行き先など分からなくとも、道が広がっているということ

 恵餌郷(えじのさと)と呼ばれる山間の集落には、人に恵みを与える神がいた。主人公の「しぃ」は、一つ上の従姉・雪野が「うつほさま」と呼ばれる神の花嫁となったことをきっかけに喧嘩別れしてしまう。
 謎に包まれた「恵餌郷」とその信仰、神と同じ名を持つ不思議な少年・空穂。恵餌郷で過ごした日々から、読者は徐々にこの世界の輪郭を知っていく。

「辛くなったらいつでも戻っておいで」

 かの神はそう言うが、花嫁が見た〝幸せな夢〟は恐ろしいものだった。神はその夢を、心底善いものだと思っているのだろう。
 そこが、人と神の差なのだろうな、と突き刺すように感じさせられた。

「養父」が何を指すのか、春雪のその後はどうなったのか、伯父に何があったのか。恵餌郷は一つの大きな箱庭のようで、主人公である彼女の主観以外でも、それぞれの人生が動いている。それが何かは知りたいが、「しぃ」と雪野の物語は、ここまでなのだ。一人一人に見えるものなど、しょせんはそこまでなのだ、とも。

 美しく苦い思い出が、心の柔らかい所に噛みついたまま離れない。そんな他人の胸中を覗きこんだような一編でした。