書きかけの手紙

桑鶴七緒

書きかけの手紙

書きかけの手紙


時は昭和47年。残暑が過ぎても蝉の声がまだ鳴りやまない騒がしい時期。深夜の東京の何処かでは静けさを知らずにわだかまりを作りながら、風情だと詠みあげる毛の荒物が粗相を起こしている頃の時間帯。私は居間の机に向かい、ある人物宛の手紙を書いていた。書き終えたところでペンと眼鏡を置き、深い溜息をついた。


私「3時か。早いな。」


机の灯りを消して、ベッドに横になった。隣にはもう1人私の愛する人が居た。何時もなら、穏やかに眠る顔を横目に私も安心ながら眠りについていた。それなのにどうして私は1人でこうして寂しく居なければならなくなったのか。神は私達にこの様な試練を与えたのか。きっと宿命として受け取るようにと伝えに来たのかもしれない。決して卑怯ではない。卑怯な事など私達もしていない。純粋に人を愛する事の何がいけなかったのか。引き裂かれたこの思いをどう立ち直らせればよいのか、此処数か月1人で己の心と闘っている。今日はもう気が立っている心身を休めよう。そうすることできっと彼も宥めてくれるに違いない。深い睡魔が圧し掛かり私は眠りについた。

翌朝目が覚めて、カーテンを開けると空は雲の切れ間から陽が差していた。


午前9時。昨日書いた手紙を一読して、封に閉じた。上着を羽織り、近くの郵便ポストに手紙を投函した。自宅へ戻ると、やかんに水を張りコンロに火を点けた。最近食欲が湧かないのか朝食はトーストと少しの惣菜で済ませるようになった。窓際の傍の床の間の棚の上に幾つかの寫眞立てや花が飾ってある。その中の優しく微笑む彼の寫眞を真ん中に置き、淹れたての珈琲を置いた。


昨年の秋に最愛の恋人のナツトがこの世を去った。死因については後程語っていこう。


前年の昭和46年、桜が散って川沿いにその花びらが流れる様に風情を残した頃、ナツトが咳をしながら帰宅した時の事であった。


私「風邪でも引いたか?」

ナツト「先週からなんだけど、喉の奥が痞える感じがしてさ。ただの風邪で治まるといいけどね」


ナツトは大事を取ると言い、仕事を半休して病院へ行った。3時間後、帰宅してから私に病状を告げた。


私「梅毒?それ、本当か?」

ナツト「そうみたい。先生に診てもらった時、尿と血液検査が必要になるからって言われて。血液の結果は2週間後になるみたい。その時に反応が出れば間違いないって。」

私「そうなると、俺も検査を受けに行った方が良いかもな。疑いがあるしさ。」

ナツト「そうだね。俺の次の診察の時に同行できそうかな?」

私「あぁ。職場に伝えておくよ」

ナツト「誰にも、言わないで」

私「分かった。兎に角次の結果を待とう」


2週間後、再び二人で診察に行き、医師から話を聞いた。


医師「深瀬さんの結果ですが、陽性反応が出ました。尿管から感染された梅毒だと断定できます。失礼ですが、お二人の関係は?」

私「恋人として付き合っています」

医師「そうであれば、性行為もしていると、言えますよね」

私「はい。何度かは」

医師「現在の進行状況からは、初期の段階となるので、日常生活には問題ないかと思います。もし高熱や体外に異変が出ましたら、直ぐにこちらに来てください。」

ナツト「あの、浦井さんの検査は?」

医師「念の為これから受けてください。宜しいでしょうか?」

私「お願いします」


診察が終えて、受付の会計前の座席に二人で暫く座って会話をした。


ナツト「これからどうなるんだろう。生活に支障がないって言ってたけど、あの症状って進行すると、他の臓器と合併症が出るって話だよ」

私「あまり深く考え過ぎるな。兎に角今は普通に生活していても、大丈夫だって言っていたし。」

ナツト「性交は出来ないって言ってたね」

私「あぁ。感染防止になる事には気を付けていかなければならないな」


ナツトは私の腕を掴み、俯きながら寂しそうにしていた。


私「ナツト、これ見て」

ナツト「あはは。何、変な顔しているの?」

私「そうだ、笑え。俺はお前が笑っているのを見るのが好きなんだ。笑って嫌な事全て吹き飛ばせ」

ナツト「ありがとう。それだけでも十分だよ」

私「家に帰ろう」

ナツト「うん」


どんな些細な事でも良いから、ナツトが笑って過ごす時間を増やしてあげたい。特別な事をしなくても、傍に居てくれるだけで、十分幸せだ。この時はまだ私達も気持ちの余裕はあった。しかし、病は音を立てずに彼の身体を芯から蝕んでいく兆しが少しずつ現れ始めていた。


1ヶ月が過ぎたある晩に、私が浴室から出て、次にナツトが入ろうと服を脱いだ時、首から背中にかけて、円形の湿疹の様な物が出ていた。彼は特に痒くは無いと言っていたが、翌朝、私が先に起きて朝食の支度をしていた時、ナツトが起きてこないので、ベッドに行ってみると、顔を赤らめて息を苦しそうにしていた様子が見れた。


私「ナツト、俺の声、聞こえるか?」

ナツト「身体が熱いよ。起き上がれない…」


急いで体温計を測ってみると、38度7分まで上がっていた。タクシーを呼び、かかりつけの病院に着いて診察室の前で待っていると、ナツトが座っていた椅子に横たわり、かなり苦しそうに身体を丸めていた。看護士に状態を伝えると、担架にナツトが乗せられて、診察室に入って行った。医師から今日から直ぐに入院して欲しいと告げられたので、一度自宅に戻り、彼の着替えとなる物等を鞄に詰めて再び病院に向かった。病棟に着くと看護士に案内されて、病室へ入ると、ナツトは何事も無かった様な表情で眠っていた。暫くすると、目を覚ましたので、声をかけてあげた。


私「ナツト、調子はどうだ?」

ナツト「俺、寝ていたんだね。さっきよりは大分楽になったかな。」

私「何か食べたい物あるか?」

ナツト「アイスクリーム。バニラ味のが食べたい」

私「分かった。売店で買ってくるから、待っていろ」


1階の売店でアイスクリームを買い、病室に戻ると、ナツトが嬉しそうにアイスクリームの蓋を取り外し、木のスプーンで掬って一口食べた。


ナツト「冷たくて美味しい。ジュートも食べる?」

私「じゃあ一口もらおうかな。…うん、美味しい」


ナツトは幼児の様に微笑んでアイスクリームを食べていた。


私「そうだ。さっきお前の両親にも連絡しておいたよ。今週末こっちに出て来れそうだって」

ナツト「やっぱり病状の事伝えたんだ」

私「あぁ。先生が家族の人にも伝える様にと言われたし。取り敢えず来てくれるから、安心しろ」

ナツト「迷惑かけて御免ね。」

私「そんな事ない。兎に角安静にしていれば、退院もできるって言うし。また、家に帰れるから、其れ迄は辛抱していて」

ナツト「うん。頑張る。」

私「俺、会社に寄ってから家に帰るよ。じゃあまた来るから。ちゃんと食事も睡眠も取れよ」

ナツト「うん。ありがとう。またね」


腕時計を見ると、14時を過ぎていた。公衆電話で会社に連絡を入れた後、出社して2時間残業をしてから、自宅へと帰った。


翌週の土曜日の午前中に病室へと行くと、ナツトの母親が来ていた。


私「おばさん、ご無沙汰してます」

母親「ジュートさんも元気そうで良かった。この間ありがとうね。仕事も休んで、ナツトの事見てくれたんでしょう。本当に助かりました」

私「いえ。大事に至らなかったので良かったです。お前も顔色良いしな」

ナツト「ジュート、職場の人怒っていなかった?」

私「大丈夫だ。事情を話したら了解しくれたよ。」

ナツト「お母さんあの事、ジュートに話してくれないかな?」

母親「分かった。ジュートさん、ちょっと外に良いかしら?」


私はナツトの母親と一緒に待合室の椅子に座って、ある相談事を話していた。


私「多摩市の病院にですか?」


母親「えぇ。お父さんとも話したんだけど、あの子実家に近い方が安心するんじゃないかって思っていてね。貴方の傍にも居てあげたい気持ちはあるけど、先生の話から、病状がどう進行していくか、当人次第になってくるってみたいだし。」

私「確かに僕も皆さんの傍には居させてあげたいです。お任せしてしまうかもしれませんが、そうしてやってください。彼奴の為にもなりますし」

母親「ジュートさん、多摩市の方には来れそう?」

私「週末であれば行けます」

母親「此処より遠くなってしまいますが、私達からもお願いします」

私「あの…おばさん、もう少しだけ此処の病院に居させてくれませんか?」

母親「だけど、貴方もお仕事があるでしょ?働きながら通うのは大変じゃない?」

私「彼奴のパートナーとして、ギリギリまで世話をしたいんです。今の自分にやれる事を、兎に角目一杯尽くしてやりたいんです。どうか、お願いします」

母親「そうね…分かりました。もう少しだけ貴方に頼らせていただきます。貴方もお身体を崩さない様にしてくださいね。」

私「ありがとうございます」


母親を見送った後再び病室に戻り、帰った事をナツトに伝えると、ありがとうと返答していた。身体が疲れたのか、彼は眠りたいから帰っても良いと言ってきたので、少しだけ寝顔を見た後、病院から出て自宅へと帰った。一方その頃、真木は実家の呉服店の店頭にて、父親に付きながら、忙しく接客をしていた。


父親「本日はお越しいただいてありがとうございました。またよろしくお願いします。」

真木「ありがとうございました」


真木は深く溜息を吐くと父親が微笑み返していた。


父親「淳弥、大分慣れてきたようだな」

真木「はい。今日も色んな方が来てくれて良かったですね。僕、片付けるのでお父さん、先に居間に行ってください。」

父親「宜しく頼むよ」


反物を片付けた後、外の暖簾も終い、レジのキャッシャーの精算も終えた後、台所へ向かうと母親と紗子が夕食の支度をしていた。


母親「お店御苦労さまでした。今、食卓に運ぶから居間にかけて待っていて」

真木「はい。華菜は?」

紗子「居間にいるかな。多分お義父さんのところだと」


居間へ入ると、父親と娘の華菜が楽しげに会話をしていた。


華菜「お父さん!」

真木「華菜、此処に居たか。おいで。」

父親「俺も抱っこしてあげたが、また大きくなった様だな」

真木「えぇ。身長も少し高くなったみたいです。華菜、何して遊んでいた?」

華菜「塗り絵だよ。見る?」

真木「うん、見たい。…上手に塗れたね。色もちゃんと出来てる。」

父親「淳弥は絵の先生だから、分からないことは沢山聞くんだよ」

華菜「はーい」


夕食を終えた後、華菜を寝室に寝かせて、真木は2階の部屋に入って行った。以前に描き溜めたスケッチブックを開き、私の肖像画を見ながら、


真木「ジュートさん、どうしているんだろうか?」


と、呟いた。あれから5年近くはお互いに連絡も取っていなかった。都合が付けば、彼にも会いたいと私は考えていた。


翌週の金曜日、退勤した後急ぎ足で病院へ向かった。病室に入るとナツトが鼻の下に呼吸器を付けていた。


私「いつから呼吸器を?」

ナツト「2日前からだよ。また熱が出てさ、自分で息をするのがきつくなって。」

私「何か食べたい物はある?」

ナツト「要らない。今日少し暑かったのか、あまり食欲も無くて、ご飯もいくつか残したんだ」

私「水分は摂れてる?」

ナツト「うん。それは大丈夫。会社どう?」

私「今のところ安定してる。専務から聞いたんだけど、今年また1人増員させる予定らしい。年末にかけて忙しくなるから、検討しているんだって」

ナツト「良い人来ると良いね」

私「お前、眠そうだな。ベッド倒そうか?」

ナツト「もう少し話したいな」

私「そうだな…退院したら、何処に行きたい?」

ナツト「温泉が良いな。島根に玉造温泉って所があるんだけど、老舗らしいんだ。2人で行きたいな」

私「少し遠いなぁ…よし、分かった。俺も調べておくから、元気になったら、行こう」

ナツト「手、握って」

私「あぁ」


ナツトの両手は温かかった。何時もの優しく柔らかい手だ。彼が目を瞑った後、手を布団の中に入れ、病室から出て病院を後にした。


1ヶ月後、ナツトは予定通り、多摩市の病院に転院し、私も同行して、病院に着くと看護士が2人で申し送りを行い、新しい病棟に入って行った。その後ナツトの両親も病室に着き、医師から彼の状態を聞き、病状も安定しているが熱が出やすいので用心する様にと告げてきた。後に聞いたが、母親がナツトの身体を拭こうとした時、背中に湿疹の所が丸い花が開いた様な跡に変形していると話していた。正直病状は進行している様だった。

私は自宅に帰ってから、夕食を済ませた後、机に向かい、手紙を書き始めた。暫く書いていると、日頃の疲れか、眼の奥が重たく感じるのを気にしていた。最近になって老眼になり、本を読むにしても焦点が合いにくくなったので、専用の眼鏡を購入して自宅にいる時は、掛ける様になった。ひと通り書き終えたところで、窓際の壁に寄りかかり、煙草を吸いながら空の雲が早く流れていく様子を見ていた。数日後には都内に台風が来るとテレビで観て知った。吸い殻を灰皿に入れて再び吸っている時、何時だったかナツトが私の横に座って肩にもたれながら、私の煙草を吸って咽せていたのを思い出した。馬鹿な奴だなと笑いながら一緒に吹かしていたのが、懐かしい。

彼奴は俺の真似をしたがる癖もあった。自分の第一人称の呼び名も"僕"から"俺"にしたし、ローズバインで働いていたせいか、板についていた女座りからいつしか私が構える様な格好で胡座もかくようになっていた。私の横に座ると、決まって良い程、あの黒目がちの大きな瞳を丸くしながら、私の顔をじっと見つめてくる眼差し。そんな事が最近は無くなってしまい、何処か寂しい気にもなっていた。あまり寂しいとばかり言ってもいられない。今日はもう早く寝よう。居間の照明を消して、ベッドに入り眠りについた。


更に1ヶ月が経った8月の盆明けの頃に、ナツトの父親から電話がかかってきて、彼の容体が変わってきているので、病院に顔を出しに来て欲しいと告げてきた。数日後の土曜日、病室に入ると、ナツトは少し身体が痩せた様に見えた。


私「調子、どうだ?」

ナツト「今日は、朝から暑いね。ジュートも、身体大丈夫?」

私「あぁ。俺は大丈夫だよ。今日プラムを持ってきた。食べるか?」

ナツト「うん。食べる」


洗い場のところでプラムを洗い、病室に戻り、皮を剥いて差し出すと彼はゆっくりと実を齧りながら甘酸っぱくて美味しいと言って1個分を食べ切った。


ナツト「お腹いっぱい。ありがとう。ご馳走様でした」

私「今日は顔色良いな。何時ものお前だ。」

ナツト「俺、良い顔してる?」

私「あぁ。良い顔しているよ。素敵だ」

ナツト「この間ね、ママが此処に見舞いに来てくれたんだよ。」

私「え?ママが?知らせたのか?」

ナツト「お母さんに頼んで連絡したら、来てくれたんだよ。俺の顔見て、良い男だって言ってくれたんだ」

私「そうか。俺もママに会いたいな」


帰りがけに、ナースステーションに居る看護士に声を掛けて、当直した看護士に話を聞いた。


私「じゃあ家族以外、誰も来ていなかったんですか?」

看護士「はい。あの、ご家族の方からは深瀬さんの病状について、お話は聞いていませんか?」

私「また病状が進行しているんですか?」

看護士「合併症として、脳の後ろ側に腫瘍ができているんです。恐らくその影響で、先程言っていた方のお話をされたんだと思います」

私「そうですか。分かりました。また来週こちらにお伺いします。ありがとうございます」


帰りの電車の中で、ナツトの新たな病状を聞かされ、私は俯きながら目線を下ろしていた。ドアの窓から夕陽が差し込み、眩しく感じながら、窓の外に目をやると、中野駅を通過して新宿駅に電車が向かっていた。自宅に着いた頃には18時近くを回っていた。


私「あっ。買い物…何しているんだ、俺」


帰り道にナツトの事をずっと考え込んでいた分、食材の買い出しに行く事をすっかり忘れていた。再び商店街へ足を運んで、自宅に帰って行った。


1週間後の金曜日、いつもの様にナツトの居る病室へ向かうと、看護士らが慌ただしく廊下を行き来しているのが、目に入った。担架が病室へと運び込まれたので、慌てて駆け寄って行くと、同室の他の患者が別室へと運び込まれて行った。


私「ナツト、気分はどうだ?」

ナツト「今、他の患者さん、何処かに行ったよね。どうしたんだろう?」

私「状態が良くないのかもね。気にしなくても良い。今日は少し早く上がれたんだ」

ナツト「本当だ。何時もより時間早かったね」

私「気分はどう?」

ナツト「昼間に熱が出て少し苦しかったけど、今は楽になった。ジュートの顔を見たら落ち着いたよ」

私「そっか。良かった。なぁ、アイスクリーム食べたくないか?」

ナツト「食べたい。買えそう?」

私「今、行ってくるよ」


1階の売店へ行くと閉店時間になってしまったのか、扉が終いかけていたので、手で押さえつけて店員に話しかけた。


私「すいません!」

店員「きゃっ!う、浦井さん?もうお店閉めるんですよ、危ないから手を離して」

私「すいません、友人がアイスクリーム食べたがっているんです。良いから扉開けてください!」


金曜日の18時近くに駆けつける様に行くと、決まって私はこんなやりとりをしていた。呆れながら観念したのか、店員が扉の施錠を解除して、中に入れさせてくれた。


私「僕、この時間帯しか来れないんです。だから、出来るだけ、お店開けていて欲しいんですよ」

店員「あのね、こちらも規則があるんだから出来るだけもう少し早く来てくださいね。全く貴方は…。それで、今日もアイスで良いんですか?」

私「はい。一つお願いします。」


ある意味アイスクリーム一つ買う為だけの格闘技戦だ。ナツトにとっては重要な一品なのだ。病室に戻り、夕食を済ませたナツトにアイスクリームを渡すと、目をキラキラと輝かせながら、ひと口二口と嬉しそうに噛みしめながら食べていた。


