睡蓮の花開く

 松永の貸してくれた自転車はオフロードだった。砂利道でもグリップが良く、運動音痴の私でもどんどん進む。ムカつくが助かった。

 伊福くんも速い。街の外を走るのは慣れっこのようだ。

「最寄りの防災拠点を過ぎました」

 荒地の中に建ったコンクリートの塊みたいな建物を指差して伊福くんが言う。防災拠点には電話が設置されている。結澄さんのことを伝えてきたのも多分ここからだ。

「嘆きの川までもう少しです。がんばってください」

 伊福くんは後ろを向いて声をかけた。

「わかってるよ」

 と答えてハンドルをがたがた揺らしているのは三淵くんだ。役所のママチャリでは河原の砂利道は辛そうだ。

「さっきの話、結澄さんの家族のことは、僕は知らないです」

 伊福くんが切り出した。九十九書店でのことを話したのは街を出てすぐ。ずっと考えていたのだろう。

「結澄さん、あっちの話はほとんどしなかった。僕たちみんなそうですけど、結澄さんは特に」

「そうなんだ」

 比良坂市の住民は、かつての家族、特に夫や妻と離ればなれになっていることが多い。血縁関係がある者同士ならここで再会するケースもわりとあるのだが、そうでない場合は、いくら仲が良かったとしても会えることは少ないらしい。だから昔のことを話す人は少ない。新しい仲間、新しいパートナーとそんな話をしてもお互い気まずくなるだけだから。

「僕は結澄さんの一番近くにいたのに、彼女について何も知らなかったんでしょうか」

 にわかに伊福くんの表情が歪んだ。

「結局何の助けにもなれなかった」

 声が震え出す。

「馬鹿っ。これから助けるのよ」

 自転車をぎりぎりまで寄せて、私は伊福くんの肩をぱんと叩いた。

「はい」

 伊福くんは顔をぬぐう。

「あっ、あそこ見て」

 三淵くんが前方を指差す。ちょっとした丘の向こうに、数人の人影が見えた。

「教導部の人たちだ」

 伊福くんが答え、スピードを上げた。


 「私たちはここに既死者を迎えに来ていました。その時偶然結澄を見つけたので、他の職員を先に行かせて、特殊課のメンバーで連れ戻そうとしたんです」

 そう説明し、銀縁の眼鏡をかけ直した男性は、教導特殊課の津村さんである。眼鏡といい堂々とした態度といいまっすぐ伸びた背筋といい、典型的な秀才タイプだ。

「しかし、結澄はこっちの呼びかけに全然答えません。かといって近づくのは危険だ」

「そうですね」

 三淵くんがうなずいた。

「あそこだけプノイマが不安定になっています。下手に助けに行けば同じことになるかも」

 三淵くんの視線の向こう、嘆きの川の河畔に結澄さんがいる。腰まで川の水に浸り、両手で自身を抱くようにしてうつむいている。

 どうしてか川の流れは結澄さんの周りだけ停滞している。鏡のように滑らかな水面には、あの絵で見たのと同じ睡蓮の丸い葉が浮かんでいた。球状の白いつぼみもいくつか、水の上に転がっている。

