02_空穂

 私が空穂うつほに出会ったのは、小学生になってすぐの春のことだった。

 遊ぶ約束をしていた雪野ゆきの姉さんが風邪をひいてしまって、暇を持て余した私は根拠のない自信だけをお供に山の探索に挑んだ。

 今思えば無謀の極みだ。案の定帰り道を見失って泣きながら彷徨っていると、鬱蒼とした山林の中に炎の輝きを見つけた。

 人の姿を期待して近づいたが、木々の間で輝いていたのは赤い羽虫の群れだった。

 ──灯虫ひむし

 光る虫の一種ではあるが、姿は蛍よりも雪虫に似ている。赤い体を熾火おきびのように煌めかせながら宙を踊り、気まぐれに木々の間を跳ねる群れの姿は、一匹の四つ足の獣のようにも見えた。

 本来は雪虫より後の季節、恵餌祭の前後によく見られる虫である。既に最後の雪が溶けて久しいからか、その光は少し弱々しい。

 灯虫に触れるのは禁じられていた。名前の通り火傷に似たただれができるからだ。そっと迂回しようとした矢先、不意に白いものが視界をよぎった。

 ゆっくりと空を滑る幅広の紙飛行機。

 灯虫が一斉に軌道を変える。炎の顎が白い翼に触れた瞬間、紙が焦げる匂いが鼻をついた。

 一瞬で勢いを増した炎が紙飛行機と灯虫の姿を隠す。真っ黒な灰の欠片が舞い落ちて砕ける頃には、どちらの姿も跡形もなかった。

「だれ?」

 答えはない。

 それでも唯一の人の気配を追って、私は紙飛行機が飛んできた方へ向かった。

 方角を見失いそうになるたび、どこからか新しい紙飛行機が飛んできた。白い和紙でできた手がかりを拾い、送り主を探して歩くうち、見覚えのある木塀にたどり着いた。

 背伸びをして連子れんじから向こう側を覗き込むと、内側にも似た構造の塀があった。内塀の上には点々と蝋燭の火が灯されている。

 火の境界が設けられた建物など恵餌郷にはひとつしかない。うつほさまのお社だった。

「だれかいるの?」

 湧き上がった別の疑問を肯定するように、四つめの紙飛行機が内塀の向こう側から飛んできて、私の頭にぽとりと落ちた。

 うつほさまのお社は私たちの神域であり、恵餌祭えじさいの日を除いて出入りを禁じられている。

 不安の代わりに湧き上がった幼い好奇心に手を引かれて、私は塀伝いに歩き出した。

 境内には小さな滝があり、清水は小川となって村内へ続いている。水面と塀の間には少し隙間があって、小柄だった私は膝下をびしょ濡れにしながら木塀を潜り抜けることができた。

 灰色の石段を息を弾ませながら登った。最上段、正門の両脇にはお社を守るように一対の篝火かがりびが燃えている。少し緊張しながら門扉に手をかけたが、返ってきたのはかんぬきと思しき重い抵抗だけだった。

 当然といえば当然の結果ではある。

 釈然としない思いを抱えながら来た道を振り返ると、夕暮れの故郷を一望できた。

 微かに夜の色を帯び始めた空の下、川沿いの桜並木の手前に桜井商店の屋根が見える。軽トラックがぎりぎり通れる幅の道には商品がダンボールごと置かれている。迷路のような隙間をしなやかに駆けていく白猫は大福という名前で、飼い主である菊池さんの好物に因んで名付けられたことをみんなが知っていた。

 ──恵餌郷えじのさと

 明治の合併で正式な村名を失って以降、集落むらでは古い呼称が使われていた。

 今では書類の上でこそまちの一部になったが、名前以外のことはひとつも前進しなかった。街らしくなるどころか、役場からは人が減り、農協の支所はなくなった。コンビニはできなかったし、漫画の週刊誌が買えるお店は相変わらず桜井商店だけだった。

 母が言うところの『狭くて何もない場所』は、それでも子供の足にはほどほどに広く、河原や山には未開の遊び場がいくらでもあった。

 何もないなんて思ったことはない。だって、私には雪野姉さんがいたから。

 帰らなければ、と思った。現実感を取り戻した身体が思い出したように肌寒さを訴える。小さくくしゃみをした瞬間、背後から耳慣れぬ声がかかった。

「風邪を引くぞ。せめて足くらい拭いていけ」

 驚きのあまり石段を踏み外しそうになった足を引っ込める。

 恐る恐る視線を向けると、木塀の連子の向こうに誰かが立っているのが見えた。

 自治会の大人にしてはひどく奇妙な風体だった。

 真っ白な着物、明るく赤みがかった髪。対照的な組み合わせよりも目を引いたのは、その人の顔を完全に隠している白い紙製の覆面だった。紐で留められた紙の上には恵餌祭えじさいの舞姫の化粧と同じ紋様が薄墨で描かれていて、幼い私に見てはならぬものを見てしまったような感覚を与えた。