私「美味しいか?」

ナツト「うん。今日はご飯も食べれたから、全部食べれそう」

私「あまり食べ過ぎるな、腹壊したら大変だぞ」

ナツト「ジュート、食べる?」

私「いや、俺はいい。お前食べろ」


今日は容体が良さそうだった。何時もより声も出ている。暫く彼と会話をして面会時間が終わりに近づいてきたので、カーテンを閉めて帰ろうとした時、ナツトが私の手首を掴んできた。


ナツト「耳貸して…キスしたい」


小声で答え、彼の唇に口づけすると、微笑みながら手を振っていた。病室を後にして、病院の外に出ると、木枯らしが吹いてきたので、コートを羽織り、家路に向かった。


更に4週間が経った、9月の下旬。病院へ入り、病室へ向かっていくと、ナツトの姿が無かった。ナースステーションで看護士に尋ねたら最上階の重症患者用の病室に移ったと言った。エレベーターで病室に向かい、中に入ると、心電図の機械や点滴に身体が繋がれたナツトの姿があった。彼の顔色は正直良くなかった。やがて目を覚まして、私に気付くと優しく微笑んでいた。


私「ナツト…」

ナツト「ジュート…良かった、来てくれた」

私「部屋移ったんだね。今日はどうだ?」

ナツト「あまり、ご飯食べれなかった。…ねぇ、ベッド起こしてくれない?」

私「今、上げるよ。…身体痛くないか?」

ナツト「大丈夫。最近仕事どう?」

私「少し忙しくなってきたかな。新規の顧客も来ているから、年末まで皆んな忙しくなりそうかも」

ナツト「僕、まだ生きていられるよね?」

私「うん。まだまだ大丈夫だよ。退院できたら、飯作るからさ」

ナツト「ジュートの作ったご飯、食べたいな」

私「沢山作ってやる。だからお前ももう少し辛抱したら、家に帰れるよ」

ナツト「がん、ばるよ。…ねぇ、僕良い顔している?」

私「あぁ。良い顔だ。綺麗だよ」


私は彼の容体が気になり看護師の元に行き、待合室で椅子にかけて話を聞いたが、脳の腫瘍が進行しており、医師からも持っても1ヶ月程だと宣告していたと話をしていたと言う。再び病室に戻ると、ナツトは眠っていたので、ベッドを平行に倒してあげた。彼の頭を撫でて、病室から出て、1階の受付所の椅子に腰をかけて暫く壁にかかっている時計を睨む様に眺めていた。


10月。平日の深夜。1本の電話が鳴り響き、相手先の声はナツトの父親だった。危篤状態になっているから、今から病院に来れないかと告げてきたので、衣服に着替えて、タクシーで病院まで向かった。病棟の廊下に彼の姉妹が来ていたので、挨拶をした。病室に入ると、熱にうなされながら苦しそうに、息を上げているナツトの姿があった。


父親「ジュート、淳哉に声をかけてあげて。何か話したがっているみたいだ」

私「ナツト、来たよ。聞こえるか?」

ナツト「ジュート。顔見せて」


父親がカーテンを閉めて、病室から出て行った。気を遣って私達2人にしてくれた。


私「ナツト、手を握れるか?」


ナツトが手を布団から出して私の手を握ってきた。


ナツト「ジュート」

私「何?」

ナツト「家に帰りたい」

私「あぁ。もう少し我慢したら帰れるよ。お前、何か食べたい物あるか?」

ナツト「ジュートの…作ったカレーライスが…良いな」

私「じゃあ具材は鶏肉とたっぷりの野菜を入れよう。振る舞うから期待していろ」

ナツト「手鏡出して」

私「ちょっと待って。引き出しかな?…あぁ、あった。顔、見えるか?」

ナツト「顔色良いね。僕、綺麗?」

私「あぁ。綺麗だ。良い男だ」

私「ジュートも、良い男…だよ」


次第に彼の呼吸が浅くなってきていたので、看護士を呼び、その後医師も中に入ってきた。私は一度廊下に出て、身体の力が少し抜ける様な感覚になり、その場にしゃがみ込んだ。中からナツトの家族が彼に声をかけている様子が伺えた。その声に反応する様に、私も次第に胸が苦しくなってきた。


明朝の雲が澄み渡る空が辺りを照らし出してきた頃、ナツトは静かに息を引き取った。

医師と看護士が廊下に出てきて、看護士が中に入る様に告げてきた。心電図や呼吸器が外されて、ベッドのシーツを整えてから、看護士が出て行くと、家族がナツトに絶えず声をかけていた。


父親「ジュート、淳哉に声をかけてやってくれ」

私「ナツト、お疲れさま。ありがとう…」


私は彼の頬に手を触れて、まだ温もりのある手を握り締めて、自分の胸にそっと当てた。3時間後、退院してからナツトの実家に行き、居間の床の間の前に彼の遺体が布団の上に置かれた。


父親「これから葬儀屋と打ち合わせをする。手伝ってくれるか?」

私「はい。」


通夜と告別式の日取りが決まり、私も大塚の自宅に喪服などの荷物を取りに行き、再び戻ってきた翌日、納棺士が棺に遺体を納めて、其の後、葬儀場に設置された祭壇に棺が置かれた。通夜にナツトの親族や知人らが集まり、控え室は賑やかな雰囲気に包まれていた。ナツトの甥姪が私の所に寄ってきて、少しの会話をしていた。告別式が終わり、皆が控え室に待機している間、私は棺の中のナツトの顔を見つめて、誰も居ない間に彼の唇に口づけをした。


更に翌日の出棺の日、多摩市の斎苑に到着した後、出席者全員で、火葬炉の前に立ち、中に入って行くのを見届けた。皆が控え室に行く中、私は父親に此処で暫く一人になりたいと告げて、火葬炉の出入り口の前に暫く立ち尽くし、焼かれて行く音や匂いに包まれながら、ポケットから煙草を取り出して一服した。控え室に行くと親族と合流し、少しだけナツトとの馴れ初めも話していた。その後、火葬炉から遺体が出てきて、骨上げを行い、白い骨壷に納められた。全ての葬儀が終わり、ナツトの実家に向かう途中の車内の中に、西陽が強く照らしていた。まるで、彼が私達を包んで守ってくれている様な雰囲気にも見えてきた。居間の祭壇に白木の箱と遺影を納めて、家族で雑談をした後、私は母親から自宅に傍に置いて欲しいと、予め用意してあった位牌と寫眞を渡してくれた。挨拶をしてから、親族に当たる旅館の渡辺さんに駅まで送迎してくれた。電車で多摩市から立川駅で行き、乗り換えた後、新宿駅から大塚駅で下車してから、自宅に到着した。居間に上がり窓際の棚の上に位牌と寫眞を飾り、畳の上に胡座をかいて暫く眺めていた。


私「そうだ、夕飯買わないと…」


喪服から衣服に着替えて、近くの惣菜屋に弁当を買いに行き、家に戻ってから、会社に電話をかけて、葬儀が終わった事を伝えた。夕食時、弁当の蓋を開けて、白飯を一口食べた。温い。惣菜も何時もより温く感じた。途中まで食べたが味覚が美味しく感じられない。畳の上に寝転がり、天井を見つめていた。


私「飯を手抜きしたのは、何時以来だ…?遅くなってもちゃんと作っていたのにな。なぁ、ナツト。…ナツト?」


居るはずも無いのに、人恋しくなったのか、思わずナツトを呼んでいた。起き上がり、卓上の弁当の残りを食べて、ゴミ箱に捨てた。予め浴槽にお湯を沸かしていたので、シャワーで身体を洗い流した後、湯船に浸かった。心地が良い。あれ程疲れていたのに、湯に入り暫く浸っていると、身体の芯まで温まってきた。浴室を出て部屋着を着てから、真っ先にベッドに横たわった。


2日後、会社に出勤すると、専務が寄ってきて話しかけてきた。


専務「ここ数ヶ月間色々大変だったな。少しは落ち着いたか?」

私「はい。ご家族の方々にも挨拶できました。ご姉妹のお子さんも大きくなっていて、色々話ができたので良かったです」

専務「また49日法要にも顔を出すんだろう?その時も休んでも良いから、また報告してください」

私「ありがとうございます。」

社員「顔やつれた感じだね。体調大丈夫?」

私「疲れが出ているだけです。今日からまた通常通り頑張りますから」

社員「無理しないでね」


皆が気を遣ってくれて、私も改めて感謝していた。


1ヶ月半が過ぎた49日法要の当日、再びナツトの実家に顔を出した。法要が終わった後に、母親からナツトが生前、私宛に書いたという手紙を渡してくれた。自宅に着き、机の椅子に座って、その手紙を読んだ。中には私と過ごした日々の内容について書いてあり、約束して欲しい事も書かれてあった。


もし自分が亡くなった場合は、49日を過ぎた後に、仲間等に死因を伏せて伝えて欲しいという事。以前から2人で話していた養子を迎える事と、その子供が20歳を過ぎたら私と彼の関係を話す事。そして北海道の中部圏にある向日葵畑へ子供を連れて一緒に見に行く様にして欲しいという内容が書かれていた。彼なりの遺言だった。手紙は"最後になりましたが"の文字で途中までの書きかけの状態で終わっていた。彼奴は最後に何を話したかったのだろうか。


数日後、私はローズバインで働いていたママや常連客だった三田の寫眞館の石田さんに連絡を取り、ナツトが亡くなった事を伝えると、最期まで面倒を見てくれてありがとうと返答してくれた。念のため真木にも連絡を入れた。


真木「そうだったんですね。お疲れさまでした。ジュートさん、元気出してくださいね」

私「やっぱり声が沈んでいる様に聞こえるか…なんとか持ち堪えているよ。ちゃんとしていないと、彼奴に叱られそうだからな」

真木「そうですね。ナツトさんまた何かしら言ってきそうな感じしますよね。あの、また落ち着いたら、お会いしませんか?」

私「店は大丈夫なのか?」

真木「えぇ。私も慣れてきましたし、子供も落ち着いていますから。気晴らしに喫茶店でも行きましょう」

私「また俺から連絡するよ。ありがとうな」


電話を切った後、真木の妻の紗子が傍に寄ってきた。


紗子「ナツトさん、亡くなられたんですか?」

真木「ああ。彼の遺言で死因は伏せて欲しいとのことだ」

紗子「私達もお見舞いに行けばよかったですね」

真木「いや、逆に行かなくて良かったよ。二人の事だしさ」


翌年。3が日が過ぎた平日、退勤後、大塚の商店街沿いにある文具店に立ち寄り、便箋と封筒を買い、自宅に着いてから、机に向かって引き出しから万年筆を出し、ナツト宛の手紙を書いた。無事に新しい年を迎える事が出来たことなど、日常の話を簡潔に伝える様に書いた。


翌朝、出勤前に、会社の近くにある郵便ポストに手紙を投函した。彼奴がどんな顔で読んでくれるか、想像しながら会社に向かった。

その日の晩、レコード盤を流しながら本を読んでいる時に、真木から電話がかかってきた。


私「明日の日中か?そうだな、久しぶりに外に出たいな。」

真木「それじゃあ、折角なんで、銀座まで出ましょう。」


前回話していた通り、真木と銀座の松屋百貨店の近くにある喫茶店で待ち合わせをした。店内に入ると、奥のテーブル席に真木が先に座っていた。


真木「お会いできて嬉しいです。お変わりなくいらっしゃって、安心しました」

私「俺も一人になってから、新年を迎えたが、例年通り過ごしているよ」

真木「ナツトさんの事は本当に驚きました。まだ僕と同い年なのに、とても寂しいです」

私「お前も彼奴の事、気遣ってくれていたんだな。ありがとうな」

真木「色々ご迷惑をかけた事もありましたし、お会いして詫びたいくらいでした。そのうち墓参りにでも行って挨拶したいです」

私「次の1周忌にお前も同行するか?」

真木「お時間が合えば行かせてください」

私「彼奴の家族にも伝えておくよ。前に旅館にも一緒に泊まったしな」

真木「ご家族の方々もお元気ですか?」

私「あぁ。親族が多いから、葬儀の時も賑やかで盛り上がっていたな。」

真木「貴方が相変わらず穏やかで良かった」

私「俺か?」

真木「はい。年を重ねても、佇まいが素敵でいらっしゃる」

私「そうか?それは有難い言葉だな」


真木は私の顔を見つめて優しそうに微笑んでいた。


私「真木、其処まで見てくるな。逆に異様な気に思えてくる」

真木「すみません。学生の頃からの癖で、物や人を眺めてしまうんです」


私も暫く彼に会って居なかった分、以前の様な眼差しで考える事を忘れていたが、彼独自の翡翠の玉のような瞳で見られてくると、引き込まれるかの様に、色恋の感情が脳裏に溢れ出してきそうだった。私も瞬きが続き咳払いをして、わざと視線を逸らしていた。すると、真木はくすりと笑った。


真木「其処も変わりませんね」

私「何がだ?」

真木「ジュートさんは、親しい男性にはそうして目を合わせない。以前の僕と同じ様だ」

私「言っておくが、俺はもう誰も好きにはならない」

真木「自分に嘘を、付かない方が良いんじゃないですか?」

私「ナツトに叱られそうで逆に怖い」

真木「見えない物の方が何かと怖いと言う噂がありますからね」

私「止めろ。物怖じする話は嫌いだ」

真木「もう、子供じゃあるまいし」


すると、彼は何かを思い出したのか、急に席を立ち、店主に電話を借りたいと告げて、自宅にかけていた。


真木「すみません、これから先約の件で急いで店に戻らなければならなくなったんです。また別の日にお会いして、話の続きをしませんか?」

私「あぁ。良いよ。気をつけて帰れよ」

真木「失礼します」


強気な姿勢を見せながら、ああいった様にそそかしい所も相変わらずだった。私は1人で微笑みながら珈琲を啜った。


翌週の土曜日。再び真木から電話がかかってきた。


真木「先日はお恥ずかしい所を見せてしまい、申し訳なかったです」

私「今日はどうした?」

真木「実は今近くまで来ているんです。お会いする事はできますか?」

私「まぁ良いが。家は大丈夫か?」

真木「紗子さんには予め出掛けると伝えてあるので、大丈夫です」


暫く待つと玄関のチャイムが鳴り、真木が自宅に到着した。


真木「此処に来たの何年振りだろう、5年ですかね」

私「そうだな。もうそんなに経ったか。…大きな鞄だな。スケッチブックか?」

真木「そうです。久しぶりにまた貴方を描きたくなって。押しつけがましいですかね?」

私「そんな事はない。また描いてくれるのか?」

真木「はい。少しお付き合い願いますか?」

私「あぁ。何処に座っていようか?」

真木「其処の椅子で良いですよ」


真木は居間の隅に座り、スケッチブックと数種の鉛筆を鞄の中から取り出し、早速下絵に取り掛かった。


真木「何か話をしていても良いですよ」

私「そうだな…あれから、仕事はどうなったんだ?」

真木「今、実家と大学の大学院の広報部で働いています。」

私「そうか。あれからどうしているか、気になっていたんだよ」

真木「出勤は週に3、4日くらいです。家の事もありますし。」

私「子供はいくつになった?」

真木「3歳です。遊び盛りで、家の中を走り回っています。2人で注意しているんですが、もう聞かなくて」

私「元気な証拠だな。近いうちに俺も会いたい」

真木「えぇ。是非来てください。人が好きなので、喜んでくれると思います」

私「改めて見ると、お前も顔つきが変わって良くなったな。」

真木「中身は其れ程変わりませんよ。5年経っても相変わらず悩みながら模索しています」

私「お店はどうだ?」

真木「お陰様で常連の方々に良くしてもらっています。口伝えなのでしょうか、新規の方にも来てもらえる様になってます」

私「ご両親にも安心してもらえて良かったな」

真木「あれだけ継ぐ事を拒んでいたのに、年が経つ毎に考え方も色々変わりました。僕にとっては子供が出来た事が一番驚きました。」

私「独りで居るつもりだったのか?」

真木「えぇ。結婚が駄目なら養子を迎えようとも考えてたくらいでした。」

私「養子か。私も子供が欲しいと考える事もあるな」

真木「ジュートさんが?あ、すみません。つい口が先走ってしまいまして」

私「良いんだよ。18歳で結婚して子供が出来た頃には出兵したから、それからは独りでも良いと思っていたが、ナツトと出会って暮らす様になってからは、いつか養子を迎えたいと2人で話していた事もあったんだ」

真木「そうでしたか。ナツトさん、子供好きでしたしね」

私「以前神社に参拝しに行った時に、何の願い事したんだって聞いたら、子供が欲しいって言ってたな」

真木「そのうち考えても良いんじゃないですか?…よし出来た。」

私「少し美化して描いてないか?こんなに顔立ちがはっきりしていないぞ?」

真木「そのままの貴方を描きましたよ。年齢を重ねて素敵になってますし。」

私「俺も中年真っ盛りだからな」

真木「やっぱりこうしていると、昔の自分達に戻りますね」

私「俺も。時間が止まった様な感覚になる。」


真木は咳払いをしては何処かそわそわとして落ち着かない素振りを見せた。


真木「そういえば、お二人で旅行は行く事はできたんですか?」

私「年に一度位だったが、箱根や日光あたりには行けたよ。彼奴凄い喜んでいたな」

真木「それは良かった。…あの、提案というか、お誘いしたい事がありまして。」

私「誘い?何の事だ?」

真木「いや、その…妻が良かったらジュートさんと一緒に旅行でも誘ってあげたらどうだって話をしてくれて…」

私「紗子さんが?珍しいな。家の事で忙しいのに、俺に気を良くしてくれるというのは…」

真木「無理であれば結構です。今のこの歳で男二人で、温泉なんて…流石に難しいですよね」

私「お前は俺と行きたいか?」

真木「はい。…またお話もしたいですし。ナツトさんのお話も聞いてあげたいし。…駄目元ですが、いかがでしょうか?」

私「良いよ。行こうか。」

真木「お休み取れそうですか?」

私「あぁ、有給休暇を使えば行けるよ。49日も過ぎたし、気持ちも落ち着いてきた頃だしさ。行こう。」

真木「良かったぁ。何処にしましょう?行きたい所とかありますか?」

私「少し遠出をしたいんだ。島根に行きたいな」

真木「島根ですか?そうなると玉造温泉がありますよね?何故ですか?」

私「ナツトが行きたがっていたんだ。歴史の或る所だから、私と行きたいって話していたな」

真木「僕で良いんですか?」

私「誘ってきたのはそっちだろう。お前も2、3日連休取れるか?」

真木「えぇ。予定の日数は多めに空けているので大丈夫です」

私「…連れて行ってくれ」

真木「ジュートさん?」

私「少し肩を貸してくれ」


私は真木の隣に座り、彼の肩に寄りかかった。


私「どうやら、気持ちが混同している。お前と一緒なら気晴らしにゆっくりしたいんだ」

真木「珍しく、甘えてきましたね。」

私「お前、嫌がらないのか?」

真木「貴方はあまり他人に甘える事をしないですよね。良いんですよ、こういう時は、誰だってこうしたくなる」


今の年齢になっていながらも、昔愛した彼に再び想いを開くなど、どうしたものかと自身の身に情けを感じてしまう。しかし真木はいつになく受け身の姿勢で私の話を聞いてくれた。


