夜のゴミ出し
透峰 零
赤い女
ゴミ出しが苦手だ。
ゴミ出しというとピンポイントに過ぎるが、要は夜に外に出るのが怖いのである。
私の住んでいるのは、築十年以上のワンルームマンション。築年数こそ古いが、一度リフォームが入ったこともあり設備は最新だし、中も綺麗だ。
都心部から離れた立地だからすぐ傍に田んぼがあったりするが、周りは閑静な住宅街。少し車を走らせれば賑やかな大通りにもでるので、けっこうお値打ちな住居だと思う。
ただ一つの問題は、夜の人通りの少なさだ。
もちろん、人も車もたまには通るので治安の上では言うほどではない。だが都市部ほど多くはないし、何より暗い。
ゴミ捨て場はマンションの駐車場を抜けてすぐの道路沿いに指定されているので、エントランスを抜けて一分とかからない距離だ。
でも、私はそれがたまらなく怖い。
私の仕事は大抵が定時でなんて帰れないし、朝も早い。夜が遅いのでギリギリまで寝ていることが多く、朝にゴミを纏めるなんて余裕は入社して数ヶ月で諦めた。
だから、ゴミ出しは必然的に夜遅くにするのが習慣だ。
十一時二十一分。
電波時計の表示にため息をつき、私は食べたばかりのコンビニ弁当の空き容器を袋に突っ込む。確か明日は火曜、プラ容器の日だ。
袋の口を縛り、薬局で買ったペラいサンダルを突っ掛ける。ルーチン化した流れに、コロナ禍が始まってからの新習慣であるマスクを装備して外へ。一人暮らしを始めた当初に両親からうるさく言われたので、鍵はかけることにしている。
エレベーターの表示は二階。誰だ、その程度でエレベーターを使うのは。少々腹立たしく思いながら、降下ボタンを押す。
もっとも、ここは十階。実質、屋上を除く最上階なので昇るボタンは使えない。
夜の空気にエレベーターの駆動する低い唸り声が響く。チン、という軽い音。一拍おいてゆっくりと開かれた扉の中には、誰もいない。
閉じるボタンに続けて一のボタンを押す。再び緩慢な動きで閉じた扉をぼんやりと見つめ、明日提出の書類のことを考えている間にエレベーターは一階へと着いた。
再びの軽快な音。開く扉。いつもと同じ光景。
エレベーターを降りると、すぐに正面にある自動扉が開く。玄関はオートロック式じゃないと一人暮らしは認めない、というのも父母のこだわりではあった。
もっとも、共用廊下に窓がない吹き抜けタイプだから、乗り越えようと思えば可能であまり意味があるとは思えない。私からすれば、無駄に部屋賃が高くなっているだけだ。
ガラス扉の外から流れこんでくるのは、夏の夜特有の生ぬるい空気の流れ。大きくなるのはカエルの鳴き声だ。三方が田んぼに囲まれているので、それはそれは夜がうるさい。ちなみに、残る一方向も道路を挟んだ向かいは田んぼだ。
歩くたびに点灯するフッドライトに導かれ、玄関ポーチを右に真っ直ぐ進む。
軽自動車なら対向には余裕があるが、普通車なら厳しい幅の道路に人影はない。周りの民家もこのご時世だからか、どこも窓とカーテンを閉めて中の様子は伺えなかった。
やはり夏の夜は網戸にするより、閉め切ってクーラーに限る。
肌にまとわりついてくる暗闇と、関連する様々な怪談話を振り払うように、私はくだらないことを考えて気を紛らわせた。知らず、足が早くなる。
自転車置き場と駐車場に挟まれた通路を抜けると、すぐ右側がゴミ捨て場だ。
視界の左右に伸びる道に
大丈夫、大丈夫だ。言い聞かせ、マンションの敷地内から一歩外へ。
鳥獣被害のためか最近新しくなった金属製のゴミ置き場は、一見すると小さめの倉庫のようであった。それでも住人のマナーのためか、関係のないゴミで溢れていることも珍しくはない。
今日も、扉を開けると山ほどの段ボールが積まれていた。有名引越し会社のイメージキャラクターが、
戸を引いて鍵をかけ、これで帰れると安堵した。
その時だ。
視界の端に、黒いものが引っかかる。カーブミラーの影。細長い形。さっきまでは、確かに誰もいなかったのに。
すでに、私はその影が人物であることに疑いを持ってはいなかった。
長年の経験でそこには何もないことを知ってはいたし、何より視界の端にいるソレは、明らかに動くもの特有の妙な生々しい気配を伴っていたからだ。
どくどくと波打つ心臓に呼吸が苦しくなる。目を逸らしたいのに逸せない。
顔を、少しだけそちらに向ける。
そこにいたのは女だった。
同性だったことに、まずはホッとする。
長い黒髪、すらりと伸びた肢体。赤いコートの裾から覗く白い足。
そこで、違和感に気がつく。
今は八月だ。
ひた、と女がこちらに足を踏み出す。
途端に、あれほどうるさかったカエルの声がぴたりと止んだ。
ひた、と女がまた一歩。裸足だ。
顔は俯いていて見えないが、輪郭が歪なことはわかる。特に下半分は、まるで大きなマスクでもしているように膨らんでいた。
そして、右手には錆びた
──ワタシ キレイ?