「三淵くん、あの植物はどうして結澄の周りにしかいないのかわかりますか? ひょっとして怪異の一種でしょうか」

 津村さんが聞く。私は一歩前に出た。

「多分違います。あれは怪異とかの雰囲気じゃないわ」

 三淵くんは背負っていたリュックからいつもの単眼鏡を取り出して、長いアタッチメントを取りつけた。万華鏡くらいの大きさになったのをかざして結澄さんに向ける。

「アキちゃんが言ってることは多分正しいですよ。あそこにあるのは怪異じゃない」

 レンズを見つめたまま、低い声で三淵くんは言った。津村さんはそうですか、と答えて額の汗をぬぐう。

「怪異でなかったのは良かった、というべきですが、では一体何ですか、あれは。どうやって結澄を助ければいいのか」

「それは……問題です」

「問題って何ですか⁉︎」

 落ち着かない様子の伊福くんが割りこんできた。三淵くんは視線を落とす。

「結澄さんの周りにある睡蓮のつぼみ、どんどん数が増えてます。明らかに結澄さんのプノイマを消費している」

 津村さんがぎりっと奥歯を噛む。

「放っておいたら結澄のプノイマが食い尽くされてしまうということか」

「結澄さん!」

 私は叫んだ。

「戻ってきてよ! 本に操られないで!」

 その時、結澄さんが顔を上げた。

「本」

「口を聞いた」

 津村さんの表情に喜色が浮かんだ。

「おい結澄、戻れ! こっちに来い」

「結澄さん、戻ってください!」

 津村さんと伊福くんが同時に叫ぶ。だが、結澄さんは首を左右に振った。

「できない。私はここであの子を待ってるから」

「あの子?」

 私は津村さんと伊福くんを順番に見たが、二人ともきょとんとしている。三淵くんだけがまっすぐ結澄さんを見つめていた。

「私があの子を捨てたんだ。だから帰ってくるのを待たないと」

「ねえ、あの子って誰なの? もしかして光子さん?」

 当てずっぽうで聞いたが結澄さんは答えず、その視線は再び川面を向いた。

「どうしよう。せっかく話せたのに」

 唇を噛んだ私の肩に、三淵くんが手を置く。

「アキちゃん、そこにいて。僕が話す」

 言うなり三淵くんは川に入った。

「危ないよ。それ以上進んだら」

「ぎりぎりまで近づいてみる」

 三淵くんは足首あたりまで水に浸かり、そこで立ち止まった。

「結澄さん、聞こえますね。あなたが待っている子の名前、僕は知っています」

 反応はなかったが三淵くんは続ける。

「その子は、結澄北斗ですね」

「え?」

 一瞬、三淵くんが何を言っているのかわからなかった。津村さんと伊福くんも呆然としている。

 しかし、結澄さんは目を見開いた。

「結澄北斗はここには来ません」

 三淵くんは結澄さんを見つめながら続ける。

「さあ、僕たちと帰りましょう」

 三淵くんの腕が結澄さんに向かって伸びた、その刹那。

「来ないで!」

 結澄さんが鋭く叫んだ。同時に、睡蓮のつぼみが一斉に花開いた。結澄さんの体の周りにうっすらと白い霧が立ちのぼる。

「まずい」

 三淵くんが慌てて後ずさった。私は走り寄って、後ろ向きに転びそうになった三淵くんを抱き止めた。

「しまった……逆効果だったか」

 私に背中を預けたまま、三淵くんは表情を歪ませた。

「これからどうなるの。私たちはどうしたら?」

「今考えてる。だけど、もし打つ手がなければ」

 三淵くんは首を振る。

「怪異と同化してしまうだろう。黒田谷堂のように」

「そんな……」

「そんなのはダメですよ」

 背中から声がした。伊福くんだ。三淵くんの横を通り過ぎ、結澄さんに向かっていく。

「伊福くん、何やってるの⁉︎」

「決まってます、助けるんですよ結澄さんを」

「伊福くん戻るんだ。君まで巻きこまれるぞ」

 伊福くんは振り返り、少し笑った。

「助けられないのなら僕も一緒に行きます。結澄さんをひとりぼっちにはしません」

「やめて!」

 私は手を差し伸べたがもちろん届かない。伊福くんはこっちに背中を向け、睡蓮を分けて進んでいく。霧が、その姿を半分隠した。

 伊福くんの立てる水音が、深い淵のように低くなった。結澄さんが顔を上げ、ますます濃い霧の中、二人は見つめ合う。

「結澄さん、戻りたくないならここにいていいです」

 伊福くんの影が結澄さんのそれと重なった。

「伊福くん、帰って」

 結澄さんの声が聞こえる。

「これは私の罰だ。あの子を忘れてしまった私の」

「帰りません」

 伊福くんは穏やかに、しかし決然と答える。

「僕はあなたといて幸せでした。たった今も、未来も、それは変わりません」

「君は優しいな。でも、私は君をあの子の代わりにしてただけなのかもしれない」

「誰の代わりでも構いません。僕はいつも一緒にいるから」

 伊福くんの上半身の影が動いて、結澄さんのそれと一つになった。それと合わせるかのように、水面の花がゆっくりと一輪ずつ散っていく。

 誰も何も言わず、ただ時間が過ぎた。

 どのくらい経ったのか、いつの間にか中天にも星がまたたき始めている。

「植物が、消えていく……」

 津村さんの言葉で、私は我に返った。水面を見ると、丸い葉っぱがまるで逆戻しするように内側に向かって巻き、そして水の中に消えていく。花も、もう一輪もなかった。

「アキちゃん、霧が晴れる」

 三淵くんが私をつついた。結澄さんと伊福くんを包んでいた白いもやが風に流され散りぢりになる。

 そこに残っていたのは伊福くんだけだった。

「結澄さんがいない⁉︎」

 私は叫んだ。

「どこに行ったの」

「大丈夫です」

 落ち着いた声で、伊福くんは答えた。

「戻りましょう。彼女はあなたのところにいますよ、一乗さん」

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