画集の二人の所有者
九十九書店は住宅街の中にある。民家を改造したような見た目の建物で、一見すると小さな店だが、奥行きはかなりある。定休日で表はシャッターが閉まっているので、店のわきを抜けて裏口の扉を叩いた。
「はーい」
中から電話と同じく軽い返事が聞こえ、戸が開く。
「……ごめん、休みの日に」
顔を直視できずに下を向き、七分丈のカーゴパンツからのぞく素足を見ながら私は謝った。
「いいっていいって。上がりなよ」
「じゃ、遠慮なく」
屈託のない態度に少し気持ちが緩む。しかし、顔を上げた私は硬直した。
「あれ、どうかした」
「どうかしたのはそっちよ。何それ」
「それ?」
「その頭」
昔の松永はきれいな黒髪をオールバックにしていた。ところが目の前の相手はツイストがかかった金髪だ。
「ああ髪型ね。ちょっと気分変えたくてさ。似合ってる?」
「太陽かと思った」
髪を染めたりパーマをかけたりは趣味とみなされるのか、かなりのコストがかかる。よくここまでやったものだと、私は半分呆れ、半分は感心した。
「あはは、それ褒め言葉ね」
松永は軽く流して背中を向ける。
「とりあえずこっち来てもらえる?」
私は松永について店に上がる。店舗と書庫の間にある小さなスペースに私たちは入った。机と椅子が一揃い、電話もそこに置いてある。そして、私の視線はその机の上に吸いつけられた。
「それ⁉︎ どうしてここに」
他でもない、封印したはずのあの画集がそこにあった。
「おっとそう慌てない」
駆け寄ろうとして松永に押さえられた。
「あの本は確かに同じ画集だけど、アキちゃんのとこにあったのとは別のだよ」
「ええっ⁉︎」
私はますます混乱する。松永は手を離して言った。
「アキちゃんに頼まれて調べてるうちに思い出したんだけど、元々九十九書店にはレヴィタンの画集があったんだ。そこに同じものを売りに来たお客さんがいて、一冊を槙島さんに回したんだよ」
「そうなの?」
机に近づき、本を手に取った。記憶にあるのと表紙はまったく同じ、ページをめくると例の睡蓮の絵も載っている。
「珍しいね」
本の作成コストは高いから、流通量も少ない。日本の有名作家の作品なら同じ品がかぶる場合もあるが、それほど知られていない画家の、しかもキリル文字の洋書でそんなことが起きる確率はかなり低いはずだ。
「そう、俺もそう思ってさ。アキちゃんの依頼もあったから仕入れの記録を調べたわけ」
「それよそれ。誰から買ったかわかった?」
「ああ」
うなずいて松永は机のわきの引出しを開け、ルーズリーフが収まったバインダーを取り出した。九十九書店の仕入れ帳のようだ。
「こっちは、えーと、新しい方だな。今から五年前ね」
五年前というのは私の店の仕入れ帳とも合致する。九十九書店が購入した後、すぐに槙島書店に回したのだろう。
「俺がここで働き始めたのがちょうどその頃なのよね。だから思い出したよ、これ見てたら。売りに来たのは市役所で働いてる人でさ……」
松永は説明を続けたが、私は途中から聞いていなかった。
仕入れ帳の売主の欄には「結澄北斗」と記されていた。
「ちょっと電話貸して!」
叫ぶなり私は相手の返事も聞かないまま受話器を取り上げた。
「いいけど、どこへ」
「市役所!」
ダイヤルを回しながら返す。総務の番号は覚えている。
「はい、えーと比良坂市役所総務です」
三淵くんの声だ。
「もしもし三淵くん? 私。一乗」
三淵くんは一瞬息を飲んで、それから堰を切ったように喋り出した。
「アキちゃん! 今までどこ行ってたの? 困ってたんだ。さっきから電話してるのに繋がらないから」
「画集の仕入れ先がわかって出かけてたの。今九十九書店」
「九十九さん? 松永さんのところ?」
三淵くんの声がくぐもったように変わった。私は気にせず聞く。
「そんなことより、結澄さんの下の名前、何ていうか知ってる?」
「知ってるけどそれが何か……」
「いいから教えて」
「ほくと。北斗星の」
「やっぱり!」
結澄さんが読んでいた画集は、結澄さん自身が手放したものだったのだ。そのことを伝えると、三淵くんは長く息をついた。
「そういうわけか。繋がってきたぞ」
「何かわかったの?」
その時、電話口が騒がしくなった。
「三淵くん? 三淵くん、どうしたの」
「もしもし一乗さんですか」
受話器から聞こえてきたのは伊福くんの声だ。
「な、何で伊福くんが。結澄さんと帰ったんじゃなかったの」
「その結澄さんが大変なんです! とにかくすぐ嘆きの川へ。三淵さんが一乗さんも連れていくって言うから」
話が要領を得ない。答えられずにいるうち、ああもう落ち着いて、電話変わって、とまた三淵くんの声が聞こえてきた。
「アキちゃん、そっちの発見について考えるのは後にしよう。緊急事態なんだ」
伊福くんが後ろで何か言っているのが切れぎれに聞こえる。よほど急いでいるのだろう。三淵くんはそれをなだめながら話を続ける。
「結澄さんが家からいなくなった。その後、ついさっきなんだけど、嘆きの川にいるのが見つかったって」
「嘆きの川⁉︎ どうしてそんなところに」
「わからない。でも考えるのは後だ。今は現場に行かないと」
「えっ? 結澄さん、戻ってこないの」
切迫した、悪い予感が心を包んだ。
「それもよくわからないんだけど、動かせない状態らしいんだよ」
動かせない? 負傷の程度がひどいのか。それとも怪異に取りこまれかけて……
私はぶんぶんと首を振った。
「すぐ行く」
「じゃあ市役所前で待ってる。アキちゃん、自転車持ってないよね。貸出し用のを準備しとく」
「わかった」
電話を切ると私は松永に向き直った。
「急いで行かなくちゃ。悪いけど鰹は今度にして」
「ラジャー。そうだ、これ貸すよ」
松永は私の手を取って何か小さいものを握らせた。自転車のキーのようだ。
「裏庭に置いてあるから使って。市役所のより乗りやすいはず。アキちゃん女の子にしては背が高いから、ちょっとサドル調整するだけでいいと思うよ」
「ありがとう」
素直に頭を下げると松永はにやりと笑った。
「チャリを借りたら返しに来なくちゃいけなくなるからね。食べ物で釣っとけば大丈夫とは思うけど、念のため保険」
「……このやろ」
一言多いヤツだ。ムカつくのでさっさと部屋を出ようとすると、
「待った、もう一つ情報がある。時間は取らせないから、これ見てみなよ」
松永は仕入れ帳のさっきと別のページを開いた。見ると、日付は六年前だが書名は同じ、レヴィタンの画集だ。九十九書店に先にあった方の購入履歴か。
「問題はここ」
松永の指差したのは売主の欄だった。
「結澄光子」とそこには書かれていた。
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