うつほさまの花嫁

千鳥すいほ

01_故郷

 故郷にいたころ──いや、故郷を離れて三年が経ってさえ、私が友達と呼べるのは雪野ゆきの姉さんと空穂うつほだけだった。

 私のやや色の明るい地毛や可愛げのない性格、あるいは名前の字面のせいかもしれないし、父が外部の人間だったからかもしれない。今となっては理由など知りようもないけれど、当時の私は二人がいればさして大きな不満はなかった。

 雪野姉さんは私の従姉いとこで、集落むらで一番年の近い女の子で、物心ついたころからの親友だった。雪野姉さんは本家に、私は祖父母が遺した一軒家に住んでいて、五分もあれば遊びに行くことができた。

 学校でも休みの日でも一緒にいたけれど、雪野姉さんとの時間に飽きたことはない。トランプや人生ゲームがすり切れるくらい遊んだ。父が新しいゲームを買ってくるたび、持ち主をそっちのけにして熱中した。

 泊まりっこだって数えきれないほどした。眠りにつくまでの他愛ない会話の中で、雪野姉さんのお気に入りは将来の夢の話だった。

「大学生になったら何がしたい?」

 秘密の合言葉のように、幾度となく尋ねあった。

 二人で県外の大学に行って、ルームシェアをしようと決めていた。

 ネット越しに見る学生街の景色は同じ国とは思えないほど煌めいていて、私にとってはパンケーキがその象徴だった。

 検索すれば画像はいくらでも見つかるけれど、実物には手の届かない幻の食べ物。狐色の桃源郷をスマホの画面いっぱいに表示して見せると、雪野姉さんは慎重な吟味の末に首を傾げた。

「このホットケーキの親玉みたいなやつ?」

「絶対もっとおいしいって! 見てよこの盛り盛りのクリーム!」

 私の食欲まみれの願望に相槌を打つ雪野姉さんの夢は、私よりずっと大人びたものだった。

「勉強はもちろん頑張るけど、アルバイトがしたいな。それで可愛い食器を買って、おいしい紅茶を淹れて、しぃちゃんのお誕生日をお洒落なケーキでお祝いするの」

「わ、私も雪野姉さんの誕生日になんかすごいケーキ買う……」

 私の小声の追従に、雪野姉さんは「無理しなくていいから」と笑った。

 雪野姉さんは穏やかな人だった。ひとつ違いのはずなのに、私よりずっと大人びて優しかった。

 ──だから、一年前のあの日、私は竦んでしまって動けなかった。

「しぃちゃん、本気で言ってるの?」

 雪野姉さんに心底からの怒りの眼差しを向けられたのは初めてだったから。

「しぃちゃんまで、あたしにうつほさまの社に登れって言うの?」

 強い語調に混乱した。何か言わなければならないと思った。何が正解かわからなくて、私は考えなしに大人たちの言葉をなぞった。

「だって、が出たんだよ? お社に登らなくてどうするの?」

 雪野姉さんの額には、前の晩まではなかった白い紋様が浮かんでいた。

 額に葉身、鼻筋に葉柄。恵餌祭えじさいで舞姫に施される化粧と同じ桑葉の形。

 真っ白な紋様は刺青いれずみのように肌に馴染んで、どんなに必死に洗っても落ちなかった。強く擦られた額には赤い跡が残り、雪野姉さんの指先はすっかり冷え切って震えていた。

「大丈夫だよ。こんなのただのお祭りじゃん。行って帰ってくるだけでしょう?」

 怒りに隠れた不安に気付いて、私は慌てて雪野姉さんの手をとった。

「うつほさまが私たちに悪いことするはずないよ」

 気休めのつもりはなかった。本気でそう思っていた。けれど、冷静に振り返ってみれば、雪野姉さんにはとてもそうは聞こえなかっただろう。

「もういい」

 硬質な拒絶を残して、雪野姉さんが洗面所を出ていく。

 噛み締められた唇から、詰るように言葉が零れた。

「──約束したのに」

 今にも泣き出しそうな声に、私の手が届くことはなかった。お印のことを知った自治会の大人たちがやってきて、私は本家から追い出されてしまったから。

 それからどれくらい待っただろう。

 自治会の代表に手を引かれて姿を現した雪野姉さんは、真っ白な装束に身を包んでいた。着物の裾には鈴がたくさん縫い付けられていて、重い足取りに合わせてしゃらしゃらと鳴った。

