙の中、運転すること一時間。山間の倉庫に車を乗り入れる。中は暗かった。

「葬儀屋の連中、まだ来ていないみたいですね」

 僕がぼやく中、内藤はトランクに飛びついた。僕が車体の後ろに回り込む頃には、女が持っていた鞄を漁っていた。

 死体の方は顔の部分だけジッパーが開けられ、血の匂いが溢れ出ている。その顔を見て僕は確信を深めた。

 泣きぼくろが無い。別人だ。化粧で隠しているとか、印象が変わっているとか、そういうレベルじゃない。

「内藤さん」

 僕が声をかけると、内藤は座り込んでいて、力なく一枚のカードを僕に投げた。免許証だ。

「有馬コズエ。森本ユウミとは別人だ」


   ◇


「よくありますって。ドンマイ、ドンマイ」

 僕たちが途方に暮れていると、葬儀屋は倉庫の奥から現れた。最初から中にいたらしい。どうも、僕たちがバタバタとしているから様子を窺っていたようだ。倉庫に照明が灯り、内藤のへまが明るみに晒される。

 葬儀屋もまた会社だが、今日来ていたのは今井トワコ一人だった。黒毛の狐といった印象の女で、目が細く、髪が短い。いつも皮肉っぽい笑顔をぶら下げていて、いかにも人を食ったような話し方をする。

トワコは僕たちの会話から事情を察すると、ニヤニヤしながら目を細めて死体を入れた袋を閉じた。

「血が漏れると汚れるので、しまっちゃいますね。大丈夫ですよ。二体分のお金を払ってくれればウチはちゃあんと処理しますんで。いや、本当、間違えて殺される方、多いんですよ」

 僕たちの仕事にクーリングオフはない。間違えて購入する方は多いんです、みたいなノリで言われても反応に困る。命は失ったら元に戻らないのだ。

「内藤さん、どうします?」

「社長に報告するしかないだろう。この処理費を経費から出してもらわないといけないんだから」

 内藤は憮然としているが、相当悔しいだろうことは想像に難くない。人違いなんて初歩的なミスを犯したことを報告するなんて、僕なら恥ずかしくて涙目になると思う。

「自腹で出せば隠蔽できるかもしれませんよ」

 フリーランスをしていたおかげで、僕は相場を知っている。内藤が払えない額ではないはずだ。

「嫌だよ。それなら叱られる。お前やトワコから社長に伝わったら後が怖い。まあ、殺されはしないだろ。精一杯玉城のせいにして報告してやる」

「いや、無理あるでしょ。僕が到着した瞬間に殺していたくせに」

「社長はその瞬間を見ていない。何とか印象操作をだな」

「諦めてくださいよ」

 尚もぶつぶつ言っている内藤を、好きなようにしろ、という気持ちで放っておくことにした。なんにせよ、メインでアサインされたのは内藤なのだ。その事実は動かせない。

「聞きましたよ。三上さんとこに所属したらしいですね」

 トワコが作業しながら――その作業も、死体が入った袋をドラム缶に詰めるという物騒なものだ――話しかけてきた。

「私が言った通りでしょ。玉城さんはフリーに向いていないって」

「そうだね」

 僕が独立してすぐの頃、トワコに、どこかに所属するべきだと諭された。僕はお金にがめつくないから、個人事業主は似合わない、と。結果的にそれは真実で、僕は三年越しで彼女の忠告に従った形となっている。

「トワコの言う通りだった。経理が面倒すぎて、男泣きしたよ」

「そこですか。たしかに玉城さんに金勘定は似合いませんね。損な仕事ばかり請け負って貧乏になるタイプの経営者です」

「そこまでじゃなかったけど、もっと利益を上げられたはずだとは思う」

 トワコは手袋とゴーグル、マスクをし、ドラム缶の傍にあったポリタンクから液体を注ぎ込んでいく。あの薬品で人間の体は骨まで溶ける。そうなれば、どんな科学捜査でも殺人があったことを立証できない。

「ところでさ、間違えて殺しちゃうことって、本当に多いの?」

 ドラム缶からはシュワシュワと音がする。発生するガスは有毒とのことなので、僕たちはドラム缶から距離を取って話す。

「滅茶苦茶多いですね。殺し間違い、巻き添え、襲撃を返り討ちなどなど、予定外の殺しをしたから急いで処理してくれって依頼は年中あります」

「繁盛しているようで何よりだ」

「お宅らが繁盛しているからでしょ」

 そりゃそうだ。僕たちが殺すから、葬儀屋に仕事が回ってくる。

 そんな話をしていると、内藤の報告電話が終わった。

「社長はいなくて、晴海ちゃんが出た。超怒られた。もう今月分として計上しちゃったのにって」

 まだ今月は終わっていないのだが、先回りして仕事をこなさないと終わらないと日々ぼやいている晴海のことだ。今日の依頼も普段通りの経費になると踏んで書類を作っていたのだろう。

 修正作業が面倒なことは知っている。経理係がいることに感謝し、合掌。

「トワコ、僕は雇われになって本当に良かったと思っている。こんなとき、胃が痛くなるような思いをしなくていい」

 僕は鞄から現金の束を取り出し、トワコに手渡した。一人会社をやっていた頃なら、こんな無駄な出費、命が削れるのと同義だった。

「本当だね」

 枚数を確かめるトワコは上の空で答える。内藤は項垂れて車に手をつき、ドラム缶はシュワシュワ、パチパチと音を立てる。

 さて、失敗はしたけど、本来の依頼はまだ生きている。労働者たるもの、取り戻せるうちの失敗は取り戻さねばならない。

「リベンジだ」

 落ち込んだ内藤が僕に拳銃を渡してきた。

「何です?」

「次はお前が殺せ」

「え。内藤さんがやってくださいよ」

 繰り返すが、内藤がメインでアサインされているのだから。

 僕の言葉に内藤は淀んだ瞳を返した。

「今回、俺はツキが無い気がする。次も何かのトラブルが起こって殺せない気がするから、変わってくれ」

「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「縁起担ぐために、お前に代わるんだよ」

 僕はあまり験担ぎをするタイプではないが、内藤の気持ちもわかるため渋々頷く。一度ケチがついた仕事をやりたくないのは僕だって同じなのだが。

 ドラム缶の中の、無辜の女性に内心で手を合わせた。

 あなたの死は無駄にはしません。どうかご成仏を。


   ◇


 弊社、「コルクボード」にはいくつか社訓がある。その一つが、「標的に面が割れたら諦めろ」というものだ。殺し屋にとって最も楽で確実に仕留める方法は不意打ちである。怪しまれることなく、殺気を出さず、察知されることなくいつの間にか殺している。それが最も標的から対応され辛い。逆説、顔を知られていれば、殺すことは可能でも難易度が跳ね上がる。誰だって、街を歩いていて知り合いを見つけたら注意を向けずにいられない。