真木「何時頃にしましょうか?」

私「3月の頭になりそうだ。予定組めそうか?」

真木「お得意様の来店もあるので、調整できるか、帰ってから確認します。それから、また連絡しますね」


真木は私の手を握り、肩を叩いて帰る支度をした。


真木「ジュートさん、会社は同じ所で?」

私「あぁ。働いている」

真木「辞めないでくださいね」

私「どうした?」

真木「ナツトさんの事で、気落ちしているけど、どうか職場だけは続けていただきたいんです」

私「簡単には辞めない。彼奴とも生前約束していることだしな」

真木「分かりました。では、これで失礼します。」


玄関の扉を開閉し、静かに家を出て行った。私はまた思い立ち、机の椅子に座って引き出しから、便箋と万年筆を取り出した。最近の出来事でも書こうか。彼奴はどんな顔でこの手紙を読んでいるんだろうか。色々想像しながら、ペン先にインクを含ませてしたためた。


翌週、会社に出勤するとある女性が印刷室の前のドアの前に立っていた。


堀田「おはようございます」

私「おはようございます。」


彼女は緊張した面持ちで、社内を見渡していた。他の社員が出勤して皆が全員集まり、朝礼が始まった。


専務「今日から職場で働く堀田さんです。挨拶をお願いします」

堀田「おはようございます。本日よりこちらで働く事になりました、堀田と言います。よろしくお願いします。」


堀田菜絵。印象としては小柄で控えめな性格で物腰の柔らかい雰囲気という感じだった。ある先方先と提携している設計事務所からの出向で数か月在籍することになった。


社員「席が此処になるから。向かいの方は浦井さんです。」

私「浦井と言います。よろしくお願いします。」

堀田「よろしく、お願いします。」

社員「浦井さん、これ先週伝えた伝票。今日中に表に起こしておいて」

私「はい。」

社員「堀田さん、社内の中を案内するから付いてきて」

堀田「あ、はい。…えっとメモ帳…」


彼女は慌てながら鞄からペンとメモ帳を出して、社員の跡をついて行った。その後来客が訪れたりと、週の初めから社内は慌ただしい様子だった。昼休憩になり、近くの惣菜屋で弁当を買いに行き、会社に戻り休憩室に入ると、他の社員が堀田と会話しながら食事を摂っていた。


社員「それじゃあ、設計事務所で働くのは今回が初めてなんだね?」

堀田「そうなんです。ずっと事務の仕事はしてきているんですが。」

社員「前職は何処に居たの?」

堀田「言いにくいんですが、葬儀会社の営業事務でした。結構残業もあって、大変でした」

浦井「此処は残業が少ない方だから、働きやすいと思うよ。今日来たばかりだから、慣れるまでは、ゆっくり覚えていって良いんだよ」

堀田「ありがとうございます。頑張ります」

専務「皆んな此処に集まっていたんだね。再来週なんだが、堀田さんの歓迎会をやろうかと思ってね。時間取れそうかな?」

社員「僕は大丈夫です」

私「僕も行けます」

堀田「私も大丈夫です。」

専務「じゃあ、浦井さん。お店の手配、またお願いしても良いかな?」

私「はい。探しておきます」

社員「来て早々ね。若い子が来たから張り切っているのかしらね?」

私「おそらくそうだと思いますよ」

社員「浦井、どの辺にする?」

私「此処から近い方が良いかな。後で電話かけて予約できるか聞いてみるよ」


歓送迎会などがあると、決まって良い程、私がお店の手配を任される。決して嫌ではない。寧ろ頼られている感じがあるので、こういった時は自分も嬉しくなるものである。早速休憩室の隅に置いてある本棚の中から、飲食店の情報が掲載してある雑誌を取り出し、数店に目を通した。退勤時間が近くなり、堀田は先に退勤して、専務と課長と私が社内に残った。


課長「浦井、お店は決まったのか?」

私「えぇ。数軒は。これから電話で聞いてみます」


何軒かお店に電話をかけてみると、御徒町駅の近くにある居酒屋に予約を入れる事が出来た。


2週間後、会社から御徒町駅へ移動して、予約した店に入り、席へ着くとそれぞれ飲み物を注文した。専務が乾杯の音頭を取り、皆が美味しそうにジョッキに注がれたビールを飲んでいた。注文した品物が来て、取り分けながら食べては飲んだりして、皆は和やかにしていた。


社員「堀田さん、仕事どうだい?」

堀田「少しは落ち着いてきました。皆さん優しいので、働きやすいです」

私「まだ、色々覚える事もあるけど、遠慮なく言ってきてね」

堀田「はい。」

社員「堀田は今独身?」

堀田「はい。付き合っている人もいません」

社員「じゃあ浦井さんと一緒か。他の人等は既婚者だからね」

堀田「浦井さんお独りなんですか?」

私「あぁ。よくね、見えないって言われる。」

堀田「てっきりご結婚されているのかと思っていました。」

社員「浦井くん、不思議よね。こんな良い男なのに、どうして独り身なのか。良い相手居ないの?」

私「飲み会の度に言ってきますよね。居ないですよ。」

社員「何だったら僕紹介しますよ。知り合いの子で結婚したがっている人がいるから、連絡先交換します?」

私「もう酔ったんですか?結構です、間に合っていますから」

社員「という事は、彼女いるでしょ?居ないのも変な話よね」

私「分かりました、今度紹介しますから。全く。堀田さん、皆んな酔っているから、気にしないでね」

堀田「はい。」


皆の酒が進んでいる頃、堀田は店員を呼んで酒を注文していた。


私「結構飲むんだね。お酒好きなの?」

堀田「はい。こういう時なんで、なんか進んじゃうんです。浦井さんも注文しますか?」

私「いや、俺は良い。あまり飲み過ぎるんじゃないよ」

堀田「なんか吹っ切れたって感じです」

私「何が?」

堀田「前の会社、凄く忙しくて休みも少なかったんです。なのに、残業代も殆ど出なくて。散々でした」

私「そうか。此処の人達は皆、気さくな人ばかりだから、長く務まると思うよ。俺も、もう10年近く働いているから」

堀田「浦井さん、ちょっとトイレの方に行きません?」

私「どうした?」

堀田「良いから、来てください」


堀田は私に聞きたい事があると告げてきて、二人で店内のトイレの前に来た。


私「どうしたの?」

堀田「皆さんの前だと言いづらいので、此処なら良いかと思って。今度お時間ある時に、一緒にお茶しませんか?」

私「構わないが、別に席で話しても良い話じゃないか?」

堀田「見られていない所で貴方に話したくて…そうしたら連絡先交換しましょう?」

私「あぁ。…名刺上着の中だ。向こうに戻ろう」


堀田は私の顔を暫く見つめて、鞄から連絡先の書いたメモを渡した後、私の唇に口づけをしてきた。


堀田「…後で名刺くださいね。」


堀田は先に席へと戻って行った。酔った勢いで私の唇に触れてきたのだと思うが、私は少しばかり、その場から立ち止まっていた。席へ戻ると皆が帰り支度をしていたので、私も堀田に自宅の連絡先を書いて名刺を渡した。

御徒町駅のホームで皆でそれぞれ別れて、自宅へと向かって行き、家に着くと、私は飲み足りなかったのか、冷蔵庫から2本ビールを取り出した。部屋着に着替えて、ナツトの写真の前に座り、ビールを1本彼の前に置き、乾杯するように缶を鳴らし、そのまま飲んでいった。


私「今日、飲み会で新人の子にキスされたよ。この歳の俺にしてくるなんて、不思議でしょうがない。お前…またやきもち焼くだろうな…」


ナツトの写真を眺めながら、ビールを飲み、次第に視界が朦朧としてきたので、ふらつきながらベッドの上に横たわった。いつしか眠りにつき、気がついた頃には朝の7時の時間になっていた。


土曜日の午後、商店街へと買い物に出かけ、自宅に戻ると電話が鳴っていたので、慌てて受話器を取ると、堀田から連絡が来ていた。


私「明日の日中か?それなら空いているよ」

堀田「分かりました。では、明日お願いします。失礼します」


早速、彼女から喫茶店でお茶を摂りたいという誘いの連絡が来ていた。先日の歓迎会で年齢を聞いたら、28歳だと言う。今時の若い子だな、思い立ったら即行動する。言われてみれば、私も同じ年の頃にナツトと暮らし始めたんだったな。あの時も彼女と似た様に私から不動産屋に行こうと誘ったんだった。彼女の声を聞いていると、直ぐにナツトの事が思い浮かぶ。きっと何処かで彼の事が恋しいのだろう。


時計を見れば夕食の時間になっていた。台所に立ち支度を始めた。今日はナツトがよく作ってくれた、豚肉の生姜焼きにした。千切りしたキャベツ、4つ切りにしたトマトを添えて、フライパンで下味を付けた豚肉を一気に焼いていった。品物を卓上に並べて畳の上に座り、いただきますと呟いた。


私「少し肉が硬いな、焼き過ぎたか?」


彼奴ならおそらく火加減を調整した方が良いと告げるに違いないな。食事の時もそうだが、家に独りで居ると、今まで二人で会話しながら過ごしていたせいか、呟く様に語る事が多くなった。朝起きると写真に向かって話しかけるし、外出と帰宅する時も挨拶する。テレビを見ていると、画面に向かって話しかけるし、風呂に入って浸かっていると、何故かナツトを呼んでしまう。何時だってそうだ。あまり独り言が多いと年をとるのも早くなりそうで、自分が怖くなる。そうしない様にと意識はしていても、気が付いたら口走ってしまうのだ。あまり考え込むのは止めておこう。浴室の浴槽に張ったお湯が沸き上がった。シャワーを浴びて、浴槽に浸かると適温の温かさに身体が安らいだ。浴室から出て、冷蔵庫のペットボトルを取り出した。毎日ビールばかり飲んでいるので、たまには烏龍茶で喉をさっぱりさせたい。コップに注いで半分くらいまで飲んだ。窓際の壁に背中をもたれて、ナツトの写真に目をやった。


私「お前、今日は何処に行ってきた?実家?電車に乗って公園で散歩でもしてきたか?公園には鳥は何か居たか?」


鳥で思い出した。5、6年位前だっただろうか。当時、酷い雨が降っていた時に、此処の窓から見える向かいの商店の軒下に、小さな生き物の影が見えた。


ナツト「ねぇ、あの下の路地にさ、何か動いているのが見えるよ。」

私「あれか?あのバタバタと動いているもの…鳥か?」

ナツト「あれ、雀の雛鳥だよ。俺ちょっと見てくる」

私「良いよ、放っておけって」

ナツト「良いから見てくる」


店の路地に小さな羽で水溜りの中を溺れる様にしていたのを、ナツトが掬って、家に連れてきた。


ナツト「ねぇ、タオルある?取ってきて」


雛鳥の身体をタオルで優しく拭き、あたふためいて動くのを大人しくなるまで二人で見守っていた。窓を覗くと親鳥なのか、雀が待っている様に雨宿りしている様子が見えたので、再びナツトが軒下に雛鳥を元の場所にそっと置き、自宅の窓から見ていると、先程の親鳥が雛鳥を嘴で咥えて、去って行った。


私「取り敢えず良かったな」

ナツト「うん。拭いてあげた甲斐があったよ。雨も止んできたね。良かった…」


ナツトは私には厳しいが、小さな生き物や草花には優しい一面があったなと、思い返していた。


翌日の日曜日、渋谷駅の宮下公園通りの一角にある喫茶店に堀田と一緒に入り、席に着いて珈琲を注文した。


堀田「渋谷、あまり慣れていない感じですね」

私「ああ。用がある時以外はほとんど来ないな」

堀田「店内も若い子が多いですもんね」

私「会社どうだ?」

堀田「何とかついていっている感じです。設計事務所も馬鹿にできないな」

私「細かい作業が多いから見落とししたら、大事にもなりうるしな」

堀田「浦井さんは10年いらっしゃるって言ってましたよね。その前の会社は何処で働いていたんですか?」

私「飲食店だ」

堀田「意外!どんな所でした?」

私「楽しかったよ。従業員の皆も良くしてくれてね。働き甲斐があった」

堀田「私も飲食の仕事憧れるな。こんな感じの所で一度でいいから接客とかしてみたいです」

私「出身は?」

堀田「埼玉の川口です。田舎者なんですよ。浦井さんは?」

私「都内だよ。日野だ。」

堀田「中央線沿いかぁ。吉祥寺までしか知らないですね」


どうも若い女性との会話が淡々としていてこれ以上何を話せばよいか考え込んでしまう。それでも堀田は何処か嬉しそうな表情で私を見ながら話をしてきた。


堀田「あの、今度は食事とかしませんか?」

私「俺の様な年配の人間でもいいのなら行っても構わないが…堀田さん、同期の人とかは一緒に行かないのかい?」

堀田「学生時代の友人は結婚して子供が居るからなかなか時間合わないんですよ。家事優先ですね」

私「まぁ、そうなるよな」

堀田「私、浦井さんみたいに落ち着いている方と気が合いそうだから、次回もご一緒させてください」


堀田はきっと素直な人なんだと思う。まるで会話は親子の様な感じにも思えた。雰囲気としては悪くはない。暫く彼女の様子でも見ていようと思った。


ある平日の社内で昼休憩を終えて、自分の席に着いた時、堀田が何かメモ紙を渡してきた。中を開くと、"今晩、食事でもいかがですか?"と書かれていた。彼女の席に視線を送ったが、こちらに気付いていなかった。女性からの誘いごとはあまり慣れてはいないが、食事くらいであれば良いかと思い、付箋紙に"良いですよ、行きましょう"と返事を書いて、彼女の席に行き紙を渡した。堀田はその紙を見て微笑んでいた。

退勤後、玄関の出入り口の前で堀田が待っていた。上野駅の居酒屋に行きたいと言ってきたので、人通りの多い場所にある所に入って行った。飲み物を注文して乾杯をすると、彼女は勢いよくグラスの酒を飲んでいた。


私「洒落たレストランでも選ぶのかと思ったが、意外な所にしたね」

堀田「逆にこういう大衆的なところが落ち着くんです。顔に似合わないって言われます」

私「男みたいな飲みっぷりで、面白いね」

堀田「中身はおじさんみたいなものですよ」

私「あはは。自分で言わなくても良いじゃないか?」

堀田「大人しくしているよりはこっちの方が楽です。浦井さん、どうして結婚しないんですか?」

私「今は相手が居ないよ。あまり結婚に関しても意識した事がなくてね」

堀田「なんか寂しい。此処まで落ち着いている人なのに居ないなんて勿体無い」

私「堀田は付き合っている人は居るの?」

堀田「居ますよ。3年くらいですかね。結婚は、意識できないな」

私「どうして?」

堀田「身体の関係で繋がっているみたいに、腐れ縁的な感じなんです。正直、別れたい」

私「相手の方は結婚に対しては?」

堀田「考えているみたいです。どうなんだろう、私なのか…別の人なのか。はっきりさせたいですね」


外観からは想像しにくい意外な返答が次々と彼女の口から出てきた。


堀田「どうして結婚しないんですか?」

私「一度18歳の時に結婚はしたんだが、戦争で家族がバラバラになったんだ。それからは…一応恋人は居たけど、去年亡くなったばかりでね」

堀田「そうだったんですね。なんか、嫌な事聞いちゃったかな…」

私「いや、良いんだ。付き合いが長かったから、もう家族の様な感じでいられたし。一緒に居て楽しい思い出も沢山できたからね」

堀田「大人だなぁ。私は家族とも仲が良くないから、良い関係でいられたのはそれだけ幸せだったんですね」

私「今でも幸せだよ。職場も皆が良くしくれるし。」

堀田「私、長く続くか正直不安です」

私「まだ分からないよ。楽しい事も増えていくだろうし。働く事に意義があるって実感も出てくるんじゃないか?」

堀田「そうだと良いですね。浦井さん、見習いたいです。…すみません、ジョッキ追加で

私「あまり飲み過ぎるなよ。誰かに似ているな…」

堀田「え?何ですか?」

私「なんでもない。…おい、ペースが早いぞ。帰りは自分で歩けよ」


堀田のビールの飲みっぷりにひたすら驚いていた。本人が言うように中身は男そのものだと感じていた。終電の時間が近づいていたので、堀田に帰る事を促したが、一向に帰ろうとしなかった。私もジョッキを数杯飲んだところで、店員を呼び勘定をした。テーブルに肘をついて顔を支える赤ら顔の堀田を起こし、私の肩に彼女の腕を回して店を出た。


