麦酒のものは麦酒の元に

 「気になっていたことがあるんです。最初に画集を開いた時、どうして結澄さんにだけ影響が出て、アキちゃんはなんともなかったのか。もしかすると結澄さんは画集のことを前から知っていたのかもしれないと、僕は考えました。それが正しかったことは、アキちゃんが調べてくれました」

 そこまで喋って、三淵くんはビールで喉を湿らせた。

「もう一つおかしいと思ったのは、アキちゃんが最初に画集に触った時、どうして異常があることに気づかなかったのか。こっちは単純でした。元々画集にはおかしなところなんてなかったんです。結澄さんが本を開いたことで異変が始まった」

「今日、僕たちの前で一乗さんが画集を出した時は、触っただけで『おかしい』って言ってましたもんね。最初から画集に異常があったなら、結澄さんに見せた時点で気づいたはずです」

 伊福くんが相槌を打つ。三淵くんはうなずいて続けた。

「話を精神の分離のところに戻しましょう。結澄さんが触れた後、画集はプノイマが過剰になっていました。ということは、どこかから同量のプノイマが補充されていないといけない。それは結澄さんから、ということになります。具体的には結澄さんの過去の記憶が、結澄さんから画集に移った。結澄さんの思いが強かったせいで、本来の許容範囲以上のプノイマが画集に固着してしまったんです」

 結澄さんがそうか、とつぶやいた。

「だからすぐに罪悪感が消えたのか。罪悪感の対象になる記憶が抜けてしまったから」

「その通りです」

「先週から結澄の態度がおかしかったのもそのせいですね」

 津村さんが手酌でビールを注ぎながら聞く。

「はい。結澄さんは既死者の迎えに行きたがったって聞きました。おそらく、精神の欠損に無意識で気づいて、その原因が向こうの世界にあると思ったからじゃないでしょうか」

「そうね」

 結澄さんは柔らかいため息をついた。

「私は、自分の過去からずっと目を背けていた。でも本当になくなったら、今度は不安で仕方なくなった。そのうちに、嘆きの川の向こうに不安の答えがあるような気がしてきたんだ」

「今日、一人で嘆きの川に行ったのもそのせい?」

 私が聞くと、結澄さんは困ったように視線を逸らした。

「うん……。多分そうなんだけど、ちょっとはっきりしなくて。嘆きの川にいたような気もするけど、ずっとここで泣いていたみたいな記憶があるんだ」

「二回目に画集に触れた時、魂がそっちに移ってしまったんですよ」

 三淵くんは顔をしかめ、下を向いた。

「僕たちがそれに気づかず画集を封印したものだから、魂と分断されて肉体と不完全な記憶だけを持った結澄さんが残ってしまった」

「わかった!」

 私は叫んでいた。

「嘆きの川で三淵くんが結澄さんに『あなたが待ってるのは結澄北斗』って言ったのはそういう意味か」

「うん。結澄さんは自分の魂を迎えに嘆きの川に行ったんだよ」

「三淵くんから『結澄北斗』っていう名前を聞いたのは思い出せる。でもそのせいで、かえってなんか意地になっちゃって、待ってる子が来ないならもうずっとここにいようと思った。だけど……」

 そこで声が途切れ、結澄さんは隣の伊福くんを見つめる。見られた伊福くんの方は赤くなって下を向き、けれどテーブルの上の結澄さんの手に自分の手のひらを重ねて握りしめる。

「ありがとう」

 結澄さんが言って伊福くんは小さくうなずいた。

「伊福くんに諭されて、結澄さんの身体はプノイマに還って魂のところに戻ってきたんだ」

 三淵くんはゆっくりそう言って目を閉じた。

「これで無事事件は解決ってわけね。だけど一つわからないな。結澄光子って人は何者?」

 それまで黙っていた松永が、私のグラスにビールをどぼどぼ注ぎながら聞いた。

「え? 結澄光子は私の母親だけど、何で知ってるの?」

 結澄さんがきょとんとして答えた。私は松永と呆然と顔を見合わせる。その後ではっと気がついた。

「結澄さん、ご両親にうとまれてたって言ってたけど、そんなことないよ。同じ画集があったの。お母さんが持ってた画集だよ」

 結澄さんは飲みこめていないようだったが、私は一人で嬉しくなって、グラスのビールを飲み干した。

「俺の店に、結澄光子さんという人から買い取ったレヴィタンの画集があったんだ。きっと娘さんのことを思って、陰府に行くまでずっと持ってたんだろうな」

 松永は柄にもなくしんみりと告げ、空いた私のグラスにビールを注いだ。

 突然の話に結澄さんは面食らったようだが、やがてああ、と小さな声で言った。

「思い出したよ。あの画集、母さんに買ってもらったんだった」

 結澄さんの目が潤んでいる。

「ここで私のこと待っててくれたのかな。――ごめんね、会えなくて」

「会えなくて良かったんだよ。それだけ結澄さんが長生きしたってことだもん。お母さん、きっと喜んでたよ」

 私はビールをぐっとあおった。結澄さんは目頭を押さえて小さくうなずく。その背中に伊福くんの手がかかり、ゆっくりとさすった。

「ははは、なんだか妬けるねえ」

 松永が私のグラスにビールを注ぎながら言う。

「私はふられてしまった」

 津村さんが突然おいおい泣き始めた。この人は酔うと泣きが入るらしい。

「ふった覚えはないけど、告られたらふるな」

 目元をこすりながら結澄さんが答える。津村さんはわっと突っ伏した。

「この人も意外と面倒くさいね」

 私は目の前のグラスを空け、ビールの瓶を手に取った。

「結澄さん、いろいろあったけどこれからもよろしくね」

 にこっと笑って結澄さんのグラスにビールを注ぐ。

「ありがとう。あっ、仕事を思い出すからロゴはこっち向けないで」

 ビールは国産だった。

 結澄さんは笑い返し、グラスの中身を一口飲んでから瓶をこっちに向ける。

「じゃあご返杯」

「うん……ってあれ、私のまだ入ってるな」

 いつの間にか満たされていたグラスを再度空にして結澄さんのお酌を受け、ついでだからそれも全部干した。

「一乗さん、けっこう強いね」

「え? そんな飲んでないよ」

 松永が私のグラスにビールを注ぐのを受けながら答えたら、急にあたりがぐるぐる回り出した。

「んんー? おっかしいなあ」

 ふらふらしたついでに三淵くんの胸に飛びこんでやろうかと思ったら、何故か松永が私を抱きかかえた。

「ほらアキちゃん大丈夫? そうそう結澄さん、この子注がれたら注がれただけ飲むから面白いよ」

「テメー離せ! 酒くさいし」

「酒くさいのはアキちゃんだよ」

「そういえば初めて会った時も一乗さんお酒の匂いしたよね、伊福くん」

「そうですね。大方ビールでも飲んで寝ていたんでしょう」

 うわやっぱり結澄さんにも気づかれてたかと恥入りながら、松永から逃れようと腕を振り回す。

「ちょっと松永さん、悪ふざけはそれくらいにぐわっ」

 松永の逆側から体を引っ張った三淵くんの顔面に、私の肘が綺麗に入った。三淵くんは椅子ごと転がり、松永が手を離すもんだから私も一緒にひっくり返った。

 その後ははっきりした記憶がない。ただ伊福くんの隣で結澄さんが大笑いしていたのは覚えている。その笑顔は朗らかで、前に見たのよりもっと綺麗だった。

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黄泉比良坂の貸本屋一乗さんの異常な日常 小此木センウ @KP20k

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