 内藤は一度森本ユウミを尾行した。非常に低いが、標的から顔を見られている可能性は0ではない。ならば、確実に見られていない僕が殺し役を務めるのは社訓に適っている。

 痛恨の失敗から二日後、森本家に張り込んでいた僕たちは森本ユウミが外出する現場に遭遇した。ただし、いつもと違う時間帯で。午後二時、完全に日中だった。

 ホストが働き始める時間帯ではない。買い物、友人と会う、いくらでも用は思いつくので、不思議というほどでもないのだが、気になるのは森本ユウミの表情がやたらと険しいことだった。大きな鞄を持ち、お洒落というよりは動きやすさ重視のジーンズ。

「どうします?」

 状況を伝えてインカムに話しかけると、内藤は即答した。

『行けるところまで尾行しよう。何か面白そうじゃねえか』

 僕たちは失敗を挽回するために動いているということを忘れたかのようなお気楽さだった。

 面白そう、じゃないんだよ。

「これで失敗しても僕のせいじゃありませんからね」

『失敗も何も、殺すわけじゃない。標的の行動パターンが変わったとしたら、それは把握しておくべきだろう』

 正論の皮を被っているが、僕は知っている。内藤は個人的な趣味で依頼の背景事情を調べる人間だ。森本ユウミが意味深長な行動を取ったことで、その好奇心が刺激されたに違いない。

 個人的興味に、僕を巻き込まないでほしいのだけれど。

「チャンスがあったら殺していいですか」

『俺としては泳がせて様子を見たい』

 呆れた。さすがにもう少し取り繕ってほしい。仕事の遂行よりも個人の興味を優先し始めたら、それは既にプロではない。

『と、思うが、お前の判断で殺していいぞ。さすがにな』

 僕の殺気が電話越しに伝わったわけでもないだろうが、内藤も殺し屋としての本分を忘れたわけではなかった。

 返事の代わりに溜息をインカムに吹きかけて足を動かした。

 後を追うが、僕たちは尾行のプロというわけでない。充分に距離を取って、辛うじて見える範囲で後をつける。

『何の用だと思う?』

 イヤホンから内藤の声が聞こえる。返事をしたものか、少し悩んだ。

『おおい、故障か?』

「壊れていませんよ」

『なんだ、すぐに返事しろよ』

「集中しているので、邪魔しないでほしいんですけど」

『集中ねえ。視野が狭くなってもダメだぞ』

 多分、この人は暇なだけだ。一人で車内に残ってだらだらと僕についていくのに飽きている。誰のせいだと思っているのか。

『俺たち、かれこれ一週間くらい森本ユウミの生活を監視してきたよな』

「そうですね」

『その中で、お前が異常だと感じた』

「異常というほどでは……」

 なんとなく、違和感を覚えただけだ。森本ユウミが出掛けるのは基本的に夜だ。その他は家に閉じこもっている。通販や出前が頻繁に届いているから、どのような生活を送っているのか透けて見える。

 通販では済まない用に出かけたと考えることもできる。服を買う、友人と会って午後のお茶を楽しむなど。だが、それならばもう少し服装に気を遣うだろうと思ったのだ。夜、ホスト通いをするときは精一杯のお洒落といわんばかりに気合をいれているのだから、その辺に無頓着な人間ではあり得ない。

 家を出て行った表情が妙に思いつめたものだったことも気になる。なんというか、新しく買った服の背中のタグが妙に気になるような、無視できない感覚。異常と断言できるほどではない異変。

『そういう直感は大事だぞ。たまに面白いことが起こる』

 面白いことなんて起きてほしくはない。普通に行動し、普通に殺されて欲しい。僕は周辺地図を思い浮かべ、早めに行動に移ることにした。

「面白いことになりそうなところ申し訳ありませんが、そろそろ仕留めるので車回してください」

 もうすぐ人気のないエリアを通る。周囲がブロック塀に囲まれていて見つかりにくい、いいポイントだ。車を回しておいて僕のタイミングで動ければ、充分に殺害可能。森本ユウミが汗を拭う仕草が見えた。僕も汗が目に入らないように額を拭いておく。

 もうすぐ梅雨だな、そう思って間合いを詰め始める。

『あと三十秒待ってくれ』

「了解」

 ちょうどいい。このペースで距離を詰めれば、間合いを詰めるのに二十五秒。殺し始めて、運ぶ準備をするのに五秒。少しばかりの余裕すら持てる。

 森本が角を曲がった。僕は僅かに早めた足で後を追う。だが、角を曲がった瞬間に目に入って来たのは、猛スピードで向かってくる乗用車だった。

 スローモーションのように見えた。真っ黒な車体が細い道幅にそぐわぬ速度で、まるでブロック塀ごと削り取るかのように無遠慮に突進してくる。僕は咄嗟に視界の右端のブロック塀までの距離を測った。

 乗用車は森本ユウミを引っ掛け、ふらついて僕の方に向かって来た。僕は跳躍し、猫のようにブロック塀に飛び乗る。黒い車は甲高いブレーキ音を響かせ、僕の下をえぐるように擦って止まった。

『何の音だ』

「森本が轢かれた」

『何だと』

 僕はぐらつく崩れかかった石塀の上を走り、森本ユウミの元へ向かった。無論、生死を確認するためだ。そして同時に懐の消音器付き拳銃に右手を這わせる。同業者が僕を狙ってきた場合、追撃があるはずだ。なんなら、先にドライバーを撃ちたい気すらする。

