03_雪野

 本人からのやんわりとした口止めに従って、私は誰にも空穂のことを話さなかった。

 ──とはいえ、雪野姉さんの目をそう長く忍べるはずもなく。

 中一の初夏、お社からの帰り道。田んぼの匂いのする風に長い黒髪をなびかせて、雪野姉さんが街灯の下に仁王立ちしていた。

「しぃちゃん、こんな時間まで何してたの?」

 名探偵のごとき鋭い眼光であった。

「あたしに何か隠してるでしょ」

 厳しい追及に首を竦める。集落の一部の若い衆と同じように、雪野姉さんはうつほさまのことをあまり好いてはいなかった。

 私は努めてしおらしく、背後に隠していた両手を差し出した。

 厳しい仕草で中を覗き込んだ雪野姉さんが珍妙な顔をする。

「桑の実?」

 集落の中、特にお社の周りによく自生している桑の木は、初夏になると赤い実をつける。ぶどうを指先ほどにぎゅっと圧縮したような形で、たいへん心惹かれる鮮やかな色だが、この段階では死ぬほど酸っぱい。心配になるくらい真っ黒に熟したやつが本当の食べ頃だ。

 私はこの実が大好きで、六月になると手の届く高さの実を摘んではつまみ食いするのが日課だった。

「雪野姉さんも食べる?」

 大人びた従姉は、私の拙い偽装などきっと見破っていただろう。

 雪野姉さんはどこか寂しげな瞳でゆっくりと瞬きをすると、呆れた風に眉を下げて笑った。

「採りすぎ。こんなに食べたら晩ご飯食べられなくなっちゃうよ」

 雪野姉さんの優しい沈黙に甘えて、ふたりで並んで農道を歩いた。スニーカーの爪先で草むらを蹴ると、まだ小さなトノサマガエルが勢いよく田んぼに飛び込んでいった。

 桑の実の山の三分の一を雪野姉さんが、残りを私が食べた。譲り合いの末に最後の一粒をありがたくいただくと、雪野姉さんが揶揄からかうように私を見た。

「あんまり食べすぎると、そのうちフサフサした触覚が生えてくるかもよ」

 社会見学で見たずんぐりとした白い蛾の姿を思い出し、私は思わず小さく呻いた。

かいこに生まれるのはやだなぁ。どこにも行けないし、すぐ死んじゃうし」

 特に含みのない素朴な感想のつもりだったけれど、雪野姉さんははっとしたように目をみはった。

「そうだよね。ごめん」

 悲しげな囁きを最後に沈黙が落ちる。またやってしまったと思った。私は雪野姉さんと違って気が利かなくて、失礼な返事をして自治会の大人を怒らせては身内に庇ってもらうことが多かった。周りのみんなが当たり前に共有している理屈を、私はいつまで経っても全部は理解できなかった。

 でも、ずっと一緒にいた雪野姉さんについてだけは、どうしたら笑ってくれるのかほんの少しだけ知っていた。

 折角の楽しい空気が去ってしまう前に、私はとっておきの話題を口にした。

「あのさ、今年の夏休み、海に行くんだけどさ」

 これは本当で、

「お母さんが雪野姉さんも一緒にどうかって」

 これは半分嘘だった。実際は私がどうしても雪野姉さんと海に行きたくて、母をしつこく説得したのだった。

「ほんと?」

 雪野姉さんがぱっと顔を上げる。長い睫毛まつげの下で、隠しきれない喜色がきらきらと踊っていた。

「伯父さんがいいって言ってくれればなんだけど」

「絶対いいって言ってもらう! この前の中間テスト、九割取れたし!」

 雪野姉さんは私と違って成績が良く、伯父にとって自慢の娘だった。私の母の了解もとってあれば、強くは反対しないだろうと思った。

春雪はるゆきくんも来れるかな」

「どうだろう。お父さんに聞いてみるね」

 春雪くんは雪野姉さんの五つ上の兄だった。幼い頃はよく遊んでもらったが、最近は顔を合わせてさえいなかった。進路のことで伯父と酷く揉めたらしいとだけ母から聞いていた。