堀田「もう一軒連れてってください。飲み足りない…」

私「もう十分だろ。電車無くなるぞ。」

堀田「何処かで休みたい。ホテル行きませんか?」

私「ホテルって…堀田さん、歩くの辛いか?」

堀田「私、近くのホテル知っているから、其処で休みましょう。ね?」

私「…分かった。少しだけ休もう」


堀田の言う通りの場所まで、歩いていくと、繁華街裏のホテル街が軒を連ねていた。彼女が話していたホテルに着き、部屋に入って直ぐ傍のベッドの上に仰向けに寝かせた。私の上着の裾を引っ張ってきたので、どうしたのか尋ねると、脱いで欲しいと告げてきた。


私「そんなにしたいのか?」

堀田「浦井さん、どんな人か知りたい。脱いで…」


そう言うと、堀田は起き上がり、私の背中に身体を寄せてきた。振り返ると彼女から口づけをしてきて、私の上着の背広とネクタイを脱がして、シャツとベストのボタンを外された。


堀田「貴方も舌入れてきて。そんなに照れなくて良いのに」


女性からリードされるのは、今まで殆どされた事が無い。口の中に音を立てて舌を絡めてきても、何故か感じる事が出来ない。堀田は私をベッドに仰向けに倒して、彼女が上半身の上着を脱ぐと、華奢な身体つきとふくよかな胸が露わにした。


堀田「女性と経験ないんですか?」

私「暫く振りだから、気が動転している。どうしていいものか…」

堀田「ふふっ。可愛らしくて好きかも」


私のズボンのベルトとチャックを外すと、腹の上に身を乗せてきて、首元や胸を唇で愛撫してきた。私はそれでもまだ何も感じる事がなく、わざと感じている様に声を上げていた。彼女がその声を聞くと、下着の中に手を入れて性器を舐めてきた。それには反応したのか次第に硬くなってきたのを感じる事が出来た。


堀田「私の上になって…顔見せてください。浦井さん、逃げないで」


私は彼女の首から胸や腹にかけて、舌でなぞる様に愛撫していくと、彼女が興奮してきたので、唇に口づけを交わした。ベッドの横に置いてあるコンドームを着けて、彼女の下半身を全て脱がした。


私「俺として、後悔しないか?」

堀田「最後までしてくれないと、逆に殺すよ」


こういう時の女性は恐ろしい。意を決して、彼女の溢れるくらい濡れた性器に挿入すると、私の首にネクタイを巻き付けて彼女の顔に引き寄せられ、再び攻める様に口づけを交わしてきた。1回目の性交で物足りなさを感じたのか、堀田は2回目を要求してきた。私の精力と体力を考えて欲しいと頭に過ぎったが、これで最後にしたいと思い、彼女の身体を抱き抱えて、持ち上げてから、窓側のソファに寝かせる様に身を置いた。今度は私から口づけを交わして、彼女の陰部に中指で入れて愛撫すると、弄られる感触が心地良かったのか私の指を齧ってきた。私が彼女の下に身を置くと、前戯もせずに自身から性器を挿入して、腰を上下に振ってきた。


堀田「こうしているのと、回されるの、どっちが好き?」

私「…縦に振ってくるのが良いかな」


彼女は身を委ねる様に喘ぐ声を出しながら、1人で先にいく様な素振りを見せてきた。彼女の声に合わせる様に私も声を出すと、やがて彼女は絶頂に達した。私の胸元に顔を埋めてきて切らした息をゆっくりと整える様に抱きついてきた。


堀田「浦井さん、結構やるじゃないですか。凄く気持ち良かった。」


彼女には申し訳ないが、やはり其処まで感じる程ではなかった。再びベッドに戻り、堀田が眠りについている頃、時計を見ると、朝方の4時になっていた。私は先に衣服を着て、"帰りのタクシー代として使って欲しい。後日連絡する"とメモ紙を書き、枕元に裸銭を置いた。フロントで会計をしてから、ホテルを出て、上野駅の構内で始発の電車を待っていた。彼女が起きるまで一緒に居ても良かったが、逆に本気になって好かれてしまうとぎこちない思いで会社に居るのもいかがなものかと考えた。大塚の自宅に着き、部屋着に着替えて、一眠りした。


その日の夜、昨夜の件を話そうと堀田に連絡を入れてみた。


私「今朝は先に帰って、すまなかった。ちゃんと帰れたか?」

堀田「わざわざありがとうございます。私も色々取り乱してしまった様で。」

私「俺とした事は黙っていてくれないか?実を言うと、本気では無かったからさ…」

堀田「別に言わないですよ。私達の事だけですから。そちらが本気じゃないのは、気付いています。ただ自分は浦井さんが好きな事には変わりはないので。」

私「二人きりで会うのは止そう。会社の事もあるし。分かってくれるか?」

堀田「はい。暫くは止めておきましょう。それじゃあまた会社で。失礼します」


取り敢えずは一安心した。これで溺れさせてしまったら後にも立たない事になる。一夜止まりで終われるのなら、恐らく良いのだろう。しかし、彼奴は許せないだろうな。きっと居間の何処かの隙間から私をじっくり眺めているに違いない。


2月の立春が過ぎたある日の日中、練馬区の児童養護施設を訪れ、ナツトと約束した通りに、養子を引き取る事を決めた。施設長が出迎えてくれ、園内を案内してくれた後、憩いの場に一人で絵本を読んでいるある男児を見かけた。


施設長「あそこで本を読んでいる子です。亮汰君。今、お話良いかな?」


その子は名前を呼ばれると直ぐに振り向き、本を置いて、こちらに歩いてきた。3人で施設長室に入り、椅子に腰をかけると、亮汰は私の顔をじっと見つめてきた。


施設長「子供を引き取る事は今回が初めてとお伺いしています。貴方お一人で宜しいでしょうか?」

私「はい。私だけです。」

施設長「亮汰君、こちら浦井さんと言います。ご挨拶をしてください」

亮汰「井上亮汰です。」

私「初めまして。浦井直純と言います。よろしくね」


亮汰は頷いて優しく微笑んでいた。


施設長「亮汰君は1歳の時にこちらに来て、今年で丁度4年が経ちます。今まで他の保護者の方々とはまだ面会した事がないのです。本人は落ち着いている様なので、浦井さんであれば、歓迎できるかと思います。」

私「こちらの仕事の都合で申し訳ないですが、これから何度か訪ねてから検討していった方が良いのかなと思います。亮汰君、それでも大丈夫かな?」

亮汰「はい。」

施設長「では、3月の下旬頃にまた来てください。亮汰君、戻っても良いよ」


亮汰は一礼をして部屋を出て行った。


私「素直そうな子ですね。」

施設長「ああ見えて繊細な所もありますが、貴方を見て印象が良かったのか、あれだけ落ち着いている姿は珍しいです。時々両親が何故居ないのか尋ねる事もあるんです。今後浦井さんと暮らす様になっても、今言った様な言動があると思います。じっくり考えから、またこちらに来てください」


私「分かりました、では今日はこれで失礼します」


施設を後にして、大塚の商店街のスーパーに立ち寄り、買い物をしてから自宅に戻った。早速ナツトの寫眞に向かって報告をした。


私「今日施設に行って、亮汰君という男の子に会ってきたよ。大人しいけど、素直な子みたいだ。また3月に会いに行く。その時に引き取る手続きをする予定だ。お前も見守っていてくれよ」


寫眞の向こうで微笑むナツトがこちらを向いて聞いてくれた様な気がした。


数日後の日曜日、真木から電話がかかってきて、3月の第一週目に島根に行ける事を告げてきた。


私「そうか、休み取れたか。ご実家の方にも宜しく伝えておいてくれ」

真木「はい。また近くなったら連絡します。では失礼します」


電話を終えると、真木は机の薄明かりの中、スケッチブックで下絵を描いていた。筆に持ち替え、考え事をし始めると、柄の先に口を咥えた。


「ジュートさんの身体に触れれば、以前よりもっと快楽を得られるだろう」


1人呟いてパレットに数本の絵の具を出した。顔の輪郭や首筋の線を指でなぞりながら、脳裏に写し出した私の温もりを思い出しては、片手で頭を掻いて溜息をこぼしていた。椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げ、私と性交をしている時の身体の反り具合などを思い浮かべた。動物の交尾などあっさりとしているものなのに、人間はこんなに表現豊かに体現できる生き物なのだろうか。夜明けの近い時間になって陽が辺りを照らし始めてきた。僅かばかりの時間になった、真木はベッドに横たわり肌寒い身体を毛布で覆って眠りについた。


翌月、私と真木は品川駅の新幹線が停車しているホームに入り、やがて新幹線が入って来たのを待っていた。山陽新幹線に乗車して15分後に出発し、3時間後、岡山駅に着くと特急列車に乗り換えて、更に3時間後に玉造温泉に到着した。

僅かだったが、遠くに宍道湖も見えていた。駅からタクシーで向かう途中に小川の様な穏やかに流れる玉湯川に架かる橋の、染井吉野の桜並木が見えてきた。蕾は少し膨らみかけていて、その山間の麓にかけて続いている街道を走ると、温泉街が見えてきた。東京とは違い、高い建物は無く、辺りは閑静とした町並みだが、歴史ある風情を感じた。湯元玉井館。目的地の旅館に到着し、館内に入ると、フロントで館主らしき人物が出迎えてくれた。


館主「お待ちしておりました。わざわざ遠くからお越しいただいてありがとうございます。お部屋をご案内しますので、お荷物をお預かりします。」

私「お願いします」


他の旅館よりは狭く、全6室ほどしかないこぢんまりとした趣きのある建物で、客室さつきと書かれた札の室内に入ると、本畳8畳と次の間4.5畳の居間に続く窓の向こう側に岩風呂が備えてついてあった。


真木「広さとしても丁度良いところですね。此れならゆっくり出来そうだ」

館主「ありがとうございます。お荷物はこちらの襖の隅に置いておきます。お食事は何時ごろに致しますか?」

私「18時頃にしてください。真木、良いだろう?」

真木「えぇ。宜しいですよ」

館主「かしこまりました。では、後程仲居がご用意致しますので、其れ迄ごゆっくりしてください」


館主が出て行くと、2人で畳の上に座り込み、暫く岩風呂のある庭を眺めていた。夕食の時間になり、仲居が料理を運んできた。島根和牛やのどくろの煮付け、刺身類など数種の品が並び、どれも美味しそうな物ばかりだった。2人で早速いただき、お互い顔が綻び舌鼓を打っていた。

食後、岩風呂に入ろうとした時、真木が私と一緒に入りたいと告げてきた。外は肌寒い春風が柔らかく吹いていたが、湯船に浸かるとその源泉から出る掛け流しの湯の温かさに思わず深い溜め息が出た。身体を洗った真木が入ってきて、彼も似た様に溜め息を吐いたので、微笑んでしまった。


真木「空が高い。薄曇りだけど、微かに星が見えますね。」

私「あぁ。行きの岡山の駅の辺りで雨が降っていただろう?どうなるかと思ったが、止んで良かったな」

真木「隣に寄っても良いですか?」

私「良いよ」


真木は私の肩に寄り添い、手を繋いで星を眺めていた。


真木「こうして2人きりになると、昔に戻ったみたいになる。貴方の温かさは変わらなくて安心します」

私「やはり欲しくなるよな。真木、俺養子を引き取る事に決めたんだ」

真木「幾つの子ですか?」

私「5歳の男児だ。近いうちにまた顔を合わせるよ」

真木「貴方も父親になるんですね」

私「ナツトの遺言通りにしてやりたいからな。早く一緒に暮らしたいよ」

真木「懐いてくれると良いですね。」

私「そうだな。色々不安なんだ。俺、ちゃんとその子を育てられるか、気が立って落ち着かなくて…」

真木「僕、協力しますよ。貴方の為に役に立てれば…何でも言ってくださいね」


私は真木の頬に手を合わせ、彼の唇に口づけをした。真木は息を荒くして、口の中に舌を入れ、私の肩に腕を回してきた。


真木「また愛してしまいそうだ。磁石の様に惹き寄せられる」

私「そうして欲しい。またお前を抱きたい」


その後、岩風呂から上がり、火照った身体を冷ます様に、冷蔵庫からビールを取り出して次の間の椅子に座って飲んでいた。真木は自宅から電話が来ていたので、後程部屋に戻ってきて、何の件の話かを教えてくれた。


真木「華菜が愚図る様にして、眠れないみたいです。私に付いて行きたいとせがんでいましたから」

私「まだまだ甘えたい年頃だな。早く帰ってきてくれって言ってただろ?」

真木「はい。さっきまで良い雰囲気だったのに、こういう時に限って…」

私「何だ?」

真木「いえ。独り言です。」

私「お前も正直だな。」


すると仲居が来て布団の用意をすると告げてきたので、部屋に通した。布団が敷き終えて仲居が出て行くと、真木がビールを飲みながら徐に口を開いた。


真木「父親って何なんでしょうね。母親より役に立っているのか、僕にはまだ分からないことが沢山あります。」

私「お前の場合、店頭に客人の相手をしている時間が長いから、余計子供も寂しがるだろう?仕方ない事だ。大きくなれば、そのうち分かってくれるさ」

真木「華菜、殆ど妻に寄り添う事が多いんです。僕を父親として見ていないんじゃないかって、余計感じる事があります」

私「俺は今のままで良いんじゃないかなって気がするよ。子供も気移りしやすい所もあるだろ?深く考え込む事もしなくても良いんじゃないか?」

真木「貴方も父親になれば、いずれか分かりますよ。このもどかしい気持ちが。」

私「今日はもう寝ようか。明日も行きたい所があるんだろ?」

真木「松江市内の方に出ませんか?ちょっと立ち寄りたい所もありますし」

私「良いよ。お前に任せる。先に布団に入っているからな」


居間の電灯を消して、扉側の布団の中に入った。真木は私の後ろ姿を見つめて、ビールを1缶空けてから、彼も布団に入った。2時間程経ち、私が寝返りを打って、目を覚ますと、真木が私の方を見ていた。


私「眠れないのか?」

真木「蟠りなんでしょうか、目を閉じても眠りにつけなくて…」

私「こっちに来るか?」

真木「良いんですか?」

私「あぁ。」


真木は私の布団の中に入ってくると、胸元に顔を埋めて身体に抱きついてきた。


真木「温かい。此処が、愛おしい」

私「俺も年老いた。そんなに愛おしく感じるか?」

真木「えぇ。童心に戻った様な感じです。ゆっくり眠れそうだ」


真木は深く深呼吸をして、そのまま眠りについた。私も彼の温もりが懐かしく感じていたのか、いつの間にか静かに眠っていった。


翌朝目を覚ますと、真木は先に布団をたたみ身支度を整えていた。私も急ぐ様に衣服に着替えていると、電話が鳴り、仲居が朝食の準備が出来たので、別部屋に来て欲しいと連絡してきた。朝食を済ませて部屋に戻り、真木と行き先を話し合い、旅館を出ようとした時、フロントに居た館主から呼び止められた。


館主「失礼ですが、本日は何方まで行かれるのですか?」

私「松江市内の方に行きます。」

館主「良かった。午後から暴風雨が近づいている様で、天候が良く無いみたいなんです。出雲大社など遠くの観光地には立ち寄るのを控えていただきたいと、お話したかったんです。」

私「わざわざありがとうございます。僕たちは近場を回って帰ってくるので、遅くまではかからないかと思います」

館主「では、傘をお貸ししますので…お荷物になりますが、お気をつけてお出掛けください」

真木「行って来ます。」


私達は温泉街の通り沿いにある、玉作湯神社に寄り、境内へ入り、真木が話していたある物を購入したいと言っていたので、先に社務所に寄り、願い石という紙袋に入れてある石を買い、正殿で参拝をした後、その側にある"湯山主乃大神"と書かれた丸く積み上げられた叶い石の前に立ち、願い事を念じながら石を擦り付けて、再び社務所へ行き、願い札に記入をしてから、専用の袋に願い石と札を入れて納めた。願い事が叶うまでは中を開けないという言い伝えがあるらしいので、2人でそれぞれ鞄にしまった。

その後、タクシーで駅まで行き、快速列車で松江駅まで行った。市内の県庁の傍にある松江城に着くと小雨が降り始めて来た。城内を暫く散策した後、付近の洋食店に入り昼食を済ませた。再び玉造温泉駅に戻り、雨の中、温泉街の並びにある土産物屋に入り、私はナツトに、真木は家族にそれぞれ土産物を購入した。16時頃に雨が次第に強く降ってきたので、旅館に戻った。


館主「お帰りなさいませ。丁度雨に当たりましたね。市内の方はいかがでしたか?」

真木「松江城まで行ってきました。思ったより、観光客が少なかったですね。でも、城内をゆっくり観れたので良かったです。傘ありがとうございました」

私「あの…今日は静かですね。他の宿泊者はいらっしゃるんですか?」

館主「本日は浦井様と真木様のお二人だけの宿泊となります。なので、貸し切りの様な感じになるので、どうぞゆっくりお過ごしください」


部屋に戻って、一息つくと、真木は倒れ込む様に次の間の椅子に座って溜め息を吐いた。


私「雨が酷くなってきたな。今日は内湯に入るか。俺、先に向こうの浴場に行ってくるから」

真木「えぇ。僕も後から行きます。お先にどうぞ」


浴場へ行くと温かい湯気が立ち込めていた。湯船に浸かると、冷えた身体が程良く温まって、くつろぐ事が出来た。丁度其処へ真木が入ってきて、身体を洗い流した後、湯船に入ってきた。


真木「貸し切りって何だか得した気分になりますね。」

私「今時期はまだ観光客も少ないんだろうな。温泉街も人が真散まばらだったし。」

真木「僕等二人きりだって。ジュートさん、声出しても何しているか、気付かれないんじゃないですか?」

私「ははっ。…今日は2人で出来そうだな。良いだろう?」

真木「そのつもりです。…しましょう」


私は真木の頬に片手で優しくつねり、先に浴場から脱衣所へ出て浴衣を来てから部屋に戻った。夕食後、真木は自宅に電話で連絡を取っている頃、私は部屋の机の上に置いてある宿泊者が記したノートを眺めていた。旅館や温泉街、島根県付近の観光地を廻った感想が思い思いに書かれてあった。