 道路に飛び降りると、森本が身じろぎして起き上がろうとしていることがわかった。少なくとも外傷は酷くないし、致命傷を負ったわけでもない。

 ただ、左足があらぬ方向に曲がっている。間違いなく骨折していた。

『同業者か』

「分からない」

 潰れかかった乗用車から、スーツ姿の男が転がるように出て来た。いや、実際転がった。相当動転しているらしい。

「だ、大丈夫ですか⁉ お怪我は」

「僕は無傷です。この方が怪我をしました」

 言いながら、僕は注意深く男を観察する。僕を狙った別の殺し屋ならば、一般人の振りをして接近し、僕に攻撃してくる可能性があるからだ。

「ああ、あの、申し訳ありません。きゅ、救急車を」

 男は僕に背を向けて電話を掛け始めた。まだ判断がつきかねる。こいつは殺し屋か、一般人か。

「あの」

 そんな僕の思考を打ち切るように、か細い声が下から聞こえた。森本ユウミだ。

「そこの方、これを」

「何ですか」

 僕が耳を寄せると、森本ユウミは痛みを堪えて必死に手を動かし、手提げ鞄を僅かに持ち上げた。

「これを、お願いします」

 僕が逡巡した末に受け取ると、安心したように目を閉じた。咄嗟に脈を取ると、正常なテンポで刻まれていた。どうやら気絶しただけらしい。死んだかと思ったし、今から殺そうかとも思ったが、あいにく持っている武器が銃だ。しかもそばには人がいる。とどめを刺すことができない。

 ドライバーの男を見ると、ここの場所を伝えるのに苦労していた。電柱を探して首を左右に振っている。電柱には住所が記載されている。それを使って場所を示すのだろう。

 今、確信した。彼が殺し屋で救急車を呼ぶ演技をしていたなら、僕が森本ユウミと会話している間を狙わないはずがない。僕は体勢が悪く、手も塞がっていた。

 つまり、偶然居合わせ、偶然森本を轢いてしまった無関係の一般人。殺し屋にとって、最も厄介な邪魔者。

 僕はこっそりとその場を後にした。ケチがついた仕事はこれだから嫌なのだ。運が無いときはとことん運が無いから。

「どうすんだよ、これ」

 森本から受け取った鞄。「お願いします」と言われても、一体何がどういうことなのかわからない。一旦、内藤が運転する車と合流してその場を離れていく。

 助手席で内藤に一部始終を語ると、当然、訊かれた。

「それ、何が入っているんだ。何をお願いされたんだ」

「僕だってわかりませんよ」

「中、見てみろよ」

 鞄は、ファスナーで上部を塞ぐことができる手提げだった。衝突の衝撃でも放さなかったことから、相当重要なものであると想像できる。

 出てきた物は、財布、スマートフォン、家の鍵などの当たり障りないもの。そして、二つの封筒だった。一つは分厚く、一つは薄い。

「なんか、こういうこと、前にもありましたね」

 僕の初仕事のときだ。

「指輪が出てきたら笑えるな」

 ありそうで困る。だが、分厚い封筒の中身はそれで察せた。

「指輪ではありませんが、五百万円の札束出て来たんですけど」

「わお」

 内藤がチラチラとこちらを見る。気持ちはわかるが前に集中しろ。

「もう一つの封筒は、手紙みたいですね」

「何が書いてある」

 僕は内容に目を通し、二度見し、深呼吸して三度見た。

「お前の犬を預かった。返してほしければ十五時に現金五百万円を持って、南田西公園の北端ベンチに来い」

 車内に微妙な沈黙が流れた。車は柔らかいアクセルで加速する。

「玉城、怒らないから本当のことを言いなさい」

「すいません。正しくは、お前の犬を預かった。返してほしければ十五時に現金五百万円を持って、南田西公園の北端ベンチに来い。警察を呼べば犬の命は無い、です」

「なるほどねえ。……マジ?」

「そこ、コンビニありますよ。止まりましょう」

 僕らには冷静になる時間が必要だ。


「よし、順番に読んでいこうか」

 内藤が僕から紙を奪ってじっくりと読んでいく。順番に読むもなにも、ごくごくシンプルな身代金要求の脅迫文だと思うのだが。

「お前の犬を預かった。お前、というのは森本ユウミだな」

「森本タクミさんの犬かもしれません。森本家の飼い犬という意味かも」

「普通は家で飼うものだしな。返してほしければ十五時に現金五百万円を持って、南田西公園の北端ベンチに来い。五百万円を持って来なければ殺す、とは書いていないな」

「警察を呼べば犬の命は無い、と書いていることから、殺す気はあるように思えますね」

「ふむ」

 内藤は顎に手を当て、手紙をまじまじと読む。

「犬って殺す必要あるか?」

「は?」

「犯人たちの顔を人質に覚えられたら、解放するわけにはいかない。だから殺す必要がある。でも犬なら、その辺に放り出せばそれで済む。五百万円を持って来なければ、殺しはしないが、山にでも放り出して二度と森本家には帰らない、そういう意味じゃないか」

「だったら何なんですか」

「犬が生きる可能性が高まった」

 だから何だというんだ。そんなどっちでもいいことに食いついて、馬鹿なのか。

 という心の声を噛み殺し、僕は「それで?」とだけ促す。

「犬には帰巣本能が備わっているといっても、どこかわからない山から森本家まで帰ってくることは困難だ。この五百万円がなければ、おそらく犬は死ぬ」

「そうですね」

「助けよう」

 僕は鼻に指を当て、大きく息をして、腕を組んだ。

「怒らないので、もう一度仰っていただけますか」

「助けよう。犬を」

「どうしてそうなるんですか」

「怒るなよ」

「別に怒っていませんが」

 これまで数えきれないほどの人を殺してきた。それで心が動いたことはほとんどない。あっても罪悪感ではない。内藤もこの仕事を続けているということは同じような性質のはずだ。なのに、どうして、犬を助けようという発想に至るんだ。

「犬に罪はない」

「それはそうですが、僕たちが殺す相手は、たいてい何の罪もありませんよ」

「罪の無い人間なんていねえよ。お前、自分は潔白だと神に誓って主張できるか」

「聞く相手が悪すぎませんかね」

 閻魔様だって即決で地獄に堕とすに決まっている人種に聞いてどうする。

「犬に罪はない」

 内藤は繰り返す。

「罪も罰も、人間の人間による人間のためのルールだ。動物が何をしようと、そこに罪は発生しないんだよ」

「なる、ほど?」

 納得しそうになって我に返る。だから何だというのか。内藤は僕ではなくフロントウィンドウの向こうを睨みつけ、見えぬ敵を射殺すかの如く鋭い目をしている。

「犬を誘拐するなんて、許せねえじゃねえか」

 本気で言っている。

 内藤が愛犬家とは知らなかった。僕なんて、犬くらい見捨てればいい、とすら思っていたのに。

「内藤さん、僕ら、森本ユウミの暗殺を依頼された身だって覚えていますよね」

 前を睨みつけていた内藤の眉間に困惑が浮かぶ。

「玉城が言った状況じゃ殺せなかっただろ。目撃者ごと殺すわけにもいかなかった。事故の痕跡がどうしようもなく残っちまっている。森本ユウミは今頃救急車の中か病院だし、搬送された病院すら今の俺たちにはわからない。言っている意味、わかるよな?」