 一瞬だけかげらせた表情を瞬きで拭って、雪野姉さんが私の顔を覗き込む。

「しぃちゃんは海に行ったことあるんだよね。どんなだった?」

「髪がべたべたになった」

「そうなの?」

「あと焼きそばが美味しかった」

「ほんとに焼きそば売ってるんだ!」

 雪野姉さんは海を見たことがなかった。学校で揶揄からかわれたのを密かに気にしているのを知っていた。

 海だけではない。雪野姉さんも春雪くんも、ほとんど県外に出たことがなかった。伯父が集落から離れられないから、それは仕方のないことだった。

 病院では治らない怪我や病を負った時、恵餌の人間はうつほさまにお祈りする。

 うつほさまは生き物の寿命を変えることはしないが、代わりに最期まで動く手足を与えてくれる。与えられた肉体は、恵餌郷えじのさとの中でなら本物以上によく動くのだ。

 伯父のような人は決して多くはないが少なくもなかった。車のなかった時代は集落から出ずに一生を終える人もいたらしい。

 雪野姉さんは集落むらの外に出たがっていた。

 私はその手を取ることができた。

 賢かったからでも、勇気があったからでもない。雪野姉さんと年の近い親戚で、父が外の人間で、一度は集落を出た母が何かと理由をつけて羽を伸ばしたがったから。

 何一つ私の力ではなかった。

 それでも、雪野姉さんの手を引いている間だけは、図太くて跳ねっ返りで大食らいの小娘じゃなくて、少しだけ立派な人間になれた気がした。

 だから、私は雪野姉さんに空穂のことを絶対に話さないと決めていた。

 雪野姉さんに空穂をとられたくないのと同じくらい、空穂に雪野姉さんをとられるのが嫌だった。



 雪野姉さんと海に行って、お揃いのストラップを買った。春雪くんは来なかった。

 潮風は相変わらずべたべたしたし、サンダルと足の裏の間に砂が入って痛かったけれど、雪野姉さんが滅多にないくらいはしゃぐのにつられて遊びまわった。帰りの車では二人揃って眠りこけて、翌日は全身筋肉痛になった。

 海岸で拾った巻貝を耳に当てると不思議な音がした。海の音だと母が言うので、お菓子と一緒に空穂へのお土産にした。

「懐かしい?」

 淡褐色の貝殻を右耳に当てた空穂の表情は、連子と覆面に遮られて私には見えない。

「うつほさまの御神体って舟の欠片なんでしょ?」

「あれは母の舟だ。おれにの記憶はないが」

 火傷痕の増えた指が、丁寧に貝殻の曲線をなぞる。

「同じ水でも、海と山では随分違う音色なのだな」

 大切にする、と囁く声がこそばゆかった。

 顔を見られるのが照れ臭くて、木塀に背を預けて座り込む。

「空穂は生まれてからずっとここにいるの?」

「そうだよ」

「外には出ないの?」

「そう約束したからね」

「嫌にならない?」

「なぜ?」

 空穂の声はごく柔らかく私の目を塞いだ。焦って口を開いたときには、私は既に疑問の輪郭を見失っていた。

「しぃは外の方が好きか?」

 わからない。

「この郷にいるのはいやか?」

 わからない。

 空穂の声はどこまでも穏やかで、責めるような色なんて微塵もなかった。それなのになぜかひどく息苦しく感じて、私は喘ぐように息を吸った。

「いやじゃないよ」

 指先に引っかかった感情を手繰り寄せて、舌にのせる。

「直接会えたら楽しいかなって、思っただけ」

 嘘ではなかった。ずっとそう思っていた。年ごとに増えていく火傷の痕に触れてみたかった。

 空穂は微笑んだようだった。

「舞姫の後、社務所しゃむしょの裏においで」



 人生で一番待ち遠しく感じた恵餌祭は、朝から牡丹雪が舞っていた。

 舞姫を見に行くのは久しぶりだった。雪野姉さんを誘ってみたが、案の定、反応は芳しくなかった。

「あんなの自治会のおじさんたちが喜んでるだけでしょ」

 恵餌祭の舞姫は恵餌郷出身の高校生が演じる。衣装は可愛いけれど振付は毎年同じだし、練度もそれほど高くない。

 母の頃は同年代の女子の中からくじで舞姫を決めたらしいが、今は選ぶほど人数がいなかった。

「あたしはいいや。そのうち嫌でもらなきゃいけないし」

 断ってもらえてほっとした。

 隠れて空穂に会いに行くために、私は少しずつずるいやり方を覚えていった。

 気が急くあまりに手袋を忘れて家を飛び出した。剥き出しの手指が寒気でぴりぴりと引きつるのを感じながら、薄らと雪が積もり始めた石段を登った。

 舞姫は既に始まっているようで、開け放たれた正門の向こうから微かな笛の音が響いていた。

 恵餌祭の間は、篝火かがりびを始めとする神域を隔てる火が境内に移される。小さくなった火の輪は社務所の裏を通って舞姫の舞台へと続き、その内側にはうつほさまのお席と御神体だけがある。