私「電話終わったのか?」

真木「はい。今日は華菜は私に会いたがっていた様です。やはり居ないって判ると気持ちも変わるものなんですね」

私「そうか。やはり父親が恋しいんだよ。帰ったら沢山話し相手になれよ」

真木「明日、もう東京戻るんですね。あっという間だったな」

私「束の間の休みが取れて良かったよ。お前もいつか家族を連れて旅行に行けよ」

真木「そうしたいですね。子供が小さいうちに連れて行く方が良いかもしれませんね。」


扉を叩く音がしたので、声を掛けると仲居が布団に敷きに入ってきた。


仲居「この2日間、松江はいかがでしたか?」

私「初めて来ましたが、とても居心地の良い所でした。またいつか来たいですね」

真木「男二人旅も悪くはないと思いましたね」

仲居「こういった田舎町ですが、気に入って良かったです。是非来てくださいね。では失礼します」

真木「此処の人達、親しみやすくて良いですね」

私「あぁ。都会とは違って人当たりが良い。お前と来れて良かったよ」

真木「布団、入りませんか?…僕、今日は入り口側が良い」

私「おい。飛び込む様に寝転がるな。敷いてくれたばかりだろう。全く」

真木「こっちに来てください」


真木に近寄ると彼は私の腕を引き、思い切り抱きしめてきた。


真木「まだ外が寒いから、こうして抱き合っているのが、心地良い」

私「なぁ。俺は、この通りの身なりだ。お前、抱かれても気を悪くしないか?」

真木「遠くまで来て、そんなこと言わないでください。2人でこうして居られるのも、残り少ないんですよ。…顔を良く見せてください」

私「皺の数も気付いたら増えた。どんどん弱気になっていくんだ。俺は前より孤独になってきて怖いんだ」

真木「これから養子を迎えるんですよ。弱気になっては子供も淋しがる。貴方は、そんな人じゃ無いことを僕は知っています。何があっても守らなきゃいけないんです。僕がついてます」


彼は私に口づけを交わして、羽織りを外して、布団に身体を倒してきた。


真木「以前の様に抱いてください。強く、生きなきゃいけないんだ!」


私は覚醒したかの様に目を開いて、彼の頭に手を回して再び口づけを交わした。浴衣の胸元を開いて身体を唇で愛撫していき、下着の中に手を入れて弄る様に撫で回すと、真木は興奮し始めて居た。


真木「そうだ。もっと引き裂く様に暴れても良い。僕を壊すんだジュートっ」


私は彼の言葉に従う様に、首元を強く噛み、跡が付くまで噛み続けた。浴衣の上半身を脱がして、彼の表情を伺いながら性器をしゃぶり付いた。真木の高揚している顔に近づき耳元で囁いた。


私「お前、蜜の味って知っているか?」

真木「蜜?分からない。でも、貴方の匂いに身体が疼いて痺れる様に熱くなる。凄く…熱い…」


真木は私を仰向けにして、乳首を舌で舐めてきて、そのまま下半身の周りを噛む様に愛撫していた。私の片脚を肩に掛けて浴衣と下着を脱がし、硬くなった性器を擦り合わせ出来た。真木の腕にしがみついた私は布団からはみ出る様に身体が悶えていた。彼は私の表情や喘ぐ声を見ながら微笑んでいた。お互いが全裸になり、絡みつく様に身体を抱き合うと暫く舌を絡ませながら、口づけを交わしていった。


3時間は経ったであろうか、はだけた浴衣を着て振り向くと、真木は涙を流しながら眠りについて居た。彼の額に口づけをして、浴衣を整えて布団を掛けてあげた。


時間が静かに流れていく。彼の温もりが次第に冷めて行く中、此れまでにない甚さが私の身体を過ぎった。あと数時間で夜明けが近づいてくる。布団を被る様に覆って眠りにつこうとしても、身体が休まれない。真木が寝返りを打ってきて、その寝顔を眺めていた。あと彼とは何度許してくれるのだろうか。このまま引き摺りながら関係を保つのは到底難しくなるだろう。こんな筈ではなかった。自分の脆さを彼を抱く事で誤魔化すのは避けたいのに、隣で居られると余計欲しくなる。私は偽善者なのか。やがて睡魔が出てきて、自然と眠りにつく事が出来た。


朝6時。目が覚めて、起き上がると、真木はまだ眠っていた。トイレに用を足して洗面台の鏡の姿を見た。よく見ると目が充血して、顔を浮腫んでいた。衣服に着替えて、気分転換に近くを散策しに行った。松江の朝は凍てつく様な寒さが肌に沁みた。路地の下を流れる小川を見つめて、ナツトの事を考えていた。生きていれば2人で来たかった。それでも願いは叶わなかったが、真木が代わりに来てくれた事に感謝しなければならない。30分程歩いて、再び旅館の部屋に戻ると、真木が次の間で座って私を待っていた。


真木「何方にいかれたんですか?」

私「目覚まし代わりに近くを散策してきた。」

真木「朝食、行きましょう」


別の間に行き、朝食を済ませ部屋に戻り、荷物を詰めた後、フロントの係員に挨拶をして、駅に向かった。新幹線の車内で本を読んでいると、真木がある事を尋ねてきた。


真木「昨夜言ってた蜜の味って何だったんですか?」

私「あれは忘れて良い。大した事ではない」

真木「何となくは想像できますが、また後日教えてください」


私はある昔の出来事を思い返していた。私とナツトが一緒に暮らし始めて3年程経った頃、彼との営みは月に数回は性交をしていた。或る日の夜、ナツトから攻められる様に、私は声を上げながら、彼の肌の感触に全身が弄られる程、気持ち良さに達していた。一度眠りにつこうとした時にナツトから話しかけられて来たので、両腕を枕代わりにしてうつ伏せになりながら、暫く耳を傾けていた。


ナツト「ねぇ知ってる?ママから聞いた話なんだけど、これをしている時に、男同士にしか分からない蜜の味があるんだって」

私「蜜?蜜といえば甘い味というのが、先に出てくるが…隠語で言うところだと、男女の不倫の話などにも使われる言葉だよな」

ナツト「それもあるけど。男同士なら蜜に例えるとどんな味がする?」

私「難しい例えだな。…塩の様な感じか?あとは…切なくて苦いよな。そんな味か?」

ナツト「もう頭硬いよ。俺はジュートと性交している時には、甘くて堪らないんだよね」

私「…お前のその考えが悍(おぞ)ましいな。」

ナツト「そんな風に言わないでよ。ねぇ、続きしようよ」

私「その強さは何処から来るんだ?俺はもう寝たい」

ナツト「お願い、あと一回だけ。ね?」

私「…分かった。頼むからあまり押してくるなよ」


自分から言っておきながらも、結局真木に話す事は無かった。やがて品川駅に到着すると、構内の混雑している人混みの中で真木と別れ、家路に帰って行った。


翌週、会社に出社し、昼休憩中に、社員に松江で購入した兎の型を取った焼き饅頭を渡すと皆が喜んでくれた。温泉街での話に耳を傾けてくれて、会話が弾んでいた。その晩、ナツトの写真の前に、神社で作った願い石の入った御守りと菓子類を供えて、手を合わせ、旅の話をした。


私「まずは松江に行く事が出来たよ。雨が降っていたが、風情がある場所でくつろぐ事が出来た。教えてくれてありがとう。」


もう少しだけ話しがしたくなり、また机に向かい手紙を書いた。


ある日の午後、児童養護施設に向かい、亮汰に会いに行った。控え室で待機していると、施設長と亮汰が中に入ってきた。亮汰の表情は何処か寂しそうにしていたので、施設長に話を聞くと、産みの親が訪ねてきて、亮汰を引き取りたいと言ってきたという。


施設長「本来は引き取る事は避けていただきたいんですが、どうしても一緒に暮らしたいと融通が効かないんです。法律上守っていただきたいと話すと、後日また来ると言っていました。浦井さん、どうされますか?」

私「私は亮汰の意見を尊重してあげるべきだと思います。そうでなければ、もしもの事があった場合、また此方に戻ることにもなりますよね。」

施設長「亮汰君、何方のお家に行きたい?」


亮汰は迷わず私の方に指を指してくれた。少しだけ表情が明るくなり、私の顔を見つめていた。


施設長「では、後日向こうの親御さんと面会して、検討していただく形となります。ご足労かけますが、よろしくお願いします。」

私「こちらこそ宜しくお願いします。亮汰君、またね」


亮汰は頷いて、施設の正門の角の影が見えなくなるまで私を見送っていた。


2週間後、再び施設を訪れて、産みの親だと言う人物と施設長室で面会が行なわれた。


施設長「何度も言いますが、一度でも此方にお預かりした以上、亮汰君を元の親御さんには引き渡す事は、法律上違反してしまうのです。」

親御「なんとかお願いできませんか?この子も帰りたがっていますし、元の家の方が安心して居られる。今後の為にも良い環境で居る方がお友達も増えていけると思いますし」

施設長「亮汰君。貴方はどうしたい?」

亮汰「まだ、此処に居たい。此処で勉強も友達とも一緒に居たい」

施設長「浦井さん、貴方はいかが致しますか?」

私「亮汰君の言う通り、此方に居た方が良いでしょう。私も彼の意見に同意です」

施設長「取り敢えずは、直ぐに引き取る事をせず、私達の方で様子を見させてください。」

親御「分かりました。また何かありましたら連絡しても良いですか?」

施設長「えぇ。良くご検討してから連絡ください。では、今日はこれで終わります。お忙しいところお越しいただきましてありがとうございました」


先に親御が挨拶して帰り、その後を私が席を立ち帰ろうとした時、亮汰が傍に寄ってきて、手を繋いできた。


亮汰「また、此処に遊びに来て」

私「うん。また来るよ。じゃあね」


施設を後にして、家に着き、ナツトに報告した。


私「なかなか、上手くいかないものだな。引き取るの、難しくなりそうだ。ナツト、一旦諦めようかな…」


翌週の金曜日、会社から家に帰ると、電話がなっていたので、出てみると施設長から連絡が来ていた。亮汰が私に会いたいと話しているらしいので、翌日施設を訪れた。


私「私が、引き取り手にですか?」

施設長「あの後、亮汰君が、どうしても貴方と会って話がしたいと、何度も言って来ているんです。あまりこう言った事を取らない子なので、どうしてなのか、私も知りたいんです。」

私「亮汰君、僕と一緒に家に来たいかい?」

亮汰「うん。」

施設長「どうして浦井さんと一緒にいたいの?」

亮汰「浦井さん、1人で寂しそうだから。一緒にいてあげたい」


亮汰は私の隣に座り、腕を掴んできた。


亮汰「僕のお父さんになってください」

私「本当に良いの?」

亮汰「うん。」

施設長「これだけ懐くのも、良い事かもしれません。浦井さん、引き取る事を考えてくれませんか?」

私「分かりました。亮汰君、よろしくお願いします」


数日後、施設から連絡が来て、産みの親が今回の件について改めて話すと私が引き取る事に承諾してくれた。区役所に行き、養子縁組の手続きを済ませて、施設に着くと、亮汰が園の皆と別れを惜しんでいた。


私「では、私達はこれで失礼します。亮汰君、行こうか」

亮汰「うん」

施設長「また何かありましたら、いつでも連絡ください。亮汰君、元気でね」

亮汰「はい。」


電車で大塚の駅に向かい、自宅に到着すると、玄関で亮汰が部屋の中を見渡していた。


私「亮汰君、上がって良いんだよ。靴脱いでね」


亮汰は頷くと、靴を脱いで、居間に上がり、窓際の椅子に荷物を置いて、窓の外を眺めていた。


私「此れから近くの商店街に行って、買い物をしてくる。何か飲みたいものでもあるか?」

亮汰「何でも良いよ」

私「分かった。亮汰君も付いてくる?」

亮汰「お家に居る」

私「じゃあ直ぐに帰る様にするから、ちゃんと待っていてね」


私は買い出しに出掛けて、30分程で家に帰ってきた。玄関を開閉して上がると、椅子の上で、亮汰が絵本を読んで待っていた。私は台所に立ち、夕食の支度に取り掛かった。暫くして、亮汰が台所を見に来た。


亮汰「何作っているの?」

私「鳥の唐揚げだよ。施設長さんから事前に亮汰君の好きな物聞いたんだ。油跳ねるから、テーブルで待っていろ」

亮汰「うん。待ってる」


卓上に出来立ての品物を並べていくと、亮汰は惣菜の匂いを嗅いでいた。


私「じゃあ食べよう。いただきます」

亮汰「いただきます。」

私「どう?口に合うかな?」

亮汰「美味しい。…熱い」

私「水飲んで。ゆっくり噛んで食べるんだよ」


良かった。幸先は良さそうだ。亮汰は口いっぱいに頬張りながら、ご飯を食べてくれた。食後、お風呂に入りたいと言ってきたので、予め沸かしてあった浴室へと案内した。

私「1人で入れるか?」

亮汰「大丈夫。」

私「何かあったら、直ぐ呼んでね」


亮汰が風呂に浸かっている間、商店街で買ってきたカルピスを出し、グラスに氷を入れて液体を注いで水で割った。丁度浴室から亮汰が出て来たので、身体を拭いてやり、衣服を着させると、卓上のカルピスをじっと眺めていた。


私「それ、飲んで良いんだよ。どうぞ」

亮汰「…美味しい。まだある?」

私「あぁ。グラス貸して…さぁ、飲んで」


亮汰は嬉しそうにカルピスを飲んでいた。今日来たばかりなのに、直ぐに懐いてくれるのが、不思議な感じがしたが、彼が喜んでいる姿を見ていると、引き取って良かったんだなと実感していた。


亮汰「あのベッドの上に乗っても良い?」

私「あぁ。良いよ」


亮汰は駆け上がってベッドの上を跳んではしゃいでいた。私も横に座り、亮汰の手を繋いで微笑んでいた。


亮汰「あのね、僕の事は亮汰って呼んで良いよ。だから…僕もお父さんって呼びたい。良い?」

私「良いよ。亮汰、色々行きたい所もあるだろう?先ずは幼稚園に行く事を考えてくれないかな?」

亮汰「幼稚園?」

私「うん。また新しいお友達を作って沢山遊んで欲しいんだ。俺も字とか書いたり、本を読むのを手伝ってあげるからさ。どうかな?」

亮汰「うん。行きたい。いつから行けるの?」

私「来月に入園できる所を探すから、其れ迄はお家や公園とかで遊んでいよう。良いかな?」

亮汰「良いよ。早くいきたいなぁ」


私は亮汰の頭を撫でてあげると、照れ臭そうに笑っていた。就寝の時間になると、亮汰はうとうと眠たそうにしていたので、ベッドに寝かしつけた。私は居間の所に布団を敷こうと押し入れから出すと、亮汰がベッドの隣に敷いて欲しいと言ってきたので、布団を敷いた。彼が眠ると、そっと引き戸を閉めて、机に向かい手紙を書き始めた。今日の宛先は日野の母親にした。亮汰を引き取った事を報告すれば、きっと喜ぶに違いないと思いながら認めた。手紙を書き終えて、万年筆と眼鏡を置き、布団に入ろうとした時に亮汰が寝返りを打ってきた。敷布が落ちかかっていたので、整えて掛けてあげた。布団に入って彼の寝顔を見つめながら、次第に私も眠りについた。


翌朝、身体を押さえつけられたかの様に、重たく感じたので目を覚ますと、亮汰が私の身の上に乗って笑っていた。


私「おはよう。…お前、早いな」

亮汰「おはよう。早く起きて起きて」


朝6時。何時も起きる時間になっていた。朝食を済ませ、身支度が整い、玄関を出ようとしたら、鍵を机の上に置き忘れていたのに気付いて慌てて取りに行き、亮汰と一緒に真木の自宅へ向かった。


私「おはようございます。浦井です。…あぁ、真木おはよう。今日から預けてもらうの、申し訳ないな」

真木「いえ、大丈夫ですよ。亮汰君だね、真木淳弥と言います。よろしくね」

亮汰「浦井亮汰です。よろしくお願いします。」

真木「良い返事だ。さぁ、上がって…退勤が18時頃ですよね。其れ迄紗子と一緒に見ているので、気をつけて行ってください」

私「日野の母に連絡がついたら、また報告する。其れ迄の間よろしくな。亮汰、良い子にしているんだよ。じゃあ、行ってきます」

亮汰「行ってらっしゃい」


幼稚園に入園の手続きが終わるまで、平日は暫く真木の自宅に亮汰を預けることにした。数日後の金曜日、退勤した後、亮汰と一緒に日野に向かった。


私「ご無沙汰してます。亮汰、こちらがおばあちゃんだよ」

絹子「久しぶりだね。元気そうで何よりよ。亮汰君、こんばんは。1週間私と一緒になるけど、直純が居なくて寂しくないかな?」

亮汰「うん。おばあちゃん、よろしくお願いします。」

私「明日また荷物を持ってくるから、まず今晩お願いします。」

絹子「貴方はご飯食べて行かない?折角来たのに。」

私「明日、午前出勤と幼稚園に行くんです。だから、今日は帰ります。亮汰、おばあちゃんの言う事聞くんだよ」

亮汰「はい。」


自宅に帰ってくると、やはり誰か居ないと寂しくなる。亮汰ももう少しの辛抱だ。あの子にとって穏やかに過ごせる環境が出来れば、いずれか馴染んでくれるに違いない。翌日、日暮里駅から徒歩で10分の所にある幼稚園へ出向き、入園の手続きを済ませてきた。そのまま日野へ向かい、母の家に着き居間に上がると、亮汰が縁側に座っていた。


私「亮汰の調子はどう?」

絹子「昨日も眠れていたし、ご飯も残さずちゃんと食べていたわ。大抵の子って緊張して、落ち着かない事があると思ったけど、亮汰は今のところ大丈夫そうね。」

私「そうか、良かった。亮汰、荷物持ってきたから、着替えとかは此処から出して使いなさい。」

亮汰「いつ、お家に帰れるの?」

私「1週間後だ。その後、幼稚園に行けることに決まったから、其れ迄おばあちゃんと一緒に居て欲しい。」

亮汰「お父さんとは一緒じゃ無いの?」

絹子「直純ね、お仕事があるから、来週迄は私と一緒にいる事になるの。…大丈夫、貴方が良い子で待っていれば、早く一緒に帰れるから。」

私「亮汰。お父さんも週末また日野に来るから、先ずは5日間我慢してくれ。近くに公園も図書館もあるし、おばあちゃんともお話し相手になって欲しいんだ。おばあちゃん、ずっと1人だったんだ」

