魂のものは魂の元に

 三淵くん、伊福くんに津村さんも加えた三人と街に戻るころにはすっかり夜も更けていた。

「なんか変だ」

 店の前に自転車を止めて私はつぶやいた。

「そうですね。人の気配がある」

 津村さんがうなずく。

「アキちゃん、鍵を開けて」

 三淵くんに促されて表のガラス戸を開けると、緩やかな風が店内に吹きこんでいく。ますます強く、人の気配を感じた。すぐにでも奥から結澄さんが出てきそうだ。

「向こうの部屋です。下の方にいるみたいだ」

 伊福くんが書庫の方を指差した。私は三淵くんを振り返り、無言でうなずき合う。先に立って歩き出し、書庫に皆を招き入れた。

「開けるわよ」

 他の人に聞こえないようごく小さな声で解呪の言葉を唱える。地下室への扉が持ち上がると、店の戸を開けた時と同じように風が内部へ吹いていった。

 ついさっきまで感じていた結澄さんの気配が急に弱まった。

「おかしい。結澄が遠ざかったようですが」

 周囲を見回した津村さんに、三淵くんが声をかける。

「大丈夫です。封印が解けたせいで、この辺にあった結澄さんのプノイマが魂に集まっていったんです」

「魂? 結澄は外にいたのに、何故この中に魂があるんですか」

「その説明は後にして、今は結澄さんのところに」

「ついてきて」

 ゆっくり階段を下り始めた私に、伊福くん、津村さん、最後に三淵くんが続く。

 ぼうっと書庫に明かりが灯り、最初に見えたのは床に落ちた画集だった。拾い上げようとかがんだ私の目に、床へ延びた影が映る。目で追うと影は逃げるように床を進み、その先に、こっちに背中を見せ、壁に向かって立つ結澄さんの姿があった。

「結澄さん!」

 呼びかけたが返事がない。また、河畔と同じことの繰り返しなのか。

「大丈夫ですよ」

 伊福くんが私の肩に手を置いて、そのまま前に出た。立ち尽くす結澄さんにゆっくり近づいていく。

「聞こえてるんでしょう?」

 結澄さんの肩がびくっと震えた。

「……合わせる顔がない」

 振り向かないままで結澄さんは言った。

「ようやく一件落着か」

 津村さんが安堵のため息をつく。

「誰も責めたりしませんよ。さあ」

 伊福くんに促されてこっちを見た結澄さんは、真下を向いて頭を下げた。

「みんな、すまなかった。私のために迷惑をかけた」

「いいんですよ、そんなこと。それより教えてもらえませんか? 一体何が起こったのか」

 三淵くんが言う。結澄さんは斜め下を見たままで口を開く。

「ちょっと長い話になるけど」

「先にプノイマを補充した方がいいですよ。一乗さん、悪いけど準備できますか」

「うん、玉龍堂のパンがあるよ」

 私はうなずいた。

「みんなで食べよう。お茶入れるよ」


 私は確かにお茶と言ったはずだが、目の前の汗をかいたグラスの中では、黄金色の液体がきめの細かい泡を浮かべている。

「だって酒の方が滑舌が良くなるからね」

 軽薄に告げたのは、いうまでもなく松永である。

「どうしてあんたがここにいるのよ」

「いいじゃん、お祝いも持ってきたんだし」

 一応世話にはなったから電話で事件の解決を伝えたら、そりゃ良かったと言ってこっちの都合も聞かずに押しかけてきたのだ。しかも呆れたことに、ケースに入った大量のビールを台車に乗せて汗をかきながら運んできた。

 驚くべき食欲を示した結澄さんに甘いパンは食べ尽くされてしまい、残ったバタールだけだとビールのあてには少々心もとないので、仕方なく供出したビーフジャーキーやら缶詰やらがテーブルに並んでいる。

 ビールは津村さんがプノイマを使って一瞬で冷やしてくれた。いつも井戸水で冷やしてたけどこんな手もあるのか。

「乾杯というのも変ですから適当にいきましょう」

 津村さんは言うなり一息でグラスを空ける。結澄さんと伊福くんもそれにならった。教導部は体育会系のノリでもあるのだろうか。

「結澄さん、そろそろいいですか」

 グラスを置いた三淵くんが言う。

「そうね」

 結澄さんは目線を手元に落とした。

「あの本は、私がここに来たばかりのころ自分で作ったんだ。だけど売ってしまった」

「結澄さんが画集を売ったのは、松永の店で調べて知ってたわ。でも、どうして手放したの?」

 私は聞いた。プノイマで本を作るコストは高いから、普通は簡単に売ったりしないはずだ。

「なんていうか、昔の自分を忘れたかったんだ」

 結澄さんは遠い目になった。

「あっちにいた時の私は、体が弱くて入退院を繰り返してた。ずっと誰かの世話になり続けで、多分両親からもうとまれてたと思う。母親は結局私のことで疲れて長く生きられなかったし。旅行とかもほとんどできなかったよ。だから、いつも本とか画集から知らない世界のことを想像して憧れてた」

「この画集も昔読んでたんですか」

 伊福くんの問いかけに、結澄さんはこくりと首を振る。

「ロシアの風景画家で、レヴィタンって言うんだ。すごく静かで透明で光が差してて大好きだった。この景色の場所に行ってみたいと思ってた。結局行けなかったけど」

 少ししんみりとして、結澄さんは間を置いた。

「だからこっちに来てすぐにこの画集を作った。しばらくは毎日眺めてたんだけど、でもこっちでの毎日がだんだん楽しくなってきた。何故ならここでの私は健康だったから」

 そう言うと結澄さんはグラスを取って、ゆっくりと飲んだ。

「――おいしい。向こうではお酒も禁止だったんだ」

 手の甲を頬に当てる仕草が女の子らしい。

「剣術とか弓道とかも小説とか漫画で知るだけ知って、すごくやりたかったけど無理だって思ってた。でもこっちに来たらそれができた。そうして、向こうでは人に迷惑しかかけてこなかった私が、ここでは誰かを助けることができた。嬉しかったんだ、すごく」

 いつの間にか皆グラスを置いて、結澄さんの話に聞き入っている。

「ここに来て半年くらい経った時、久しぶりに画集を開いた。驚いたよ。絵は美しいままだったけど、向こうの辛かった思い出がどんどんよみがえってきたから。あの画集には私の過去が染みこみすぎていたんだ。それでもう売ってしまおうと思った。今の私は昔の私じゃないんだと思いたかった」

 うつむいて聞いていた三淵くんが顔を上げた。

「それが五年前ですね。ところが、今になってこの店で手放した画集を見つけてしまった。その時何が起きたんですか」

「画集を渡された時は本当にびっくりしたよ。胸が詰まって、無意識に開いてしまった。そしたらおかしな気分になった」

「おかしなとは、具体的にどのような?」

 三淵くんが促す。

「最初、私自身が過去の自分をそこに閉じこめていたような気がして、罪悪感が湧いてきた。でも何故かすぐに消えて、そもそも私はどうしてこの画集を開いているのかわからなくなった」

「精神の一部が分離したんですね、その時」

「えっ⁉︎」

 全員の目が三淵くんを向いた。

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