「誰かと思えば銀子ぎんこの娘か。少し見ないうちに背が伸びたな」

 声は年若い青年のものだった。母の名を知っている以上は恵餌えじの人間に違いないが、赤い髪の若者など見たことがなかった。

「かみひこうきのひと?」

「そうだよ」

 穏やかに応じて、青年が連子越しに手を差し出してくる。おずおずと紙飛行機を返して、青年の白い指先に火傷のような変色があることに気づいた。

「けがしてるの?」

 うつほさまが恵餌の住人の傷病を癒すのは恵餌祭の日と決まっている。けれど何事にも例外はあって、急な病人や怪我人は自治会の判断でお社に運ばれることがあった。私が物心つく前の話だが、伯父──雪野姉さんの父親が車に跳ねられた時もそうだったと聞いた。

 最近、集落で火事なんてあっただろうか。記憶にはなかったが、だとすれば顔を隠しているのにも納得がいく。子供の不躾な質問に気分を害した様子もなく、青年はあっさりと覆面をまくって見せた。

「違うよ」

 翠の瞳が柔らかく微笑んだ。傷ひとつない貌はぞっとするほど美しかった。美しさの原型をひとつひとつ現世に縫い留めたような形をしていた。

養父ちちの言いつけでね。おれは境ノ主サエノカミに好かれていないものだから」

 発言の意図を捉えあぐねて、私は覆面を戻した青年を眺めた。

 総じて奇妙な人物ではあったが、物腰は柔らかく、うつほさまのお印を拝している以上は邪悪な人間とも思えなかった。

 青年から手拭いを受け取って、ずぶ濡れの靴を脱ぐ。私が足を拭いている間、青年は木塀越しに私の様子を眺めていた。

「おにいさんは、じちかいのひと?」

 念のため尋ねてみると、「違うよ」とどこか楽しげな声が返ってきた。

「おれは空穂うつほだ。聞いたことくらいあるだろう?」

 告げられた名前に、数秒遅れて心臓が跳ねた。

「うつほさま?」

 そんなはずはなかった。

 私の知っているうつほさまは──恵餌祭えじさいの日に村内を巡る神様は人の形をしていない。けれど、恵餌の人間がその名を騙るなんて畏れ多いことをするはずもない。相反する判断に挟まれて、初めて彼を見た瞬間の直感が再び頭をもたげるのを感じた。

 ──見てはならぬものを見てしまった。

「ほ、ほんとに?」

 うつほさまが集落を巡る恵餌祭の日を除いて、お社は特別な火でとざされている。

 火の外側は人の道、火の内側は神様の道。

 それが、この郷ではるか昔に交わされた、とても大切な約束だから。

 青年はお社の中、火の境界の内側に立っている。畏れもなく、ごく自然なことのように。

 震え上がった子供を前に、空穂と名乗った青年は鷹揚に頷いた。

「本当だとも。どれ、ひとつ特別に見せてやろう」

 空穂が懐から取り出したのは、金色の手毬模様が入った赤い千代紙だった。長い指が器用に正方形を折り畳み、靴下の形に整える。

 連子をまたいで手渡された瞬間、折り紙は赤い長靴に姿を変えた。本物のゴムの重さだった。

「それを履いてお帰り。灯虫ひむしを見つけても触れてはいけないよ」

 空穂は私の家の方角を指すと、ひらりと手を振って踵を返した。

「今日のことは忘れておくといい」

 その言葉に頷いた憶えはない。

 けれど、うつほさまのお言葉の力か、私はしばらくの間、空穂の存在はおろか一人で山に行ったことさえ思い出せなかった。翌年の恵餌祭えじさいの夜、郷を巡るうつほさまのお姿を目にしてさえ。

 不意に記憶が蘇ったのはその翌朝、お焚き上げの最中のことだった。

 その年は伯父が当番だった。本家のすぐ近く、雪の残る田んぼには前の週から円錐状の骨組みが組まれていた。子供たちが回収した正月飾りを自治会の大人が組み上げて、恵餌祭の翌朝に燃やすのだ。

 お焚き上げの点火は夜明けと共に行われる。耳が千切れそうな寒さの中、特別な火が立ち上がる瞬間は、私の毎年の楽しみだった。

 炎が少し落ち着いた頃、すそ熾火おきびを火かき棒で脇にけて、めいめい持ち寄った餅を焼いて食べる。火加減が難しくて、大抵は少し焦げた仕上がりになるけれど、焼きたての餅に砂糖醤油をつけて食べるのは格別に美味しくて、子供の頃の一番の好物だった。

