くちなしの夢

香久山 ゆみ

くちなしの夢

「くちなしの香りが好き」

 そう言ったら、変な奴だ、と彼が笑った。雨あがりの夜のことだった。

「朽ちた梨の匂いがするから、くちなし、だろ?」

「そうよ。甘い香り」

「甘ったるすぎて、僕は駄目だな。胸焼けしそうだ」

「あら、あの甘すぎるのがいいのよ。まるで夢の世界にいるみたいで」

 そういうものかな、と言いながら、彼は夜道でそっと私の手を握った。

 ずいぶん前のことだったと思うけれど、彼は覚えていてくれたのだろう。今、私の入院するベッドのそばには、くちなしの枝が生けられている。白い花が三輪開いている。病室には大好きな甘い香りが漂い、まるでゆらゆらと夢の中にいるよう。

 病室のドアが開く。彼だ。部屋着のようなだぼだぼの服を着て、髪もぼさぼさで、私に会うために慌てて出てきてくれたのかしらと、ほんわり嬉しくなる。

「あ、起きてたんだ」

 ベッドの上から視線を送る私に気付いた彼が、ベッドの脇のパイプ椅子に腰掛ける。

「調子はどう?」

「少しぼんやりするけれど、大丈夫よ。あら、そちらの方は? 」

 彼の後ろに、彼より二回り程年上だろうか、四十代後半くらいの女性が立っている。目鼻立ちははっきりした感じではないが、どこかで見たような。

「ああ、お袋だよ」

「あら、お母様でしたか。どうも。こんな、寝たままですみません」

 慌てて挨拶をする。急にお母様を連れてくるなんて、ひどい。あらかじめ言っておいてくれれば、もっときちんとした格好をしたのに。お化粧だってして。ああ、そうだ。くちなしの夜、私たちは初めての口づけを交わした。お友達や家族の話題をあれやこれやとお喋りしていた私に、彼は不意打ちでふと唇を合わせた。

「なにするの」

「きみがあまりよく喋るものだから。口無し、だよ」

 驚いて目を白黒させる私に、彼はそう言って、私の唇にくちなしの花弁をそっと押し当てた。あの時のくちなしの花弁は、大事に持って帰って、押し花にしたのだった。どこにしまったかしら……。

「ねえ、ねえ、大丈夫?」

 彼が心配そうに覗き込んでいる。思い出に耽って、ついぼんやりしてしまったようだ。大丈夫よ、と彼に微笑む。彼の方こそ。目の前の彼は、思い出の頃よりも、ずいぶん痩せてしまったようだ。でも、私に向けてくれる表情は変わらない。愛情が伝わってくる。

 けれど、私は。私は、もう長くない。ずっと彼と一緒に居たかったけれど、叶わない。彼もそれを知っている。だから、お母様を連れてきたのだろう。家族に紹介して、私に結婚のまねごとの夢を見せようとしてくれたのだろう。だけど、今、私の夢は、あなたの幸せ。ああ、彼に伝えたい。

「あのね……」

「なに?」

「私、あなたに会えて、とても幸せだったわ。あなたとの未来に、たくさんの夢を描いた。……結婚して、子どもを産んで、そうね、一人目は女の子がいいかな。子どもはすくすく育って。けんかしながらも幸せな家庭。笑いながら一緒に年を重ねて。最期は、子どもや孫たちに見守られて、そっと眠りに就くの」

 彼は私の手をそっと包んで、優しく微笑み、頷いてくれる。お母様は、後ろで、ハンカチを目頭に当ててらっしゃる。優しそうな人。あんなお母様と家族になりたかったな。

「でもね、……私にはもう、時間がない。だから、私の夢をあなたに託すわ……。長生きしてね。そして、素敵な人と出逢って、幸せな家庭を……」

 そうして、私は、長い眠りに落ちた。甘い香りに包まれて、永遠の夢を。


   *


 彼女の最期を見届けて、お袋は声を上げて泣いた。

「……母さんは、幸せだったかしら?」

 涙が枯れると、ぽつりと呟いた。

「幸せだったって言っていたじゃないか」

「けれど、あれは本当の母さんじゃないわ」

 婆ちゃんは、一昨年倒れて以来、認知症が悪化し、どんどん記憶を失っていった。記憶は少女時代まで退行し、自分の娘であるお袋のことが分からなくなり、俺を死んだ爺ちゃんだと思ってた。

「だけど、最期に婆ちゃんが描いた夢、それは現実の婆ちゃんの人生そのものだっただろ。だから、もう一度夢に見るほど幸せだったってことだよ」

 そう言ってやると、お袋はまたわあわあ泣き出した。

 白い花がそっと、甘い香りをはなっていた。

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