亮汰「1人?」

私「あぁ。だから傍に居て欲しいんだ。約束、守れるか?」

亮汰「うん。僕、待っている」

絹子「今日は貴方もご飯食べて行って。もうね、惣菜沢山作っちゃってね。」

私「うん。ご馳走になるよ。俺、手伝うよ」


すると、亮汰が私の左脚に掴まってきた。


私「どうした?」

亮汰「僕も手伝う」

絹子「分かった。皆んなで支度しましょう」


夕食の時間になり、皆で卓上に惣菜など品物を並べていき、亮汰も取り皿や箸をしっかりと持って並べてくれた。後片付けが終わり、私が玄関で靴を履いていると、亮汰が肩に手を掛けてきた。


私「今日、ご飯の支度手伝ってくれてありがとうな。おばあちゃんも助かったって。」

亮汰「早く、来週になって欲しい」

私「俺が居ない間、おばあちゃんと一緒に居てくれ。楽しい話が出来たら、直ぐに教えてくれよ。…あぁ、お母さん、俺、帰ります」

絹子「帰り道、暗いから気をつけて帰ってね」

私「はい。じゃあまた連絡します。亮汰、おやすみなさい」

亮汰「おやすみなさい」


大塚の自宅に着き、着替えてから、ナツトに報告をした。


私「亮汰の幼稚園決まったよ。あと1週間でまた一緒に居られる。…なんか俺の方が彼奴より緊張して、寝れるか心配になってきた。父子家庭ってこんな感じなのかな?」


寫眞のナツトが大丈夫と言ってくれた気がした。

深夜1時。何かの物音が聞こえたので、目が覚めた。暫く黙っていたが、何も聞こえてこなかったので、再び毛布を被り目を閉じた。頭の中で、亮汰が私を呼んでいる気がした。我慢だ、私も彼と同様辛抱しなければならない。彼の子も耐えているんだと考えていれば、それ程不安も無くなる。


翌朝目が覚めると、勢いよく起き上がり、居ないと分かっているのに亮汰を探してしまった。ナツトの寫眞に向かい、どうかしているものだと1人で呟いた。15時。電話がかかってきたので、出てみると、相手先はローズママからだった。


ママ「久しぶりね。元気だった?」

私「あぁ。ママも元気そうで良かった。今日はどうしたの?」

ママ「急な話で気を悪くするかも知れないけど、良く聞いてね。以前ローズバインに居た時、貴方を銃で撃った元公安の佐野って覚えている?」

私「あぁ。覚えているよ。どうかしたの?」

ママ「聞いた話、奴が最近出所したらしいの」


昔、私の命を狙っていた、佐野という男。忘れもしない。彼が殺人未遂及び傷害の罪として逮捕され、13年の刑期を終えて出所したとママが教えてくれた。


ママ「恐らくだけど、また貴方を狙っている可能性が高いの。奴の周りにも下手がいるかも知れない。」

私「実は俺、養子を迎えたばかりなんだ。こういう時に限ってうろついているなんてされたら、溜まった物じゃ無い。ママも気をつけて」

ママ「貴方が一番心配よ。そう、子供が…匿われる前に警察に連絡した方が良いかもね」

私「もし俺が見かけたら、直ぐに連絡するよ。教えてくれてありがとう」


受話器を置いた後、ナツトの寫眞の前に腰を下ろして、暫く彼の顔をみつめていた。


「ナツト、どうすれば良い?亮汰に危害を加えないと良いんだが…」


その晩、浴室から上がり、机の椅子に座って、本棚から寫眞の入ったアルバムを開いた。ローズバインで働いて居た頃に写した物だった。皆の笑顔が懐かしい。その中にナツトや踊り子達が戯けて写っている寫眞が幾つかあり、思わず笑みが溢れた。もう全員で会う事の無い昨今。ナツトを亡くした悼みを知る者は数える程しかいない。アルバムを終い、部屋の電気を消して、ベッドに入った。


それから1ヶ月程経った5月のある土曜日、亮汰と神田へ行き、古書店街の数カ所を散策して、私は自分用に書籍を買い、亮汰は以前から欲しがっていた、絵本と幼児向けの魚の図鑑を買ってあげた。帰りの山手線の電車の中で、椅子が空いていたので、亮汰と一緒に座り、彼は窓の外を眺めていた。大塚駅に着き、商店街のスーパーで食材を数点購入してから、家路へ向かっていた。


私「亮汰、袋重たく無いか?」

亮汰「ずっと持っているから重い。そっちと変えて」

私「俺の方が重たいぞ?取り敢えず持ってみろ」

亮汰「あっ…」


亮汰は袋を道に落としてしまった。すかさず拾い上げると、御免と言い、再び歩き出した。何となくだったが、背後から人の気配を感じていたが、あまり気にする程ではなかった。しかし誰かが跡をつけて居たのは確かだった。ある人物が私達が家に入って行くのを見届けていくと、駅の方に向かって歩いて行った。


翌週、会社を退勤し、幼稚園へ亮汰を迎えに行き、自宅に着いて、夕食を済ませた後、煙草が切れている事に気付いた。


亮汰「何処行くの?」

私「近くの店に行って煙草を買ってくる。直ぐ戻るから、家で待っていて」


玄関の鍵をかけ、家から100メートル程にある店に煙草を1カートン買いに行った。その頃、自宅の玄関のチャイムが鳴ったので、亮汰は私だと思い、扉を開けると、見知らぬ男性が立って居た。


亮汰「どちら様ですか?」

佐野「浦井直純さん、帰って来て居ないのかな?」

亮汰「お父さん、買い物です。あの、誰ですか?」

佐野「お父さんの知り合いだよ。此処で待っていても良いかな?」


亮汰は不信に思いながら頷き、その場でしゃがみ込んでいた。私は階段を登っていくと、扉が開いたままだったのを見て、急いで駆けつけた。


私「亮汰!…お前、どうして此処に居る?」

佐野「ご無沙汰しています。あんたに会いに来たんです。この子、ジュートの子か?」

亮汰「ジュート?」

私「帰れ。俺はお前に用はない。いいから帰ってくれ。」


私は亮汰をベッドの部屋に入れさせて、襖を閉じた。


佐野「そんな怖い顔をするな。この通り、何も持って居ないから安心して。聞いた話、あのナツトって奴死んだんだって?あんたの最愛の男が…」


私は佐野の前に座り込み、彼を睨みつける様に見つめた。


私「頼む。これ以上俺達に関わるな。何かあったらまたムショにぶち込むぞ」

佐野「恐ろしい事言うなよ。向こうにいる子供にも聞こえるぞ?」

私「話したい事があるなら、別の日にしてくれ。この通りだ」


私は彼に土下座をして、その場を凌ごうとした。


佐野「じゃあ、また来る。…楽しみだな」


扉が閉まると直ぐに鍵を掛けて、亮汰の元へ駆け寄った。


私「亮汰、怪我は無かったか?何聞かれたんだ?」

亮汰「何処も怪我してないよ。あの人、お父さんの知り合い?」

私「一応知っている人だ。いきなり来て驚いただろう?夜は出来るだけ出ないようにするから…御免な」


私は亮汰を抱きしめて背中を摩った。亮汰を浴室へ行かせて風呂に入れてあげた。浴室から上がると、裸のまま走り回りベッドの後ろに隠れたので、タオルで覆う様に捕まえて身体を抱えると彼は笑っていた。

亮汰が部屋着を着ると、ナツトの寫眞の前に座った。


亮汰「この人、お父さんのお友達?」

私「亮汰にこの人の事、詳しく話していなかったね。そう、友達だ。去年まで一緒に住んでいたんだよ」

亮汰「どんな人だったの?」

私「俺の一番の親友だ。誰にでも優しい人だった」

亮汰「親友って何?」

私「友達の中で一番大好きな人で、一番大切な人。仲のいい家族の様な人だったな」

亮汰「僕にも、親友ってできるかな?」

私「いつか出来るさ。先ずは幼稚園で沢山友達を作る事だな」

亮汰「僕ね、まだなかなかお友達が出来ない。どうすれば良いの?」

私「そうだな…亮汰から声掛けてみたらどうだ?良いよって言ってくれたら、亮汰から遊ぶ提案をすれば良い。何して遊びたい?」

亮汰「鉄棒が出来ないんだ。お父さん、教えてくれない?」

私「良いよ。次の土曜日、公園行こうか?」

亮汰「うん。ねぇ、今日ベッドで一緒に寝て欲しい」

私「あぁ。もう寝る時間だね。行こう」


亮汰が私の首に掴まって肩にもたれて眠そうにしていた。そのまま抱き抱えて、ベッドに寝かせると、涙を流して鼻を啜っていた。先程佐野が来た事に怖さを感じたんだろう。彼の頭を撫でながら、落ち着くまで暫く傍についていた。


週末の土曜日、自宅から程近い所にある公園へ訪れた。亮汰が真っ先に鉄棒に向かい、自分で逆上がりをしようと試みたが、思うように身体が上がらないので、補助する様に支えてあげた。


私「もう少し勢いをつけてお尻を上げてご覧。…腕はこう胸に付く感じで。…あぁ、もう少しだ。」

亮汰「足が上がらないよ…どうやったら良いの?」

私「前足を強く蹴って。そうだ、もう少しで上がれる。もう一度やってご覧。」


何度か上体を上げてみると、途中まで自力で上がる事が出来て、私が彼の身体を支えながら回転出来る様になった。亮汰は1人でやってみると言い、要領が分かったのか何度か挑戦しているうちに、一回転して地面に足が着地出来る様になった。彼は身体を跳ね上げて嬉しそうにしていた。滑り台やブランコで遊んだ後、商店街へ一緒に買い物をして、自宅に着いた。昼食後、遊び疲れたのか亮汰が眠そうにしていたので、ベッドに入らせて寝かしつけた。私は窓際の椅子に座って先日買った書籍を読んで時間を潰していた。

2時間程経ち、亮汰が目を覚ますと、私がいつしか眠りについていたので、身体を摩られて目を覚ました。

15時が過ぎた頃に、間食にと冷蔵庫から桜桃さくらんぼを取り出して、皿に盛り付け、卓上に出すと亮汰が種を取るのに梃子摺てこずりながら、実を食べていた。すると、電話がかかってきたので出てみると、ローズママから来ていた。


私「この間、佐野が俺の自宅に来たよ。」

ママ「貴方と子供は何とも無かったの?」

私「あぁ。大丈夫。ただまた訪ねて来るとは言っていたから、気をつける様にするよ。」

ママ「しつこくて嫌ね。何かあったまた連絡して頂戴。身の為にね」

私「ありがとう。また連絡する」

亮汰「誰?」

私「昔働いてた人からの電話だ」

亮汰「この間来ていたおじさん、お父さんの事ジュートって言ってたよね。ジュートって何?」

私「こっちにおいで。…この寫眞に写っている人達が、俺の仲間だ。ジュートと言うのは、店の皆から、渾名で呼ばれていたんだよ。」

亮汰「ジュートって何?」

私「当時呼んでいた本に出てきた人の名前。其処から取ってその名前にしたんだ」

亮汰「ここにお父さんがいる。此れはナツトさん。」

私「この人が、今電話をかけてくれた人だよ」

亮汰「男の人だよね。髪が長いよ?」

私「お店の経営者だ。一番お世話になった人だよ」

亮汰「どんなお店だったの?」

私「飲食のお店だ。お酒も出していた所だから、亮汰みたいに小さい子供が行ける場所では無い」

亮汰「楽しかった?」

私「うん。皆んな良い人だったよ。懐かしいなぁ」


亮汰はナツトの寫眞の前に行き、手を合わせて拝んでいた。


亮汰「御免なさい。」

私「どうした?」

亮汰「お供えのお菓子、食べちゃった」


ナツトの寫眞立ての後ろ側に食べた菓子の袋を取り出して、私に渡した。


私「食べたい時は、俺に言ってからにしなさい」

亮汰「はい。ねぇ、絵本、読んで?」

私「良いよ。今日は何が良い?」

亮汰「いるいるおばけがすんでいる」


亮汰を太腿の上に乗せて、絵本を読んだ。物語に登場する主人公と怪獣の口調を交えて語りながら読み上げていくと、亮汰が笑って私の口調を真似していた。その晩、亮汰を寝かしつけた後、引き出しから便箋を取り出して、手紙を書き始めた。どうか亮汰の事を守って欲しい、周囲の皆も巻き込む様な事にならない様に見守っていてくださいと、認めた。途中で筆を止めて、ガスコンロに水が入ったやかんを温めて、珈琲を淹れた。眼鏡をかけて再び手紙の続きを書き、2枚ほど書き終えたところで、封を閉じた。もう少しで6月だ。ナツトの誕生月だ。彼奴は甘い物が好きだったから、亮汰と一緒にケーキでも買いに行こうか。緊迫感が直ぐそこまで来ているのに、父親になり守るものが出来ると、気持ちに余裕があるのが不思議な感覚になる。恐らくだが、佐野は亮汰を狙う事は無いだろうが、私と一緒だと危険性は高くなる。ローズママだと子供を連れ去る事をしそうだし、日野の母の所だと余計不安だ。真木は如何だろうか。彼の所に亮汰を預ければ上手く誤魔化す事も出来るかも知れない。真木の自宅に電話を入れ、佐野がうろついている件を伝えると、取り敢えず匿えると返答してくれた。


真木「上手く話せば僕の所にも来ないかとは思いますが、打ち合う日の当日、事前に警察に連絡を入れておいた方が…」

私「いや、返って危険かも知れない。周知している者は少ない方が回避しやすいかもな。相手が以前の様に誘き出すなら、俺が単独になる確率が高い。真木が呼び出されてもお前を直ぐに放してくれるだろう」

真木「本当にそれで良いんですか?」

私「犠牲者は俺1人で良い」

真木「子供はどうするんだ?貴方が居なくなっては、亮汰君がまた元に戻ってしまう。それだけは止めてください」

私「俺は簡単には死なないよ。」

真木「何をおっしゃるんですか。貴方は生きる意義がある。貴方の指示に従うので、また何かあれば連絡ください」


真木の言葉に突き動かされたのか、亮汰の眠るベッドの横に座った。彼の手を握りしめて安らかな表情を眺めていると、自然に涙が込み上げてきた。彼は私の過去も両性愛者だとも知らない。血の繋がらない大人に対して、父親だと懐いて来るその無邪気な姿に、心が洗われる。ナツトだ。ナツトが私に傍に寄りかかる時の仕草が重なる。どうか、この子を守ってくれ。


翌週のある日の平日。専務が社員の皆に話があると言い、作業の手を一旦止めた。


専務「今月末で堀田さんが出向期間が終わります。少し早いが今週末に送迎会をしたいんだ。浦井さん、場所の手配は出来そうかな?」

私「はい。探しておきます」

社員「私も一緒に探しますね。浦井さん、よろしく」

専務「では、後程詳細を皆に伝えてください。さぁ、各自戻ってください」

堀田「浦井さん、ありがとうございます」

私「いや、大丈夫だよ。飲み過ぎるのだけは気をつけてね」


退勤後、会社を出ようとした時に、電話がかかってきたので、出てみると佐野から連絡が来ていた。


私「えぇ、では後程お会いしましょう。失礼します」

専務「どちら様?」

私「すみません、知人からでした。これから会いたいそうなので。お先に失礼します。」

専務「気をつけて帰るんだよ」

私「はい」


隣の雑居ビルの屋上に行き、扉を開けるとフェンスの所に佐野が居た。


私「何の用だ。」

佐野「この間の続きだ。お前に来て欲しい場所がある」

私「何処だ?」

佐野「上野だ。あと、連れてきて欲しい人が居る」

私「誰だ?」

佐野「真木って言う千駄ヶ谷の呉服屋の息子。昔あんたとあの店で働いていた若い奴だ」

私「何故彼を知っている?連れてくる理由は?」

佐野「当日教えてやる。今週末の金曜日、18時に上野に来い」

私「それで、終わりにしろよ。」

佐野「気分次第だ。またな」


話が済むと、急いで幼稚園へ向かった。園に着き声を掛けると、亮汰が駆け寄って私の足にしがみついてきた。


私「遅くなってすみません。この時間まで見ていただいてありがとうございます」

保育士「亮汰君、お父さんが来るまで絵本とか読んできちんと待っていました。気をつけてお帰りください」

私「失礼します。さぁ帰ろう」


2人で手を繋いで暗い路地を歩いて行き、混雑する電車の中、亮汰が人に巻き込まれない様に肩を掴みながら乗っていると、向かいにいた学生が席を譲ってくれたので、お礼を言い彼を座らせた。自宅に着き、上着を脱いで直ぐに夕食の支度をした。亮汰が眠った後、襖を閉めて、真木の自宅に電話をした。