 ふと、門松の燃え残りから赤い羽虫の群れが飛び立つのを見つけて、私は餅から口を離した。

「あ、ひむしだ」

「触るんじゃないよ」

 母の牽制に首を竦めて、曙の空を舞う一群の光を見送る。私の視線を追ってか、隣で餅を焼いていた老夫婦が揃って手を合わせた。

「ありがたいねぇ。今年はいい年になるに」

「どうして?」

「灯虫は神様の御使みつかいだもんで。ほれ、お前さんも拝んでおきな」

 ──じゃあ、どうして紙飛行機を食べちゃったんだろう。

 形だけ拝みながら胸の裡で呟いて、ふと我に返って辺りを見回した。家族や親戚ごと寄り集まって、各々焼網やアルミホイルを囲んでいる。芋を焼いている子供たち、お酒を注ぎあう大人たち。ごく普通のお焚き上げの光景の中に、あの赤い髪の青年の姿はない。

 なんだか変な感じがした。今までこの光景を変だと思わなかった自分もおかしいと思った。素朴な疑問を抱いて、私は母の袖を引いた。

「うつほさまはおもち食べないの?」

 子供の訴えに、母は困った顔をした。父や伯父に尋ねても曖昧に唸るばかりで納得のいく答えは得られず、そうこうしている内にお開きの雰囲気が漂い始めた。

 最後の砂糖醤油餅を包んだアルミホイルを抱えて、私はぶすくれながら黒く冷え始めた燃え残りを睨んだ。

 ──こんなに美味しいのに。

 視線を落とす。すっかり見慣れた赤い長靴の爪先が目に入る。初めから私の物だったかのように、誰に指摘されることもなかった空穂からの贈り物。

 思い出したら居ても立ってもいられなかった。雪野姉さんと遊ぶ約束を午後にずらして、私は雪道を駆けてうつほさまのお社へ向かった。

 半年の間に背が伸びて、外塀の抜け道は前回より窮屈になったが、長靴のお蔭で水の冷たさは怖くなかった。

 外塀を抜ける。日陰に残った霜柱が靴底で小気味よい音を立てる。石段を泥で汚さないよう、溶け残りの雪で長靴を拭いてから足をかけた。

 最上段に辿り着くと、連子の向こうに曙色の髪が揺れるのが見えた。

「祭はもう終わったぞ」

 言葉に反して声はごく穏やかだった。表情は相変わらず白い覆面に隠されている。

「あの」

 私は背筋を伸ばして空穂を見上げた。

「去年、ながぐつありがとうございました」

「礼は要らんよ。他に用があって来たのだろう?」

 優しく促されて、アルミホイルを収めたポケットに触れる。

「うつほさまは」

「おれは空穂うつほだよ」

「う、うつほは」

 発音の違和感を呑み下して尋ねる。

「おたきあげのおもち食べた?」

「餅? いや、久しく食べていないな」

 あんなに美味しいのに。

 おかしな話だが、私は大真面目に自治会の大人たちに憤慨していた。あんなに美味しいものを独り占めしてけしからん、と。

「これ、おいしいから、あげる」

 お礼の品を連子越しに差し出してから、予想外の冷たさにぎょっとした。アルミホイルを取り上げられた途端に焦り始めた私を見て、空穂が不思議そうに首を傾げる。

「どうした?」

「お、おもち冷めちゃった」

「構わんよ」

 そんなわけがない。冷めてしまったら固くて美味しくないことくらい知っている。

 私の狼狽を気にも留めず、空穂はぺりぺりとアルミホイルを剥がすと、砂糖醤油が染み込んだ餅をかじった。

「ああ、なるほど。これはうまいな」

「ほ、ほんとはやきたてだったの」

「心配せずとも、いっとううまいよ」

 空穂はあっさりと小さな餅を食べ切って、唇の端を親指で拭った。砂糖の結晶を舐めて、「うん、うまい」と深く頷く。

 覆面越しに、翠の目が私を見た。

「銀子の娘。お前、友人にはどう呼ばれている?」

「しぃちゃん」

 唯一の友達である雪野姉さんをはじめ、父や親戚も私をそう呼んでいた。

「では、。これを」

 空穂が連子から手を差し伸べる。私の掌に落とされたのは、小さな銀色の鍵だった。

「外塀の東側に通用門がある。退屈したらまたおいで」



 その日から空穂は、私の二人目の友達になった。

 空穂の存在を知るまで、私にとってうつほさまはどことなく不気味な存在だった。

 お恵みはあれど得体が知れず、集落むらの外で名前を口に出すことさえ許されない、私たちの神様。

 空穂に出会ったことで、私の中の不信は解消された。着ぐるみの中に人がいるように、うつほさまの中にも空穂がいる方が自然なことのように思えた。

 中学生になった私は、ささやかなお小遣いでおやつを買い込んでは空穂に会いに行くようになった。

 空穂は自治会の大人たちよりも古いことをよく知っていたが、新しいことには桜井のおばあちゃんより疎かった。ジャンクな駄菓子の類を渡すと、毎回律儀に驚くのが楽しかった。

「これは……青い……綿菓子?」

 本当に食べ物なのかと大真面目に訝るのがおかしくてしょうがなかった。何かを口に運ぶときだけ、覆面の下に見える整った口許を眺めるのが好きだった。

「おいしい?」

「口の中がぱちぱちする……」

 子供みたいに困惑する空穂に、私は声を立てて笑った。

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