 僕は両手を挙げた。どうすることもできない。

 内藤は頷く。

「殺すこともできず、顔を見られ、挙句に人違いで殺しちまった。情けないと思わねえか」

 人違いをしたのは僕ではなく内藤なのだが、ペアとして情けなくないのかと問われれば、否定できない。何一つ上手くいっていない。

「せめて犬くらい、助けてやりたいじゃねえか」

 熱く語る内藤を冷めた目で見ながら、僕は五百万円をネコババすれば早いのでは、と考えていた。


   ◇


 南田西公園の北端ベンチ。どっちがどっちの方角かわからなくなるような名前の場所を僕たちは目指した。

 軽く作戦会議を行い、僕がベンチに行くことにした。内藤が行きたがったが、今は運気がないから、という理由で押し切った。それを言うと弱るとわかっての説得である。

 インカムだけは仕込み、イヤホンは外す。誘拐犯がどのような手段を用いてくるか不明だが、離れた場所から見ている可能性が高い。イヤホンをしていては、誰かと話していることが筒抜けになってしまう。

 腕時計を見ると、十四時五十五分。ちょうどいい。南田西公園はわずかな遊具と広いスペースが広がっていて、あちこちにベンチが据え付けられている。北端、北端、と呟きながら公園内を歩くと、意味ありげな荷物が下に置かれた無人のベンチがあった。わかりやすいが、よく落とし物として届けられなかったものだ。

 僕はそのベンチに座り、公園内を観察する。親子連れが多い。誘拐事件が起こっていることなんて、微塵も想像していないだろう。しかもそれが犬で、助けようとしているのが殺し屋とは。

 さて、どう来るか。

 いきなりこの場で現金を受け渡す展開になるとは思っていない。しばらくは誘拐犯の指示に従い、警察の尾行がないか、一人で来たのか、確認されることになるはずだ。つまり、ここにいれば何かの指示が来る。そう、例えばこのベンチの下の荷物に携帯電話が入っていて、僕が座った途端に鳴り始めるとか。

 ピリリリリリ。

 ほら来た。

 僕は身をかがめ、ベンチの下の鞄を引っ張り出そうとし、手を止める。

 音はここから鳴っていない。

 首を回して音源を探ると、右から聞こえた。そろりそろりと歩きながら耳を澄ませると、一つ隣のベンチの背もたれの裏に携帯電話がテープで貼り付けてあった。ガラケーというやつだ。それが音を鳴らしている。

 僕は振り返り辺りを見渡す。特に二つのベンチの位置関係を。

 うん、こっちの方がやや北にあるな。

 しょうもないミスをして気恥ずかしくなりながら、テープを剥がし、電話に出る。

「もしもし」

『お前は誰だ』

 今から言おうとしていたことを先に言われてしまった。でも、そうか。相手は森本ユウミか森本タクミが来ると思っているはずだから、どこの馬の骨ともわからない若い男が来れば、そりゃあ、お前は誰か、と不思議になるだろう。

「森本ユウミさんの代理で来ました」

 僕は持っていた、森本ユウミのバッグを軽く持ち上げ、体を回す。どこかで見ているなら、この動作も見えるはずだ。どう見ても女物のバッグを持つ若い男。少しは説得力があるのではないだろうか。

『歩きながら話せ。本人はどうした』

 言われた通り、適当にぶらつく。男の声だなあ、と意外でもない事実を確認しながら。

「来る途中に交通事故で動けなくなっちゃったから、その場にいた僕が代わりに来ました」

 そう言うと、急に電話の向こうが静かになった。マイクを手で押さえ、相談でもしている気がする。向こうの状況を想像すると、少々笑える。どう想定しても、森本ユウミが交通事故で動けなくなるなんてシナリオは描けない。しかも僕は無関係の人間ときたもんだ。どう扱えばいいのか、さぞ戸惑っていることだろう。ゆっくり会議していただきたい。

 暇なので数を数えていたら、ちょうど一分で向こうから声がかかった。

『金はあるのか』

「もちろん。五百万円ある。そっちこそ、犬は無事なんだろうな」

 含み笑いが聞こえた。

『鳴き声でも聞かせてやろうか』

「いや、いいよ」

 犬を鳴かせようと思えば、怯えさせて吠えさせるか、叩いて鳴かせるかになる。どちらにせよ犬が可哀想だ。

「それで僕はどうすれば……」

 僕が言いかけたとき、炸裂音が公園に響いた。咄嗟に地面に伏せて頭を庇う。幸い、飛来物は無く、代わりに悲鳴と鳴き声の大重奏が南田西公園に響き渡り始めた。

 電話を耳に当てたまま状況を把握する。先ほどまであったベンチの一つが粉々になっていた。僕が、最初に間違えて座った、北から二番目のベンチだ。地面が小さなクレーターのように凹んでいる。ベンチから少し離れた場所で、血を流して座り込んでいる親子の姿があった。

『お、俺らに逆らうと、どど、どうなるかわかったか』

「……ようく、わかりました」

 電話の向こうの声が震えている。それでわかった。素人だ。それも、とびきり神経がイカれている奴。プロならば、これだけ派手なことはしない。やったとしても、これほど動揺することはない。爆弾の威力もわからず使うなんて、迂闊にもほどがある。

 僕の中の危険度ランプが一気に真っ赤に染まる。合理性を欠いた相手ほど、何をしてくるかわからない。

 泣き叫ぶ親子を見ても心は動かないが、もしもあのまま不用意に鞄を開けていたらと思うと戦慄する。下手をすれば何かの刺激で爆発していた。至近距離で爆発に巻き込まれて助かる威力ではない。