真木「金曜日ですね。今丁度両親が外泊していて、家に居るのが3人なんです。ジュートさん、前日に亮汰君を連れて泊まりに来ませんか?」

私「そうしても良いのか?」

真木「ええ。店頭に来る客も少ないだろうし、自宅と併せて両立できますから。是非来てください」

私「分かった。そうしてもらうよ。助かる。」


木曜日の晩、亮汰と二人で真木の自宅に到着すると、真木が出迎えてくれた。その後ろから華菜が走ってきて、私に抱き着いた。


私「久しぶりだね。また背が伸びたかな?」

華菜「お泊りしてくれるんでしょう?遊んで」

真木「華菜。まず先に亮汰君に挨拶して。亮汰君、娘の華菜です」

亮汰「こんばんは。」

華菜「こんばんは」


華菜は真木の後ろに隠れて照れくさそうにしていた。紗子にも挨拶をして、2階の部屋に行き、荷物を置いて、再び1階の居間に行くと、夕食の支度をしてくれていた。


真木「折角なんで皆でいただきましょう。亮汰君、華菜座って頂戴」


部屋の床に敷いた布団の中に入り、頭の後ろに両手を回して、天井を見ていた。


私「明日の件だが、取り敢えず、子供達は此処に匿って外に出ないようにしよう。きっと誰かが尋ねて来るに違いない」

真木「佐野の手下ですか?」

私「あぁ。この間も、自宅の近くまで付き纏っていた。警察か探偵だと偽って尋ねてくるから、もし此処にも来たら、帰す様に促せ」

真木「凶器も持っているかも知れないですよね。ジュートさんを撃ってきた相手ですし、予測がつかない」


真木はベッドから降りて、布団の横に座った。私の頬に手を触れて、顔を近づけてきたので、起き上がり触らない様に避けた。


私「真木、よせ。下には子供達がいるんだぞ。」

真木「貴方の顔のパーツを見ていると、触れたくなるんです。少しだけ触れさせて」


私の唇に口づけをして肩に腕を回して抱き寄せた。


真木「もう、危険な目に合わせたくない。だから、何処にも行かないでください。佐野は何故貴方に執着するのか謎だ」

私「きっと訳があるのかもな。ただ周りにはこれ以上傷一つ付けたくない。仕方ないが命令に従って、隙があればお前が先に此処に戻ってこい。」

真木「絶対に誰も傷付けません。僕等で守りましょう」


深夜2時。身体が少し冷えたのか私はふと目が覚めた。トイレに用を足し、戻ると真木が寝返りを打って此方側に身体を向けてきた。彼の寝顔を見たいと思い、枕元の灯りをつけると、彼もまた目が覚めていた。


真木「起きていたんですか?」

私「少し眠れなくて」

真木「僕は寝ますから…」


真木は再び目を瞑り眠りについていた。顔をよく見ると口元によだれが付いていたので、私は顔を寄せて舌で舐めて拭いた。彼は少し眉間に皺を寄せてまた穏やかな表情で寝ていた。


翌日の金曜日。何時も通り会社に出勤して、専務室に向かい、明日の送迎会を欠席する事を伝えて、自分の席に着いた。昼休憩中、給湯室へ行くと堀田が居た。


堀田「明日何か急用でもできたんですか?」

私「日野の実家に行く事になったんだ。だから、皆で楽しんできてほしい」

堀田「もう少し話がしたかったなぁ」

私「向こうの事務所に戻っても、元気でやっていけよ」

堀田「はい。あの…前にホテルに行った事は忘れてください」

私「何も無かった事にしよう。お互いの為だ」


堀田は一礼して、休憩実へと戻って行った。

退勤時間になり、真っ直ぐ上野へ向かった。構内の中央改札口付近で待機していると、真木の姿を見た。


真木「まだ時間間に合いますよね?」

私「あぁ。子供達は自宅か?」

真木「はい。紗子が見ています。自宅には誰も来ませんでした。」

私「そうか。取り敢えずこれから何処に向かえば良いのか、把握してないんだ。佐野の姿も見当たらない」

真木「此処は人が入り組んでいるから、いきなりは刃向いて来る事は無いと思いますが。」


すると、近くにいた駅員が私達の傍に寄ってきて話しかけてきた。


駅員「失礼ですが、浦井直純さんというのは貴方ですか?」

私「えぇ。何かありましたか?」

駅員「駅員室から電話がかかってきて…佐野と名乗る方なんですが、知り合いの方ですか?」

私「そうです。今繋がっていますか?」

駅員「はい。案内しますのでこちらにお越しください」


駅員室の中に入り電話を取ると、佐野が告げてきた。


佐野「今から恩賜公園の蛙の像がある、噴水の前の公衆電話まで来い。余計な事は口に出すな」

私「おい、佐野っ…」

真木「何て言っていましたか?」

私「此処から近い恩賜公園の噴水の前だ。取り敢えず行こう」


言われた通りに噴水の前に来た。時間帯だけにあって、若者や家族連れ、外国人の姿も見受けられるくらいの人集りで溢れかえっていた。暫くすると、背後の公衆電話が鳴ったので、扉を開けて受話器を取った。


私「佐野か?」

佐野「次に言う事を良く聞け。その噴水の前で今から真木とキスをしろ。熱い口づけをな」

私「何を…言っているんだ?」

佐野「お前ら、出来てるんだろ?そのくらい大した事無いだろう。指示に従わないと子供を攫(さら)う。」


電話が切れて呆然としたが、子供の名前が出た途端、動悸が走り出した。


真木「佐野は何て言って?」

私「真木。俺の事、信じるか?」

真木「如何されました?」

私「眼鏡を外せ」

真木「何をするんですか?」

私「彼奴の指示に従うんだ」


私は真木の身体を引き寄せて、口づけを交わした。すると、周りの通行人達が私達の姿を見て、声を上げてきた。


「おい、彼奴ら何してんだ?」

「男同士だよ、気持ち悪い。」

「何あれ?マジヤバいって…」

「ねぇ、あの人達何やっているの?」

「見るんじゃない。なんて如何わしんだ」

「何処か行けよ、汚い」


真木「止めましょう。もう十分だ」

私「良いから続けろ」


再び口づけを交わしていると、やがて人集りがまばらになり、真木の身体を抱き寄せて、耳元で話しかけた。


私「何処かに別の公衆電話がある筈だ。探してくれ」

真木「何処だろう。暗くて見えにくい」

私「2件向こうの信号機の傍に何か鳴っている音がする。聞こえないか?」

真木「あれだ。彼処に公衆電話が見える。行きましょう」


2人で京成電鉄側の改札口の手前にある公衆電話に入り、受話器を取ると再び佐野が出た。


佐野「随分手慣れているな。良い物見せてもらったよ。」

私「次の行き場は何処だ?」

佐野「下の電話帳の中にメモ紙が入っている。開け」

私「…これか。」

佐野「その住所の書かれた場所に行け。直ぐ分かるんじゃないか?あと、浦井さん。あんた1人で来い」

真木「この住所、鶯谷の辺りでしょうかね?」

私「あぁ。真木、先に家に帰ろと告げてきた。私1人で行く」

真木「でも…」

私「大丈夫だ。子供を頼む」

真木「分かりました。本当に気をつけてください」


真木が悔しそうにしながら、駅へ向かうと私は書かれた住所へ向かった。鶯谷駅にある繁華街の路地に着いた。ローズバインがあった反対側のホテルが立ち並ぶ通りを歩いていると、住所らしき建物の前に着き、店内に入り、従業員に確認したらその場所で当たっていた。


私「此処で佐野という人物と会う約束をしている。来ているか?」

従業員「浦井様で宜しいでしょうか?」

私「あぁ。」


カウンターで待っていると、奥の狭い裏道へ案内され、黒づくめのカーテンが開かれると、中にはバーの様な内装になっていた。男の接待人と客人が絡み合う様に寄り添って、数名の接待人が私を見て微笑んできた。更に奥の居間に通されると、中には紫色の布が部屋中を覆い、間接照明の薄明かりで灯されていた。ベッドが置いてあり、此処で待つ様に告げられた。壁沿いの椅子に座っていると、ある1人の大柄の男が入ってきた。顔を見た途端、私は息が詰まった。


ミノリ「ジュート、久しぶり」

私「お前、どうして此処に?」

ミノリ「お前が来ると聞いて来た。…なぁ、早くやらないか?」

私「待て。佐野が来るまで待っていろ。それに、俺はお前とは出来ない。」

ミノリ「うるせえっ!前にやろうとした時も中途半端で終わったじゃねぇか。こっちに来い!」


ミノリが私の腕を掴みかかり、ベッドの上に放り込まれた。


私「待てって。急ぐ事は無いだろう。」

ミノリ「スーツ姿か…お前、旨そうだな。」


私の上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを外すと、ミノリが私の身の上に乗ってきた。


ミノリ「この胸板だ。…匂いも懐かしい」


私の胸や脇腹を音を立てて舌で舐めていき、ズボンのベルトを外そうとした時に佐野が中に入ってきた。


佐野「お前ら、気が早くないか?まぁ良い。ミノリ、たっぷり遊べ」

私「止めろ。こんな事をする為に来たんじゃない。佐野、こういうのは見たくはない筈じゃないか?」

佐野「本来はな。ただ折角だから、見せてくれ。どんなものか最後まで見てみたい」


ミノリは躊躇いなく、私の衣服を脱がしていきながら、身体のあちこちを舐め回してきた。ミノリも裸になると、私の下着の中に手を突っ込み、性器を弄ってきた。悶える表情を眺めながら、佐野が私の顔の傍に寄ってきた。


私「男同士ってどれだけ気持ち良いんだ?なぁ、教えてくれよ」

私「女の…セックスと同じ様な感じだ。頼むから、ミノリを止めさせろ」

佐野「ミノリ、やれ」


ミノリが私を四つん這いの体勢にさせると、尻の穴に性器を入れて来て、腰を振ってきた。身体の痛さに耐えながら、行為が終わると、佐野は黙って私達を見た後口を開いた。


佐野「哀れなもんだな。取り敢えず良い。2人とも服を着ろ」


私が衣服を着ているとミノリが佐野に近寄った。


ミノリ「佐野さん、まさかこれで終わりですか?」

佐野「結構だ。例のブツだ。…ほら、謝礼だ。受け取れ」


万札が入っている茶封筒を受け取ると、ミノリが帰り際に私に告げてきた。


ミノリ「またあのゲイバーに来てくれ。待っている。ジュート、好きだよ」


ミノリが去っていくと、佐野は鼻笑いをして、ベッドの隅に座った。


佐野「何で抵抗せずに彼奴とやった?逃げる事も出来たんだぞ?」

私「男同士がやったら、どういうものか、見れば気が済むと思ったからだ。見ていてどうだった?」

佐野「反吐が出そうだった。目の前でお前もいった顔しやがって。」

私「あのぐらいしておかないと、ミノリが納得しない。そういう奴なんだ」

佐野「まぁ良い。あと、此れを見せてやるわ」


佐野が胸元から手紙の様な封筒を取り出し、私に渡した。中を開くと、見覚えのある字体に驚愕した。


佐野「まさかと思っただろ?誰の文が判るな?」

私「どうして…ナツトの字が…彼奴が書くわけがない。お前、書かせたんだろ?!」

佐野「いや。ナツト本人が自主的に書いて渡してきた。読んでみろ」


ナツト「佐野様。突然の文を認めて申し訳ない。以前貴方が仮釈放の日、私の店に尋ねて来た時、浦井さんの件で話をしてきたが、伝えた通り、次に彼に遭う様な真似をしたら、僕を殺せ。浦井さん…ジュートには一指も触れさせない。約束を守って欲しい。」


私「…いつの間に、こんな事をしやがって」

佐野「死んだんだってな、彼。彼奴の身体が愛おしくて、真木と関係を未だに持ってるんだろう?」

私「下衆な言い方は止めろ。俺らの気持ちを弄ぶな。其れに何故真木の事を知っている?」

佐野「昔ローズバインにあんたを尋ねて行った時、丁度彼と出会したんだ。ジュートは何処だって言ったら、知らないと即答されてさ。裏口に連れ出して、一発殴ってやったんだよ。顔が色白だから、口元の赤く染まった血が綺麗に爛れていた」


私は一気に血が騒ぎ、佐野の胸ぐら掴んで壁に押し当てた。


私「貴様っ!…其処までしなくても良いだろう。何故なんだ。何故俺に執着する?殺したい程此処までやる理由は何だ?」

佐野「お前の顔を見る度に…彼奴を思い出すな」

私「誰だ?」

佐野「俺の…死んだ親父だ。あんたらと同じ男色だったんだ」


佐野は俯きながら、淡々と話し出していた。


佐野「俺とお袋にそれを打ち明けた後、その日にお袋が自殺を図った。その翌年に海軍として出兵されて、終戦後に再び親父に会いに行くと既に死んでいた。」

私「それを機に公安に就いたのか?」

佐野「そうだ。片っ端から悪だとうろつく奴らを捕まえては、その中の男色や女の同性愛者等もひっきりなしに半殺しの目に遭わせてきた。その頃、谷沢に会い、あんたの寫眞を見た時から、自分の手で殺めてやると計画し始めたんだ」

私「何の罪も無い人達を死に目に遭わせるなんて…狂っているな」


すると、佐野が鋭利な刃物を抜き出して、私の頬に擦り当てた。


佐野「悔しい事に…若い頃の親父、あんたに似ているんだ。今直ぐにでも片付けてやりたいくらいなんだよ。」

私「またムショに行きたいのか?そんな人生で亡くなった母親に対して報いになると思うのか?」

佐野「綺麗事ばかりが世の為じゃない。同情心を抱く事なんてしないよ。俺に改心でもしろと言うのか?」

私「頼むからもうこれ以上誰も傷付けるな。お前自身に対してもだ。」


佐野は気が立って私の肩に足をつけて蹴り飛ばすと、ベッドから床に勢いよく落ちた。壁に寄りかかると、刃物を顔の横に思い切り突き刺してきた。


佐野「このまま逃げるか、これで俺を刺すか…選べ」

私「俺は逃げない。お前も殺さない。佐野、真面になれとは言わないが、今日で俺とは最後にしろ。お前が何処かへ行くべきだ」


佐野は私の身体を床に叩きつけ、片脚で顔を踏み潰してきた。


佐野「何処まで紳士振るんだ?やはり生かす訳にはいかないな。」


先程より強く顔を踏んできて、今にも息が出来なくなる程苦しくて身動きが取れなかった。すると、廊下からある足音が聴こえてきて、佐野が其れに気付くと、扉の向こうから店の従業員がドアを叩いてきた。


佐野「何事だ?」

従業員「マルジーです。佐野さんを出せと。どうします、逃げ口も包囲されてます」

佐野「分かった。行くよ」

私「お前、彼奴らと繋がっているのか?」

佐野「運が良かったな。子供、大事にしろよ」


そう言うと、佐野は部屋から出て行った。口元が押さえつけられた靴の跡で血が出ていた。暫くしてから、店を出ると終電の時間が近くなっていたので、急いで駅へと向かった。真木の自宅に着き、玄関先で身体がふらついてしゃがみ込んだ。


真木「ジュートさん!良かった、戻って来れたんですね。紗子、肩を貸してくれ」


居間に入り、真木が止血剤で左の頬骨と口元の傷を手当してくれた。


私「此処に、誰か来たか?」

真木「僕が戻ってきてからは、誰も来てません。佐野はどうなったんですか?」

私「別の誰かに追われているみたいで、俺とはそれきりで去って行った。」

真木「大事にならなくて良かったです。子供達も寝室で寝かしつけましたから。」

私「済まないな。お前には世話になりっぱなしだ」

真木「貴方が無事に帰って来られたのが何よりです。今日は此処でゆっくり休んでください」


1階の子供が寝ている寝室に入り、布団に入って横になった。すると、亮汰が目を覚まして、私に抱きついてきた。


亮汰「お帰りなさい。…顔、痛いの?」

私「大丈夫だよ。兎に角寝なさい。明日家に帰れるから。」

亮汰「早く帰りたいね。おやすみなさい。」


長い1ヶ月だった。明日になれば、また穏やかな日が送れる。亮汰の寝顔を見つめながら、私も眠りについた。


翌朝、朝食をご馳走になり、身支度を整えて、玄関で靴を履いていると、真木と紗子が見送りに来た。


紗子「気をつけて帰ってください。また何かありましたら、私達も協力しますから」

私「今回ばかりは本当にご迷惑をおかけして申し訳なかったです」

真木「僕等を頼って良いんですよ。こちらも貴方に助けられて感謝しています。」

私「もう暫くはこの子と静かに暮らしたい。親としてしっかりしないとな。」

真木「ジュートさん、また此方に来てくださいね。僕等は何時でも歓迎しますから」

私「ありがとう。ありがとうございます」

亮汰「ありがとうございます」

私「それじゃあ、また。」


自宅に着くと、真っ先に亮汰がナツトの寫眞の前に座った。


亮汰「ただいま。ナツトさん、お父さんの事守ってくれてありがとう」


そう話すと手を合わせて拝んでいた。私も彼の横に座り、手を合わせた。心の中でナツトに話しかけた。


「当時佐野と会っていた事、本当は話して欲しかった。お前も危険な目に遭う一歩手前だったんだぞ。其処までして俺を守りたかったのか。密かにお前の中で彼奴への復讐心が湧いていたんだな。今更だが、俺達を守ってくれてありがとうな。この子も辛抱強い。頼もしい相棒が増えた気分だ。俺も大事に育てていく。」


亮汰「お父さん、お祈り長いよ。何話していたの?」

私「内緒」

亮汰「教えてよぉ」

私「嫌だ」

亮汰「ねぇ!お願い」

私「ナツトとの約束事だ。男同士の約束は話さないのが鉄則だ。お前もいつか分かるよ」

亮汰「お父さん!」

私「そんなにクネクネするな。男だろう?ちゃんと姿勢を正しなさい」


亮汰は河豚の様に脹れ面になり、その表情を見て、思わず笑ってしまった。


爽涼の候。穏やかな秋晴れの下で、奥多摩の斎場にナツトの1周忌の法要が行われて、ナツトの親族と私と亮汰、真木と紗子が参列した。高台から太陽を浴びながら見渡せる場所に彼の眠る墓がある。住持職がお経を読み上げ、皆で合掌し、しめやかに執り行われた後、会食の席で、皆が挨拶をしては、親族を中心にナツトの思い出話に盛り上がっていた。その合間に、ナツトの母親が私に寄ってきてある話をしていた。