 舞台を囲む人の輪の最後列に加わって、爪先立ちで肩と肩の隙間を覗いた。

 ゆったりとしたリズムで回る舞姫、その奥に灯された境界と御簾みすの向こうにうつほさまのお姿が透けている。

 厚みのある白いはね、豊かな毛で覆われた柔らかな巨体。

 空穂とは似ても似つかない、私たちの神様。

「あれ、もう始まっとるが」

 小走りでやってきた親子連れが、私のすぐ後ろに並んだ。父親が小さな子供を舞台に向けて抱き上げる。

「ほれ見い、今年の舞姫はいっとう美人揃いだに」

「今年こそ花嫁さまが選ばれるかもしれんねぇ」

 他愛ない会話がちくりと鼓膜を刺した。

 ──うつほさまの花嫁。

 数十年に一度だけ選ばれる、恵餌郷でいちばん特別なひと。

 祭の翌朝、舞姫の額に現れるがその証。具体的な言い伝えがある割に、私も母も実際に選ばれた人の名前を知らない。

 花嫁のお役目はただひとつ。次のうつほさまの器をつくること。詳しい内容は教わらなかったが、そう難しいことではないだけと聞かされていた。

 しゃらん、と鈴が打ち鳴らされる。笛の音が長く伸びて、舞姫が終わったのがわかった。

 途端に早鐘を打ち始めた心臓のせいで、耳の先まで血が上った。寒いふりをして口許を隠しながら、人の波を縫って社務所の方向へ抜ける。

 誰に引き止められることもなく社務所の裏手に踏み入ると、建物の日陰は祭の喧騒から切り離されたようにしんとしていた。

 人気のないこの場所にも、恵餌祭の蝋燭は定められた間隔で灯されている。この特別な火は、雨風で揺れることはあれど消えることは決してない。

「しぃ」

 空穂の声に心臓が跳ねた。

 そろりと視線を上げる。

 ひとつの足跡もない雪の上、白い着物姿の青年が立っていた。

「おいで」

 炎の破線の向こうから、空穂が私に手を差し伸べる。無数の火傷跡が刻まれた右手の爪先が、境界の縁で、止まる。

 ──火の外側は人の道。火の内側は神様の道。

 今までだって、物の受け渡しで掌くらいは互いに境界を超えてきた。そのいずれも、直に触れ合ったことはなかった、けれど。

 小さく喉が鳴るのがわかった。

 かじかんだ右手を持ち上げ、伸ばして──指先が、僅かに触れる。

 手首を強く引かれたと思った時には空穂に抱き上げられていた。蝋燭の火が掠めた脚は空穂の左腕にさらわれて、他人行儀に膝小僧を揃えていた。

 空穂の腕の中から呆然と、満足げに微笑む翠の眼を見上げた。

 至近距離から覗き込めば覆面の下が見えるのだと知った。その頬にまで火傷跡が伸びていたことも、初めて。

「見せたいものがあるんだ」

 空穂の声は子供のように弾んでいた。そのまま奥へと歩き出すので、私は慌てて空穂の首にしがみついた。

「ちょ、ちょっと待って」

「取り落としたりはせんよ」

 そうじゃなくてと言おうとすると、空穂が頬を寄せて囁いた。

「ここはおれの土地だ。何人たりともお前を害しはしないとも」

 曙色の髪の先が額を撫でた。繰り返した想像よりも腕や肩は骨張っていた。頭も体もいうことを聞かなくて、それ以上何も言えなかったし、考えることもできなかった。

 空穂に連れられて辿り着いたのはお社の裏手だった。飛び石が雪に覆われ、こんもりとした形だけを残している。

 その先には、お社より古びた様子の、ごく小さな石祠せきしがあった。

「これが舟だよ」

 ほこらまつられたそれは、昔話から想起する形とは随分違っていた。

 黒い塊。

 おおらかな輪郭の三角錐は私の拳よりも小さく、金属とも石ともつかない表面には僅かな光沢が煌めいている。

「母は故郷を追われ、恵餌えじへ流れ着いておれを産んだ」

 右腕に座らせるようにして私を抱き直して、空穂は石祠の前に膝をついた。