『自分の携帯電話を捨てろ』

「そう言われるだろうと思って、元から持ってきていない」

『嘘をつくな』

「嘘じゃない。どうやって証明すればいい?」

 また、沈黙。

『わかった。じゃあ、その渡した携帯電話のメモ帳に次の場所を書いておいた。そこへ行け』

 電話はそれで一方的に切れた。なんというか、喋るほど馬脚が露わになるようだ。準備不足というか、経験不足というか、とにかく僕よりも相手の方が緊張していて、そのせいか、こちらはどんどん冷静になった。

 場所を指示されているというメモ帳アプリを開く。味気ない住所だけが書かれていて、どこなのか全くわからなかった。

 公園を去り際に爆発現場の様子を見ると、警察官が三名、取り囲むように立っていた。

 なるほど、これだけ派手にやれば、隠れていた警察官をいぶり出すこともできそうだ。考えているのかいないのか、よくわからない犯人だ。


 車に戻ると、内藤は後部座席の下に寝転がっていた。作戦会議の結果、僕は一人であると思わせた方がよいため、内藤は外から見えないように車内でも隠れていることにしたのだ。

「今の爆発、何だよ」

「どうも犯人が仕掛けていたみたいですよ。危うく爆死するところでした」

「自分から警察の注目を集めたってのか」

 僕は返す言葉に困った。そう、警察を呼ぶなと言ったわりに、結局警察を呼び寄せている。

 次の目的地をカーナビに入力していると、内藤が電話している声が聞こえてきた。

「よう、晴海ちゃん。今、南田西公園で爆発騒ぎがあったんだよ。……いや、成り行きで通りかかったんだって。それで、ちょっとニュースとかSNSとかで様子見てもらえない? ……ごめんって。俺、今、腰痛になりそうな体勢なんだよ。……いや、そこを何とか。忙しいのはわかっているって。……わかったよ、こっちの状況を話すからさ」

 どうも晴海に渋られているようで、内藤は僕たちが陥っている状況について説明を始めた。その間にも、僕は公園の駐車場を出て車を走らせる。

 一通り話し終えると、内藤は寝た体勢のまま、蛇が這うように座席の上に上がってきた。

「ついてくる車はあるか」

「さあ。今のところわかりません」

 内藤は後ろから見えないように、後部座席に寝転がったままスマートフォンを操作する。

「すごいぜ、晴海ちゃん。さっきからばんばんリンクが送られてくる。爆発した瞬間の動画やら、犯行声明やら」

「犯行声明?」

「ああ。どうも、動画投稿サイトに声明が挙がっている」

 内藤がそう言うと、明らかにボイスチェンジャーを使った声が車内に流れ始める。

『我々は株式会社アトモスホーンと国の癒着に気付いた者である。公園の爆発はただのデモンストレーションだ。これから本格的な行動を開始する。我々の要求は、執行役員の相羽、森本、出川、本田の速やかな退陣、そして国との癒着を認め、然るべき場で裁かれることだ』

 短いメッセージだった。

「面倒なことになったな。犬を助けるつもりが、それだけじゃ終わらないらしい。晴海ちゃん情報では、森本タクミはアトモスホーンの役員だぞ」

「ええ?」

「玉城の初仕事もアトモスホーンのお偉いさんの息子だったな。縁があるというか、そこが今賑わっているんだろうな。業界的に」

 殺し屋業界が賑わうなんて世も末ならぬ、会社も末だが、これは、どういうことだ。

「アトモスホーンって何の会社ですか」

「化学薬品の会社だってよ。俺は聞いたことがないけど」

 僕もない。まあ、知らない会社なんて無数にあるからいいとして、そこを狙ったテロが起き、僕たちはそこの役員から妻を殺す依頼を請け、その妻は犬を誘拐された。

 車は海へ向かっていく。僕はさっきから考えていたことを内藤にぶつけた。

「犬って、動物の犬だと思っています?」

「他に何があるんだよ。ああ、何かの隠語だって言いたいのか。その可能性はあるな」

 察しが良くて助かる。犬と呼ばれる重要機密や物品があって、テロリストがそれを盾に森本を脅しているという可能性だ。

「わからないことだらけです。会社の一大事なら、せめて森本タクミが受け渡しに行くべきでしょう。それに、警察を呼ぶなと言いつつ、堂々と声明を出してしまっている。あれじゃあ、警察に動いてくれと言っているようなものですよ」

「向こうは一枚岩ではない、ってことか」

 それだけで済ませていいものなのかわからない。

 そこで晴海から電話がかかってきた。内藤と会話が始まる。

『どう? 役立った?』

 怠そうな声が電話から聞こえてきた。内藤がスピーカーモードにしたようで、会話がよく聞こえる。余計な仕事を増やして申し訳ない。

「大いに。晴海ちゃん、俺たちは今何をさせられているんだと思う? 爆弾テロと同時に犬が誘拐されたって、どういうことだろうね」

『犬なんていないんじゃないの』

 晴海はいかにも思いつき、という調子で言った。

『森本タクミのことを犬って呼んでいるだけじゃない? なんか、あだ名がポチだから、とかそういう理由で』

「まさか、そんな……。いや、待てよ」

 内藤が一度は笑い、そして悩み出した。僕も同じ気持ちでハンドルを操作する。テロ、誘拐、森本タクミではなく森本ユウミが身代金の受け渡しに出向いたこと。もしも森本タクミが誘拐されたとするならば。

「否定できないな」

「できませんね」

『あら、私いいこと言っちゃった?』

「晴海ちゃん、森本タクミからは前金しか貰っていないよな」

『当たり前じゃん』

「もしも晴海ちゃんの説が正しくて、このまま森本ユウミを殺したら、俺たちは誰から報酬を貰えばいいんだ」

 そう、森本タクミが死ねば僕たちにお金が入らない。既に人違いで殺した分、死体の処理費用がかかっている。このままでは無駄な殺しになってしまう。

「玉城、案外重要かもしれないぞ。俺たちがすることは、依頼人の救出かもしれん」

 犬を救おう、と意気込んでいたときよりも、内藤の表情に気合が入っていないことに溜息が出た。逆だろう、普通。


 森本邸を含むアストロホーン役員の自宅が相次いで爆破されたと報せが入ったのは、公園の爆発から十五分後のことだった。

 僕たちの車は港からほど近い倉庫前に停まっていた。どこかで食品加工工場が動いているのか、ゴウンゴウンと音が聞こえてくる。あちこちの冷凍、冷蔵庫の稼働音も響き、軽く振動が体に伝わる。