頭に浮かんだのはそんな言葉。いや、正確にはこれから私が言われるであろう言葉だ。
赤いコートに大きなマスクの女。
そんな奇特な存在から弾き出される答えは、たった一つだ。
口裂け女。
幼い頃、怖いもの好きな友人の語った話が脳裏を駆け巡る。
女はまずマスクをつけたままで問いかけるのだ。ワタシキレイ? と。
綺麗だと答えると、次に女はマスクを外す。マスクの下の口は耳まで裂けた世にも恐ろしい面相であり、それを見た相手の反応が気に入らないと殺す、という都市伝説だ。
そして今、明らかに女は私を見ていた。獲物として認識されている事実に、頭が警鐘を鳴らす。それなのに、足は根が生えたように動かない。さっきよりも明度が落ちた街灯の下に、女が達する。
その時、私は女の服に更なる違和感を覚えた。襟元は前あわせでふくらはぎが見えてはいるが、コートとは少し違う気がしたのだ。
しかし、それ以上観察することは出来なかった。
パン、という乾いた音と共に街灯が砕け散ったのだ。その瞬間、ようやく私の体と頭は正常さを取り戻した。
逃げないと。
真っ先に浮かんだのは、それだ。
どこに、どうやって。
頭の中で埋もれていた情報が爆発する。
確か口裂け女はべっこう飴が好きだから、投げれば良いとか。いや、べっこう飴なんて持ち歩いているわけがない。
女が迫る。距離は五メートルもない。
対処法はもう一つあったはずだ。確か、あれはそう──
「ポ、ポマード! ポマード、ポマード!」
女の動きが止まった。
白い首が、かくんと傾げられる。その隙に私は背を向け、脱兎のごとく駆け出した。
握っていた鍵を取り出し、自動扉脇にある鍵穴に差し込む。
うぃーん、と少々間の抜けた音を響かせてガラス扉が左右に動きだした。開くのを待ちきれず、体当たりするようにして中に入る。
チラリと振り向いた先では女が再び動き出していた。やばい。
口裂け女の走る速度は百メートルを数秒。でも確か二階以上の階層には来れないはず。
扉が閉まるまでが勝負だ。
エレベーターのボタンを押して、開くのを待つ。
もどかしい程のスピードでエントランスの扉が閉まり、代わりにエレベーターが軽い音を響かせた。女がくる気配はない。
扉が閉まったから諦めたのだろうか。
少しだけ、気が緩む。
いや。
エレベーターの扉が放つ低い音に混ざり、べたり、という音が聞こえた。
右後ろ、共用廊下の奥だ。そこで思い出す。
この廊下には窓がない。
少し高めの壁で囲われてこそいるが、人間でも乗り越えようと思えば乗り越えれる高さなのだ。
背筋が冷たくなる。
振り向く
早く。
早く、早く早く早く。
人間の作った律儀な機械は、一度完全に開いてから再びゆっくりと閉じ始める。
安全だがなんだが知らないが、もどかしくて仕方がない。
祈る気持ちで顔を上げる。
細くなった扉の向こうでは、伸びた白い腕がまさに建物内部の壁へと引っかかったところだった。
扉が完全に閉まる。
頼む、無事に昇ってくれ。もしも途中であの女がエレベーターの扉を強引に開けたら。
そしてケーブルを無理矢理引っ張ったりしたら。恐ろしい想像に、身体が震える。
遅々として進まない階層表示は私の杞憂とは裏腹に、実にあっさりと十階へと到達したことを告げた。
這い出すようにしてエレベーターから抜け出し、自分の部屋へと向かい。
扉の前に女がいることに気がついた。
「あ……」
その時、私は初めて正面からまともに女の姿を見た。その顔を、その服を。
女は四つん這いになっていた。へたり込んだ私と同じ高さにある女の顔は、正確には女の顔をしていない。
それは、牛の顔だ。口から血を滴らせ、寸足らずの赤い着物を纏った牛頭人身の化物だった。
女が私の顔に手を伸ばす。手の先には錆びた鋏。
「あ……」
馬乗りになった女が私の口を押さえつける。
頬に何かが食い込む感触。じゃぎり、という音。
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「……えー、では次のコーナーです。最近、若年層を中心に手首を切る自殺・自傷行為。いわゆるリストカットに代わる新たな自殺方法として、口の両端を切る自殺方法──マウスカットが広がっており、社会問題となっています。関西圏から広がりを見せ、徐々に全国へと波及しているこの問題をどう受け止めるべきか。若者の問題に詳しい、東京心療大学の山本先生にお伺いします。先生、いかがですか?」
「そうですね。一般に、原因は容姿のコンプレックスにあると言われています。多様な価値観が認められる社会だからこそ、自分の顔に自信がなくなり、知らず知らずのうちにストレスとなるのでしょう」
「なるほど。若い女性に多いのも、その理由なら説明がつきますね」
「悲しいことです。確かに何世紀も前なら、奇抜な出立ちや人とは異なる容姿は迫害の対象となりました。一生を座敷牢で過ごしたり、時には殺されたり。ですが、今はもう令和。外見を苦にしての自殺だとしたら、ナンセンスです」
「若者たちの心のケアが必要ということですね、ありがとうございました」
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※口裂け女……一九七〇年後半から広まった都市伝説の一つ。大きなマスクに赤い服を着た若い女とされ、会う人間に「わたしキレイ?」と問いかける。その後、マスクを外して耳まで裂けた口を見せてくるという。
※牛女……兵庫県六甲山付近を中心に語り注がれる妖怪。正体は体の一部が牛である異形の娘が幽閉されていたとする説や、赤い振袖を着ていたという逸話。また、四つん這いで追いかけてくるというものもある。
夜のゴミ出し 透峰 零 @rei_T
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