 その指がそっと舟の欠片を撫でる。

「お前たちの故郷はおれの故郷でもある。これまでも、これからも、お前たちの幸いがおれの望みだ」

「空穂は?」

 反射的に尋ねると、空穂は訝しむような沈黙を返した。

「空穂の幸せはどこにあるの?」

「全てここに。お前たちの訪れを待つあいだ、穏やかな微睡まどろみこそが幸いである」

 覆面の下で、唇は確かに微笑んでいた。空穂が立ち上がると、羽織の上に積もった雪が音もなく滑り落ちた。

 不意に、強く風が吹いた。

 乾いた音を立てて、木塀の向こうで灌木かんぼくの枝が折れる。吹き散らされた斑模様の雪に混じって、小枝がひとつ、空穂の右の掌に落ちた。

 空穂が息を吹きかけると、灰色の枝は季節を早回しにするように伸び、瑞々しい葉を芽吹かせた。同時に、空穂の指に新しい火傷が音もなくわだちを刻んでいく。

「己が望む道を知らぬ子よ」

 痛々しい肉色の傷を意に介した様子もなく、空穂は私にその枝を与えた。人の肉が焼ける匂いが微かに鼻をついた。

「どうかお前に幸いがありますように」

 祈るように厳かな声だった。

 何も言えないまま、私は枝を持たない方の手を伸ばした。空穂の頬は冷え切った皮膚の感触がした。滑らかな肌に残された幾層もの火傷の帯は、顎と首を通って着物の下まで続いている。

「痛い?」

「平気だよ。この器はよく保った。つよく造ってくれたには心から感謝している」

 知らない名前だった。一拍遅れてその意味に気付いて息が詰まった。

 ふと遠くに視線を投げた空穂が、覆面の陰で微笑むのが見えた。

「今日はもうお行き、しぃ。迎えが来ているよ」

 ──ざく、と雪を踏む音で我に返った。

 呆然としたまま視線を落とし、自分の脚で社務所の裏に立っていることを確認する。足元には蝋燭の境界があり、その向こうには足跡ひとつない雪原が広がっていた。

 空穂の姿はどこにもなかった。

「しぃちゃん!」

 耳慣れた声と足音が背後から駆けてくる。振り返ると、雪野姉さんが息を切らせて駆けてくるところだった。

「ど、どこに行っちゃったかと、思った……」

 ぜえぜえと肩で息をしながら、雪野姉さんが私の腕に縋る。

「お、お昼になっても、しぃちゃんが帰ってこないって聞いて、絶対へんだって思って……」

「えっ、もうそんな時間?」

 昼食の時間を大幅に過ぎていることを教えられて、勢いよく血の気が引いた。

「お、お母さん怒ってた?」

「怒ってた、けど、一緒に謝ってあげる」

 ようやく息を整えて、汗だくの雪野姉さんが微笑む。差し伸べられた手を握ろうとして、違和感を覚えた。

 二人揃って視線を落とした先、私の右手には光沢のある葉のついた灰色の枝が握られていた。一月にはありえないはずの、青々とした桑の枝。

 雪野姉さんの表情がさっと強張るのがわかった。

「と、とらないで!」

 咄嗟に枝を背に庇うと、雪野姉さんの黒い瞳がいつになく切実に揺れた。

「しぃちゃん!」

「だ、大事なものなの」

 それ以上何も言えぬまま見つめ合った。

 長い沈黙の末、「わかった」と先に息を吐いたのは雪野姉さんだった。

「人のものをとるのは、よくないもんね」

 ぶすくれた表情で、雪野姉さんがもう一度大きなため息をつく。

 それから、どこか吹っ切れたように笑った。

「いいよ。何回だって迎えにくるから」

 雪野姉さんの髪が雪片を散らして大きくなびく。いつの間にか、雲の切れ間から青空がのぞいていた。

「帰ろう、しぃちゃん」

 私は頷いて、今度こそ雪野姉さんと手を繋いだ。

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