「内藤さん、まだ僕らには帰るという選択肢があります。森本邸が爆破されたということは、森本が在宅であるタイミングを狙ったということでしょう。ならば、この先に依頼人はいません。僕らに報酬を払う依頼人が生きているかもわかりません。一旦体勢を立て直して、森本タクミの安否を確認してから出直すことができます」

 そして、この先にいるのはテロリストだ。僕らが普段相手にしている素人とは違う。武装している可能性は高いし、警戒しているところに正面から入っていくことになる。

「玉城、本当に犬が誘拐されていたらどうする」

「犬だって帰る場所がありませんよ。爆発しちゃいましたから」

「死ぬよりはマシだ」

 僕は大きなため息をこれ見よがしに吐いて見せた。シートベルトを外す。

「内藤さんは、本当に犬が誘拐されていた場合を心配しているんですか」

「どういう意味だよ」

 内藤の表情に険が走る。だが、こちらも真面目だ。言わないわけにはいかない。

「犬のために僕らは命を張るっていうんですか」

 はっきりさせておかねばならない。ここまでは酔狂で済ませて来たが、僕は見返り無しに我が身を危険に晒すつもりはないのだ。

 フロントミラーでチェックすると、内藤はジャケット内側のホルスターから拳銃を出していた。いつものように消音器付きである。スライドを半分動かし、銃弾が装填されていることを確かめている。

 やるか、と身構えた。

 僕たちは殺し屋だ。必要があれば身内でだって殺し合うことはある。僕は今まで経験がないが、仲間割れで壊滅した組織の噂なんて腐るほどある。

 だが、内藤は拳銃をホルスターにしまった。

「俺がこんな仕事をしている理由はシンプルだよ」

「何です?」

「人が嫌いだからだ」

 それは意外な言葉だった。僕や晴海、社長に気さくに話しかける姿からは想像できない言葉だったから。

 僕は人を殺すことに抵抗が無い。だが、それが人嫌いを表すかというと、そうでもない。よく言うことだが、好きの反対は無関心。僕は根本的に他人に無関心であると自己分析している。それは、嫌いともかけ離れた感情だ。

 内藤はより積極的な意味で言葉を使った。好きの反対としてではなく、はっきりとベクトルを持って。

 でないと、「人が嫌い」なんて言葉は出てこない。

「別に晴海ちゃんや社長まで嫌いってわけじゃない。人類皆殺しにしてやろうなんて考えているわけでもない。ただ、なんつうの、相対的に、他の生物よりは嫌いなんだ」

「他の生物というと、犬とか、鯨とか?」

「まさに、犬とか鯨とか馬とか山羊とか、そういう奴らと比べてだ」

 内藤は狭い車内で体を解し始めた。

「俺は、その中でも一番、犬が好きだ。人間と犬、どちらか片方を助けろと言われれば、俺は犬を助けるよ。悪かったな、ここまで付き合ってもらって。ここからは俺だけで行く。森本タクミは死んだかもしれないが、森本ユウミはまだ生きている。俺は飼い主の元に犬を返す」

 僕はシートにもたれて、ガシガシと頭を掻いた。自分の銃をチェックする。

「向こうは僕の顔を見ています。ここで内藤さんが行けば、確実に怪しまれます。身代金と交換するためにも、ここは僕が行った方がいいでしょう」

「玉城……」

「ここまでついてきたんで、付き合いますよ。ここで見放したら、社長に何て言い訳すればいいんですか」

 すでに本来の依頼とはかけ離れた所に来てしまった。最早僕らを動かしているのは好奇心と犬を想う気持ち、結局のところ、やっぱり酔狂だ。

 自嘲じみた笑いが出た。

「何が可笑しいんだ」

「いや、内藤さんもこだわりが強いな、って思って」

「悪かったな」

「いえいえ、こだわりがないと、こんな仕事をしやしません」

 安定した、平穏で、血なんて見ることなくて、命の危険なんて欠片も感じない人生を選ぶことだってできた。今だって、僕はその気になれば普通の企業に就職できると思っている。

 だけど、この仕事を選び、一度は独立までした。そんなの、こだわっていないわけがない。

「お前も犬が好きだったのか」

「違いますよ」

 どこをどう取ったらそう思うのだ。いい感じに気分が前向きになったのだから、水を差さないでほしい。

「犬じゃない可能性もあるぞ。爆破事件と一連の、企業への攻撃だとしたら、本当に極秘情報なのかもしれん」

「もう、行ってみないと真実はわからないでしょう」

 僕は自分の銃の銃身を持って、内藤に渡す。

「武装していると穏やかに進まない可能性があるので、これは預けます」

「わかった」

「最後に作戦会議をしましょう」

 僕はずっと、この五百万円を持って逃げることを考えていた。何の責任も無い拾得物だし、森本ユウミだって僕たちを追跡することはできない。森本ユウミを殺せなくても、この五百万円があれば依頼を断ってお釣りが来る。

 だけど、それでは納得しないのだ。内藤も、そしておそらく社長も。

 殺し屋を選んだ僕や彼らには、それに対するこだわりがある。誰も殺さず、偶然手に入れたお金を得ても、きっと皆、満足しない。

 だから考えた。皆が納得する方法を。

 僕の命を預けるに足る、作戦を。


 じゃあ、行ってきます。

 住所が示した倉庫まで、意識してゆっくりと歩いていく。最悪、近づいただけで爆破される可能性もないわけではない。

 僕は一度、足を止めて倉庫の屋根を見上げた。監視カメラがある。

「ここ、カメラあります」

 口を映されない角度に動かして、インカムに喋る。イヤホンは外しているので、内藤からの返事は届かない。

 倉庫の扉は両引き戸になっており、今は鍵もかかっていなかった。本来は大型車両が通過できるように造られているのだろうが、今は僕一人だけである。薄く開け、中の様子を窺う。

 僕が開けた扉の隙間から差し込んだ光で奥まで細く照らされる。そこには六人の男がいた。一人が椅子に座り、取り囲むように五人、明らかに柄が悪そうな男たちが立っている。

 少なくとも、見える範囲に銃はない。だが、全員が隠し持っていた場合、僕は抵抗する間もなく殺されるだろう。

「早く入って来いよ。話ができねえ」

 椅子の真後ろに立った、金の長髪の男が言った。倉庫内はほとんど空で、ぐわんぐわんと反響する。しかし、公園で電話した相手でないことは確かだ。落ち着きが違う。僕はライオンとあだ名をつけることにした。多分、このライオンがリーダーだ。

 僕は息を整え、踏み込んだ。全身を晒し、そのままツカツカと倉庫の真ん中まで踏み出す。

「ここに五百万円入っている」

 森本ユウミから預かった鞄を突き出した。

「犬は無事か」

 僕が問うと、数秒空虚な間があり、ライオンが笑い出した。つられるように、周囲の男たちも笑いだす。例外は椅子に座った男だけだった。よく見ると、彼は椅子に拘束されている。両手足を縛りつけられ、身動きできない状態だ。

 思っていたのと、違うな?