 ──本物の花嫁みたい。

 数十年に一度しか使われないハレの衣装はシミひとつなく、生地と同色の刺繍は怖いくらい綺麗だった。

 ぼんやりと従姉の晴れ姿を眺めていると、雪野姉さんと目があった。暗い表情の奥に軽蔑の火が燃えていた。私は何も言えなかったし、雪野姉さんも何も言わなかった。

 しゃらん、と鈴の音と共に雪野姉さんが──うつほさまの花嫁が歩き出す。恵餌祭の夜と同じように、道には定められた間隔で蝋燭が燃えていた。

 火の外側は人の道。火の内側は神様の道。

 雪野姉さんはたった一人、うつほさまと同じ道を歩いてお社に登っていった。



 雪野姉さんと喧嘩けんかした。

 それから一年、口を利いていない。

 苦々しい事実を噛み締めて、私は車窓から視線を投げた。

 青い案内標識に見慣れた地名を見つけて、あと一時間、とため息をつく。母と二人きりの車内ではとっくに話題も尽きていた。

 朝から座りっぱなしの尾てい骨が鈍く痛むのに顔をしかめて、左手首の守り石に触れる。組紐で留められた小さな石の冷たさが、少しだけ気分を落ち着けてくれた。

 母と私の生まれ故郷は、今の住居から車で三時間以上かかる。とても同じ県内とは思えないが、自家用車より速い手段もない。

 最寄りの駅からは車で二時間、バスもせいぜい一日数本。

 そんな片田舎に車なしでたどり着くのはどうあがいても一日仕事で、一介の高校生には事実上不可能な道のりである。

 だから、雪野姉さんに連絡をことごとく無視されてしまった以上、私が謝罪の機会を逸するのはやむを得ないことだった。

 ──わかっている。そんなのはただの言い訳だ。

 私が本気で頼み込めば、母は渋い顔で車を出してくれたかもしれない。お年玉をはたけば自力でここまで来ることはできる。雪野姉さんの家に泊めてもらえなかったとしても、引っ越し前の家自体は残っているし、最悪、空穂に頼めば一晩の宿くらいは確保できただろう。

 自業自得だと頭では分かっているが、気は重くなる一方だ。今年ばかりは、もう祖父母も亡い実家の掃除に帰る父が羨ましかった。

 私の内心など知る由もなく、銀色の軽自動車は慣れた走りで山林を抜けていく。父の転勤に合わせて三年前に引っ越すまで、私にとってこの景色は週末の楽しみと結びついていた。街のショッピングセンターに続いていた輝かしい道を、今は故郷を目指して遡っている。

 峠を越え、トンネルを抜ける。

 視界が開けた瞬間、懐かしい風景が視界いっぱいに飛び込んできた。

 雄大なる渓谷。

 急峻な谷間を、大量の水が蛇行しながら流れている。かつては竜にたとえられたという一級河川の対岸は遠く、崖にかろうじて張り付いた線路の細さは何度見ても玩具おもちゃのようだ。

 切り立った斜面はびっしりと森に覆われている。夏場は水面に触れんばかりに葉を茂らせている木々も、三箇日さんがにちを過ぎた今ではほとんどが葉を落としていた。

 雪質が売りのスキー場を擁する山国とはいえ、縦長の県の南端は決して雪の多い地方ではない。日陰の梢では、溶け残りの霜だけが白く光っていた。

 今朝の冷え込みを振り返るように見上げてみれば、冬色の空は皮肉なほど澄み渡っていた。

 幽谷に切り取られた青空と渓流。

 故郷を象徴する景色は、母にとっては馴染みこそあれ好ましいものではないのだろう。少なくとも、何かと理由をつけて年に一度しか帰省しないくらいには。

 運転席の様子を横目で伺ってみれば、案の定、母の眉間には皺が寄っていた。

 けれど、私はこの風景が嫌いではなかった。ちっぽけな人間の痕跡が馬鹿馬鹿しく思える広大な川の流れは、故郷を離れてから美しさを増したようにさえ思えた。

 一際古いトンネルを抜ける。

 道の両脇、古びた石碑が沈黙のうちに私たちを出迎える。うつほさまのお印が刻まれたこのしるべが、合併前の村境だと雪野姉さんが言っていた。

 道の先、谷の側面には家と畑が寄り集まって張り付いている。標と標の間、三つの橋で対岸と繋がれた西岸の集落を恵餌郷えじのさとという。

 故郷の最も高い場所、山林の中に古びた木製の屋根がぽつんと覗いている。

 うつほさまのお社。

 私たちの神域。

 私のもう一人の友達は、あの場所にいる。



  ◇◆◇

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