母親「ジュートさん、あの子に何時もお手紙を送ってくれてありがとう。もう箱一杯に来る物だから、驚いちゃうわよ」

私「僕も彼奴に世話になったから、お礼に送っているんです。あの…まだ送り続けても良いですか?」

母親「飽きるまで送ってやって頂戴。なんてね。勿論良いわよ。これからも宜しくお願いします」

私「此方こそありがとうございます」

真木「ナツトさんに手紙を書いていらっしゃるんですか?」

私「あぁ。色々話したい事があって。此処1年書き続けているんだ。」

真木「きっと喜びながら、読んでいるんでしょうね」

私「そうだと良いな」

親族「ジュート、こっちで一緒に飲まないか?」

私「はい、いただきます」

紗子「亮汰君、あれから幼稚園どう?」

亮汰「お友達増えたよ。公園でアスレチックで遊んでいる」

真木「ねぇ今度華菜と一緒に公園に行ってみようか?」

亮汰「行きたい。華菜ちゃんと遊びたい」

真木「お父さんに僕から伝えておくね」

亮汰「うん。」


席に戻ろうとした時、真木の顔が目に入り、私はある事を伝える決意をした。会席の隣の空いている居間に彼を呼び出し、話をした。


私「このような席で話す会話ではないんだが…真木、今後の事でお前に大事な話がある。」

真木「どうされました?」

私「身体の関係を断ち切ろう」

真木「だから、この間の松江の時に、激しく求めて来たんですね」

私「このまま腐れ縁の様に繋がっていては、責務が全う出来ん。」

真木「では、もうこれで全て終わりになるんですか?」

私「改めてお願いがある。これからは父親同士、仲間として付き合っていきたいんだ」

真木「そうですね。その方が長くお付き合いできますからね」

私「華菜ちゃんと亮汰を友達として一緒に居させてあげたい。良いだろう?」

真木「えぇ。2人とも仲良しですしね」

私「理解してくれてありがとう。お前は信頼できる良い仲間だ」


真木は、微笑みながら私を見ていてくれた。握手をしようと手を差し出したが、真木は首を横に振った。


真木「僕らは今からが再出発の時です。握手を交わしたら、全てが巻き戻しになる。お互い其々の道を作っていきましょう」

私「分かった。これからも宜しくな」

真木「はい」



皆が笑顔で居られる幸せ。当たり前だと思っていたが、こんな風に私やナツトの事を受け入れてくれる人達はなかなか居ない。貴重な時間を過ごす事が出来て、私は恵まれた人間なのだと心底思った。


自宅に着くと疲れ果てた亮汰が既に眠っていたので、部屋着に着替えさせて、ベッドに寝かせた。自分が眠る時間まであと数時間はあったので、ナツト宛に手紙を書いた。法事が無事に終えて帰って来た事を初文として書いていったが、後に続く言葉が見つからず、途中で筆を止めて、便箋を片付けた。


ナツトの寫眞の前に座り込み、暫く眺めていると、過去に過ごした日々を思い出したのか、とめどなく涙が溢れていた。亮汰に気付かれない様に口に手を当て、顔を拭っても涙が止まらない。ナツトがもう居ない事に改めて気が付いた。仕事が休みの時は2人で出掛けたり、部屋で過ごしたり、数え切れない程愛し合った事。走馬灯が過り、両手で顔を覆い、暫く私は彼を早死にさせた事が自分のせいだと、彼と一緒にならなければもっと永く生きて居られたのだと。責める様な思いで身体を丸めながら、寫眞の前のナツトに陳謝していた。


亮汰「どうしたの?」


振り向くと、亮汰が私の後ろに立っていた。私の姿を見て亮汰は背中に抱きついてきた。


亮汰「お父さん、そんなに泣かないで。ナツトさんが見ているよ」

私「亮汰、前においで。座って。」


亮汰の肩に手を回し、ナツトに向かって話をした。


私「亮汰、ナツトはもう居ないけど、俺がお前を守っていくからな。1人じゃないからな。お前も沢山友達を作りなさい。一人でも多く仲間が居れば、心強く居られるからな」


亮汰は私の顔を見上げて、頬の涙を拭いてくれた。


亮汰「男の約束…だよね。僕もお父さんみたいに沢山友達作るよ。指切りしよう」


亮汰なりの優しさだった。小指で指切りをし、彼の頭に口づけをした。


それから、歳月は流れていき、平成9年。和暦にして1997年4月。亮汰が会社から自宅へ帰ってくると、居間の椅子に座っていた私に近寄ってある話を持ちかけてきた。


亮汰「旅行会社に立ち寄って、例の向日葵畑の事を聞いてきたよ。これパンフレット」


冊子を渡されると、其処には北海道へ行くツアーの案内が記載された物が目に入ってきた。


私「北竜町という所にあの向日葵畑があるのか?」

亮汰「うん。7月から8月にかけて、50万本以上の向日葵が咲くんだって。凄い数だよね。ねぇ、このツアーに僕等も参加しようよ。」

私「そうだな。行ってみようか。お前予約出来そうか?」

亮汰「連絡してみる。夕飯まだだよね?僕作るよ」

私「あぁ、頼む」


亮汰が中学校1年生の時に、大塚の自宅を離れ、錦糸町駅から近くの住宅街の1軒家に引っ越しをした。私も齢70になろうとしていた。あれから、長年勤めた日暮里の事務所も5年前に定年退職をして、1日の殆どを自宅で過ごす様になった。亮汰は大学を卒業後、システムエンジニアとして会社勤めをしながら、私の面倒を見てくれていた。彼も30歳になり、懐が深い立派な人間に育ってくれた。


私「煮付け、大分上手くなったな。」

亮汰「でしょ?お父さんにしごかれた甲斐があったよ。日々成長しています」

私「ふっ。何言っているんだか…そういやお前、彼女とは、どうなったんだ?」

亮汰「別れた」

私「何故だ?」

亮汰「向こうの親御さんが許してくれなかったんだよ。」


亮汰には3年間交際していた女性が居たが、ある事情で結婚が出来ないと告げられたと言う。恐らくだが、私の身分を知って断られたに違いない。亮汰は伏せていたが、その辺りは私も見抜いていた。


私「まぁ良いさ。まだ若いんだし、焦る必要も無い。お前なりにやっていけ」

亮汰「暫くはへこんでいるよ。僕も人間だもん。」

私「弱気になる必要は無い。堂々としてろ」


私達の時代とは違い、近年では繊細な若者が増える様になってきていた。亮汰もそのうちの1人だが、周囲とは上手くやっていける根性の持ち主だ。彼を信じて見守るしか他が無かった。


亮汰「でも、どうしてナツトさんは、北竜町に向日葵畑があるって知っていたんだろう?その時代ってまだ何の情報も無かったよね。」

私「きっと誰かから聞いたんだろう。まぁ近場にも向日葵畑は有るが、俺も身体が動ける内に北海道に行ってみたいな」

亮汰「明日また旅行会社に行って予約できるか、確認してみるよ」


夕飯を済ませ、亮汰が浴室からあがると、居間に座ってビールを差し出してきた。


亮汰「一緒に飲もう。…どうぞ」

私「ありがとう」


黙々とビールを飲みながら、亮汰がテレビを点けて、天気予報を見ていた。


亮汰「また明日雨か。なかなか晴れないね。夏場が暑くなりそうだな」

私「そうみたいだな」

亮汰「あのね、さっきの話なんだけど…彼女に断られたの、お父さんの事聞かれたんだ」

私「何て言っていた?」

亮汰「僕に母親が居ない事と、お父さんが再婚しない事の理由。少しだけ話したんだよ。そうしたら、信用できないって言われて」

私「そうだろうな」

亮汰「やっぱり気付いていたんだね。流石ジュートだな」

私「こんな爺さんがそういう身で有る事に毛嫌いされるのは、慣れているよ。だから、お前ももう気にするんでない。新しい人が見つかったら、また紹介しろ。寝る」

亮汰「えっ?もう?早いなぁ…おやすみなさい」

私「あぁ、おやすみ」


寝室に入り、布団を敷いて暫く上に座り込んでいた。ふと或る事を思い出して、引き出しから、1通の封筒を取り出した。25年前にナツト宛に書いた書きかけの手紙を開き、途中で文章が終わっているのを眺めていた。今となってはもう当時書きたかった思いは忘れてしまっていたので、そのまま封を閉じて、再び引き出しに戻した。


翌日、亮汰が会社に出勤した後、昨夜話していた別れ話の事を思い返していた。亮汰が20歳になった時に、私自身が両性愛者である事を告白すると、彼は冷静になって話を聞いてくれた。


亮汰「お父さんはお父さんだよ。誰に何を言われても僕の父親で有る事には変わりはない。教えてくれてありがとう。ねぇ、ナツトさんの事教えて。」

私「彼は私の親友ではなく、恋人だったんだよ。15年連れ添った相手だった。彼には最後まで良くしてくれたよ」

亮汰「やっぱり。薄々気付いていた。でも否定はしない。寫眞を見ても分かるよ、仲の良いカップルだって。ナツトさんに会いたかったなぁ。」


亮汰は素直に受け入れてくれた。こんな私を本当の父親として、支え合っていてくれて来た事が、どれだけ頼もしい事か。2人だからこそ、時折喧嘩もする事もあったが、先に折れるのはいつも亮汰だった。彼もまた色々配慮してくれていたなと思いに更けてもキリがないくらいだ。仏壇のある部屋に入って、私の母とナツトの位牌に手を合わせた。母も10年前に亡くなり、ナツトの家族ともそれきり連絡をしていなかった。鶯谷で働いていた仲間や知人らも今やどうしているかさえ知らない。ただそれでも良いのだと思う。皆静かに余生を過ごしていきたいものなんだと考えていた。外の雨が優しく屋根を伝い鳴らしながら降っている。1日1日考える事は、亮汰が無事で笑顔で早く帰ってきて欲しいという事。あの子が愛おしくて堪らない。まるで、昔のナツトの面影を重ねる様に、私は1人息子の彼に良い行いを後世に残していって欲しいのだ。玄関のドアの音がした、亮汰が帰って来た。


亮汰「ただいま。あのね、予約する事が出来たよ。7月の末日から3泊だって。もう良かったぁ。」

私「まだ時間はある。ゆっくり準備していこう」

亮汰「やっと行けるね。旅行に行くのに丁度良い時期だって言っていたよ。凄く楽しみだな」


亮汰は仏壇に行ってナツトに北海道に行く事を報告していた。


2ヶ月後の7月。飛行機で羽田空港から旭川空港へ向かい、バスで一般道を走り、山間部を越えて田畑が広がる国道沿いが目の前に広がる中、遠くの方から黄色い花々が並ぶ景色が見えてきた。


亮汰「お父さん、あれ向日葵だよ。見える?」

私「あぁ、見えるよ。」


1時間半弱で北竜町のひまわりの里に到着して、観光客らと共にバスを降りると、想像を超えた景色が眼下に聳え立っていた。薄曇りの中に太陽の日差しが差し込み、向日葵畑の一面が風に揺れながら咲いていた。近くに寄って行くと、2メートルはあるだろう一本一本の向日葵達が立ち並んでいた。ツアーガイドの人が時間内までにバスに戻る様指示をした後、私と亮汰はゆっくりと歩きながら、畑の周りを眺めていた。亮汰が寫眞を撮っては溜め息をついていた。


もう少し奥の方に行きたいと言ってきたので、畑の中を歩いていると、見覚えのある人物が居た。私より少し背の高い若者で、向日葵の花をひとつずつ触れながら、畑の中を歩いていた。私は彼の背中を追う様に向日葵を掻き分けて、跡をついて行くと、ナツトがこちらを振り向いて笑っていた。


私「どうして、此処に居るんだ?」

ナツト「一緒に来ようって約束したよね。やっと来れたね。」

私「あぁ。それにしても、凄い数の向日葵だ。どうして此処に向日葵がある事を知っていたんだ?」

ナツト「ローズバインの常連客から聞いたんだ。北海道に知り合いがいて、いつか此処の場所に向日葵を沢山咲かせて、色んな人達に来てもらうんだって約束したらしいよ」

私「そうか。それでお前が此処に来たかったのか…」

ナツト「ジュート、両手を出して」


ナツトの言われた通り、両手を差し出して手を握りしめて、もう一度手のひらを見ると、ナツトが手鏡を此方に向けた。顔を写すと、私は40歳の自分になっていた。


私「これは、一体…?」

ナツト「ジュート。僕を抱きしめて」


彼の頬に手を合わせ、思い切り抱きしめた。顔を寄せ合い、唇に触れて口づけをした。不思議な事に温もりを感じる事が出来ると私は自然に涙が出てきた。


ナツト「あの日の手紙、全部読んだよ。沢山の思い出を書いてくれたね。もう読むのに大変だったんだよ。でもね、凄く嬉しい。」

私「お前は、何故亡くなった事を俺に責めないんだ?俺が…お前を死なせてしまった様なものなんだぞ?」

ナツト「それは違う。僕の宿命さ。誰も汚してはいないよ。だから、自分を責めなくて良いんだよ」

私「頼む。お前の傍に居たい。だから、そっちの世界に俺も行かせてくれ」

ナツト「駄目。ジュートはまだ早い。ねぇ、君には大切な人が居るんだよ。後ろを見てごらん」

私「…亮汰」

ナツト「君の一番大切な人だ。彼と一緒に生きて欲しい。僕はずっと2人を見守っているから、安心して」

私「ずっと、皆んなも…一緒か?」

ナツト「ずっと一緒だよ。大丈夫。何時でも傍に居るよ。ありがとう、ジュート」


やがて、太陽の光が強くなっていき、ぼやけた光の玉がナツトの身体を包み込み、彼は微笑んだまま、その場から姿を消していった。かざした手を見ると、皺だらけの元の自分の姿に戻っていた。遠くから亮汰の呼ぶ声が聞こえたので、振り返り手を振ると、駆け寄ってきた。


亮汰「お父さん、急に走り出したからどうしたのかと思ったよ。誰か居たの?」

私「人違いだった。俺も呆けたものだな」

亮汰「お父さん見てよ。向日葵が笑っているよ」


次第に風が吹いてきて、向日葵畑全体が仰ぐように靡(なび)かせていた。北竜町の夏風はお穏やかで優しく私達を包み込むように吹いていた。


亮汰「出発時間が近くなっているから、そろそろバスに戻ろう」

私「そうか。分かった」


名残惜しいが、向日葵畑を見つめながらその場を後にした。後日、美瑛や富良野の観光地を巡り、最終日の午前に東京へ帰った。長旅の分なのか、自宅に着いてから、身体のあちこちが痛み、亮汰が心配そうに気を遣って家事を手伝ってくれた。


1週間後、猛暑が続く炎天下の中、日傘を差して郵便ポストにナツト宛の手紙を投函し、スーパーへ食材を買い、自宅に戻った。玄関の郵便受けに幾つか封書が届いていたので見ていくと、ある1通の封筒が目に入った。差出人は郵便局からだった。封を切り、中身を確認してみると、預かり物が保管されているので、近日中に来て欲しいとの連絡だった。その晩、亮汰が帰宅して封書の件を話したら一緒に行く事にした。

その週の土曜日。東京駅に隣接してある郵便局へ行き、窓口で封書を渡すと、職員が小さな段ボール箱を持ってきた。差出人はナツトの母親からで、差出年は1987年のナツトの祥月命日が過ぎた頃だった。自宅に戻り、箱の中を開けてみると、生前ナツトが書いた手紙や寫眞が複数入っていた。


亮汰「ナツトさん何時の間に書いていたんだね。封筒の裏に何か書いてある。…昭和44年3月。親愛なる人へ。そんな昔の手紙が…。中を開けてみてよ」

私「よく保管してたものだな。うん、開けてみよう」


封書を開くと、3枚綴りの便箋が入っていた。


「親愛なるジュート。君がこの手紙を開いたという事は、ようやく読んでくれている頃でしょうか。ジュートに伝えたい事があります。僕は、先日体調が思わしくなかったので、仕事を早退し、病院へ検査を受けに行きました。後日医師から生命に関わる重たい病を持っている事を宣告され、持ってもあと1、2年程だとのことです。いつ君に話そうかと悩みました。もう一度再検査があるので、その時に改めて伝えようと思います。ただ、君がこの手紙を開いた頃には、僕は生きているのかさえわかりません。ジュート、僕は君の傍で沢山の事を学んでいきました。ローズバインで出会った頃僕らは交際を始め、其の後一緒に暮らす様になり、まるで父親の様に僕の事を時折叱咤激励し、いつも前向きな姿勢で、周囲の人達の事も考えていてくれましたね。君の寛大さには何時も頭が下がります。この恩をどの様な形で返せば良いものか悩むばかりです。僕なりに君の傍に居ることが一番の恩返しになるなら何よりです。ひとつお願いがあります。今後僕宛に手紙を認めていただけないでしょうか?何時でも構いません。普段口に出して言えない事を手紙を通して、話がしたいです。君はきっと直接言えと言ってくるに違いないですが、君から手紙が送られてくる楽しみを増やしたいのです。どうかご検討ください。また手紙を書きます。ジュート、愛しています。昭和44年3月吉日。ナツト。」


亮汰「ナツトさんのお母さん、恐らくナツトさんが亡くなる前に、この手紙を預けて、其の時期が来たら送る様にお願いしていたのかも知れないね。」

私「そうだな。彼奴としては珍しい事をしたもんだな。」

亮汰「以心伝心ってものだね。お父さん、こんなに愛されていたんだね。ナツトさんも…凄い愛情深い人だな」

私「この寫眞、若い頃に居た時の店の仲間たちだ。此処に私とナツトが居る」

亮汰「2人とも、良い男だね」

私「何を言うんだ。全く」


他の手紙にも目を通すと、日頃の出来事を綴った内容の手紙が殆どだった。寫眞もローズバインに居た頃の物や店がたたんだ後に、大塚の自宅や外泊先に出掛けた時に写した物だった。改めて私が手紙を書き続けていた意味がようやく理解した気がした。彼も同様に私に伝えたい事があったのだった。数時間経って、私は箪笥から便箋を出して、久々に手紙を書いた。封を閉じた後、仏壇に供えて合掌した。敢えて内容は伏せておく。お互いしか分からない事柄だからだ。私はこの70年という歳月を時折足掻きながら駆け抜ける様に、そして穏やかに日々を過ごしてきた。思い返す事は何一つ無い。十二分見てきたものがあるからだ。この先の未来の事は知らない。だが、亮汰の為にゆっくりとした歩幅で歩いていけたら本望だ。もう少しだけ彼の傍で生きていく事を決めた。


いつしか手離すその日が来るまで、この都会の空の下で目まぐるしく流れる時世と隣り合わせに、私はまた手紙を書き続けていくであろう。

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書きかけの手紙 桑鶴七緒 @hyesu

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