「お前、本当に何も知らないんだな」

 ライオンが嘲るように言う。

「夫人が事故って、金を預かってきたってのは、マジなのかもな」

「マジなんですよ。すいません、どういうことなのか、説明してもらえませんか」

「どんなお人よしだよ。普通、その金だけ持って逃げるだろ」

 その案は数十回頭によぎっていた。

「そうしたいのは山々だったんですが、犬が死んだら寝覚めが悪いもので」

 僕ではなく、内藤の寝覚めだけれど。あとは、職場の空気が少し悪くなるかもしれない。

「犬ってのはこいつだ」

 ライオンが椅子を叩いた。座っていた男がびくりと体を震わせる。

「犬飼って名前だから、犬だ」

 僕の中で木魚が鳴った。ポクポクポク、チーン。

 指示されたわけでもないのに、地面に膝をついた。

 人間なら見捨てればよかった。

「どうした?」

「犬ってそういうことだったんだと思って」

 本物の犬でも極秘情報でもなくて、ただの人間だったとは。それも、森本タクミですらなく、どこの誰とも知れない人間。僕はそんな奴のために体を張って、命を張って、ここに来たのか。

 やっていられない。

 僕はどっかりと胡坐をかいて座った。なんだかもう、いろいろと気を張ったのが馬鹿らしい。

「どうして森本ユウミは、その犬飼君のために必死になったんだ」

「急に堂々とし始めたな」

「普通の誘拐事件だと思わなかったんだよ」

 普通の誘拐事件なら気を張るべきだと言う内なる自分の声が聞こえたが無視する。どうせ抵抗はできない。

 ライオンは面白がるような目線を向けてくる。周りの奴らは気味悪がり、犬飼は怯えが増した。

「森本夫人が入れ込んでいる男がこいつだからだよ。あの女、いい歳してホスト通いにハマってんのさ。まあ、それはいい。問題は、この犬飼には借金があるってことだ。それが五百万円。普通に貢がせたら完済までどれだけかかるかわかったものじゃねえ。適当なところで行方を眩ませられても困る。最近、こいつ小金を貯めだしていたからよ。ということで、森本夫人に払ってもらおうってわけだ」

「夫人に五百万円払う能力が無ければどうしたんだ」

「払える見込みがあったからやったんだ。足りなきゃ、取れるだけ取ってこいつは適当に処分したさ。その気になれば臓器でも売れる」

 犬飼が無言のまま震え出した。たしかに、僕は使わないがそういう業者もある。

 臓器目的の殺しの場合、臓器が腐らないうちに移植するため、殺すタイミングや方法が重要になる。殺し屋というより、拉致して、然るべきタイミングで殺すことになる。僕らのやり方とは合わない。連絡先は知っているし、一人会社時代は何度か手伝ったものだが、肌に合わないと感じたのでそれ以降関わっていない。

 ライオンがその手の業者とコネクションを持っているのであれば、堅気ではないだろう。犬飼が恐れるのも当然だ。

「ちょっといいか。ベンチを爆破した理由は何だ」

 それまで立て板に水で喋っていたライオンが黙った。周りの男たちも、目線こそ僕から動かさないが、余裕の笑みが消えた。正直な連中だ。

「脅しのつもりだったんだがな。こっちの本気度を見せるためによ。ただ、あんたのふてぶてしさを見る限り、大した効果はなかったみたいだな」

「どうして森本ユウミの家まで爆破する必要があった」

「警察を呼ぼうとされた」

 ライオンが即答する。

「あの家は盗聴している。夫人が家を出たことはわかっていたし、夫の方に用はなかった」

 この場の人間関係がなんとなく見えてきた。

 ライオンは男五人のリーダー。闇金に近い金貸し業を営んでいる。そして、拘束された犬飼以外の四人は、リーダーに従うだけの素人だ。全く発言しないのは、ライオンにそう指示されているから。迂闊なことを言わないように。

 この場合の迂闊なこととは、

「爆弾は、お前らの仕業じゃあないんだな」

 男たちの視線の種類が変わる。目を逸らさなければ嘘がばれないと思っているのなら、大間違いだと教えてやりたい。

 違和感はずっとあった。警察と関わり合いになりたくない様子なのに、爆弾をさも自分たちの仕業のように語った。来る道中だって警察車両が何台も走っていて、検問を敷かれたらと思うと冷や冷やしたのだ。

「偶然爆発が起こって、そこに僕や、多分君らのうちの誰かも居合わせて、プレッシャーを与えるために利用したんだろ。誰より驚いたのは君らかもしれないな。同じ場所で爆弾テロが起きるなんて」

 一連のアトモスホーン脅迫事件と爆弾テロ、これを除いて自分たちの状況だけを見ればシンプルだ。単に森本ユウミが入れ上げて舞い上がっている犬飼が拉致され、その身代金受け渡し現場に向かう際、車に撥ねられて僕たちに五百万円が預けられた。「犬」は森本ユウミなら気づく犬飼の隠語であって、アトモスホーンとは何の関係もなかった。もちろん、犬そのものでもなかった。

 この会話は内藤にも聞こえているはずだから、今頃外で脱力していることだろう。

 よっこいしょ、と声を出して立ち上がり、僕は横に歩く。

「ここには、僕含めて七人の男。椅子に座っているのが犬飼君で、立っているのが拉致犯」

「おい、勝手に動くな」

「そりゃ悪いね。壁際が落ち着くから、つい移動しちゃった。広い場所の真ん中ってそわそわするんだよ」

 僕は森本ユウミの鞄を放り出した。鞄からも距離を取り、壁にもたれかかる。

「さっさと帰りたくなってきたもんで、それ、中身確かめてくれ。犬飼君と交換しよう」

 僕の中で警戒心はあれど、恐怖心はもう無かった。こいつらは充分に理性的だ。ライオンをリーダーに、統制が取れている。爆弾も、その場で起こった事件を利用しようとして上手くいかなかっただけ。どちらかと言えば、運が悪かった。爆弾なんて知らない、と言うわけにもいかなかったのだろう。そう言われても僕は絶対信じないし、想定外のことが起きていると悟られたくはなかったはずだ。ならば爆弾を、僕を委縮させるために使用した方がよかった。おそらく、それもライオンの指示だ。

 ライオンが機能している限り、唐突に僕を殺すようなことはない。身代金も全く関係なく私情で動いていて、姿を現した瞬間に蜂の巣にされる展開を最も恐れていたのだから、状況はかなり好転した。

 ライオンが顎をしゃくって、部下の一人に鞄を確認させる。五百万円が入った札束を見て、ライオンは頷いた。

 犬飼は、森本ユウミの愛人というわけだ。大っぴらに警察を頼ることもできない。夫を頼ることもできない。ライオンの計画は危なっかしいようで、意外と人間の心理的な抵抗をしっかり押さえている。爆弾テロ騒ぎがなければ、密かに、誰も知らないままに森本家の資産が五百万円減っただけの事件だった。

 森本ユウミが病院に担ぎ込まれ、森本邸が爆破されたとあっては、警察も森本ユウミの行動に気付くかもしれない。そこからライオンたちに捜査の手が伸びるかもしれない。追い詰められているのはこいつらの方なのだ。

「犬飼さん、あんたの借金、僕が帳消しにしてあげましょうか?」

 倉庫内に数秒、沈黙が流れる。

「できるのか?」

「ええ、まあ。単純に、ここの人たちが納得すればいいんですよね。借金、肩代わりしてあげますよ」

「お前、何を言いだすんだ」

 ライオンが静かに言い、僕はふっと唇を緩める。

「その五百万円、僕がもらう」

 一瞬で凍り付いた空気の中、僕はすっと両手を挙げる。男たちが背中に手を回し、各々の獲物を抜いた。特殊警棒、スタンガン。ライオンだけは手を背中側に回したままだ。多分、あいつが一番危険なものを持っている。

「お前、何者だ」

 ライオンの言葉に、僕は返事をしなかった。代わりにくぐもった銃声が連続で響く。

 ドスドスドス、と消音器付きの銃声が十発以上鳴り、ようやく静かになった。立っているのは僕と、入口から僅かに踏み込んだ位置にいる内藤だけ。そして、犬飼は椅子に縛り付けられたまま無傷だった。

 内藤は両手に拳銃を持ち、鋭い目で犬飼に近づいていく。僕も近寄ると、一丁渡された。

「これの装弾数、八発なんですよね」

「そうだな」

 内藤は無口に、僕は喋りながらとどめを刺して回る。

「二撃必要な内藤さんでも、五人一気に殺せる弾数だったでしょ」

 僕は犬飼を解放しにかかった。足首に巻き付けていたナイフでぶちぶちと拘束紐を切っていく。完全に丸腰は、さすがに怖くてできなかった。

「さて犬飼君、この誘拐事件は、僕たちが貰った」

「へ?」

「君を解放する代わりに五百万円を対価として頂いた。この連中がやろうとしていたことを、僕たちが引き継がせてもらったってこと」

 五百万円が入った鞄を再度手にし、僕はお金が傷ついていないことを確認して満足する。

「紛らわしい言い方をしてやるなよ」

 内藤が銃のマガジンを交換しながら言う。俺たちは森本ユウミさんから依頼を請けた。お金を渡され、これを頼む、と。だからその依頼をこなした。それだけだ。

 車を出る直前、僕が提案したことだった。

 森本ユウミが僕たちに託したことは、この鞄に入っている五百万円で犬飼を助けてくれ、ということ。

 どうやって助けるか、という点は指定されていない。一人当たり百万円なら、死体の処分費用込みでもお釣りが来る。

「断れば、今度は俺を殺すのか」

 犬飼が力の無い目で訊いてきた。

「しないよ。僕たちは強盗じゃない。殺し屋だ」

 誘拐犯と殺し屋、どっちもどっちで最悪だ。だが、僕は殺し屋であることを選び、ここにいる。

「依頼人がいて、報酬がある。それが弊社のシステムなんでね」

 僕はポケットから「たまたま参上」と書かれた紙を取り出し、壁と柱の間に差し込んだ。

 こだわりが無ければ、こんな仕事は選んでいないのだ。


   ◇


 その後、犬飼は田舎に引っ込むと言って倉庫を出て行った。僕と内藤は葬儀屋に依頼し、死体と血痕を処理してもらい、その費用を差し引いた額を会社に持ち帰った。

 ことの次第を社長に報告すると、さすがに驚きと呆れで困っていたが、「内藤さんらしいですね」とまとめてしまった。結果的に利益を出した点が評価されたのか、それとも、社長が内藤に甘いのか、それはよくわからない。どっちも、という気がする。嫌いな人間は採用しないと言っていたし、内藤の好奇心や、愛犬家っぷりを込みで雇っているのかもしれなかった。

 ちなみに、森本ユウミの殺しは諦めた。森本邸が爆破されたとき、森本タクミは不在で怪我人はいなかったから、依頼人は健在だ。だが、僕は森本ユウミに顔をばっちり見られてしまった。社訓、「標的に面が割れたら諦めろ」に従い、僕と内藤は手を引いた方が良いと判断した。

 森本ユウミも足を負傷して入院したし、犬飼がいなくなったため、夜の街へ繰り出すことも減るだろう。殺せるタイミングがいつになるかわからない。

 最後に、アトモスホーンの幹部を狙ったテロリストだが、彼らはまだ捕まっていない。森本邸と南田西公園を含む五箇所で爆発を起こし、取締役一名を殺害するという活躍ぶりなので、今頃は警察と熾烈な追いかけっこをしていることだろう。僕たちのようにスマートにやらないからだ。

 きっと彼らも、何か譲れない理由があってテロ行為に及んだのだろう。殺し屋を雇わないところに、こだわりを感じる。

「もう、月末になって急にいろいろ入れないでよ!」

 今回の最大の苦労人は、まだ辞めていない。


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殺し屋会社 コルクボード 佐伯僚佑 @SaeQ

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