調子の良い本屋
三淵くんの後ろ姿を道まで出て見送った後、私は一人で店に戻った。新しいガラス戸はさして力を入れなくてもからから軽快に閉まる。
奥の間に戻り、仕入れ帳と貸出帳を取り出す。画集の出所が気になったから、先に仕入れ帳から当たることにした。
調べるにあたって問題が二つある。まず最初に、キリル文字で書かれた画家の名前がいまだにわからないこと。そして次に、この画集がいつから店にあるのか不明だということ。
一つ目の問題は厄介に思えるが、消去法で解決できる。店にキリル文字の画集はその一冊しかないから、仕入れ帳でキリル文字の書名を探して、分類が画集ならそれが目的のものということになる。前代の店主は、洋書を仕入れた時はオリジナルの書名と日本語訳を両方書いていたから、それで画家の名もわかるはずだ。そういう几帳面さがどれほど役に立つのか疑問に思った時もあるけれど、今となっては本当に頭が下がる。
もう一つの時期が定まらない方も、面倒だが解決できなくはない。私がこの店を引き継いでから一年。画集はそれ以前から店にあるのだけは確かだ。それが二年前なのか二十年前なのかはさっぱりだけど、しらみ潰しに記録を当たっていけばいい。なるべく最近の仕入れであってくれるよう祈りながら、私は仕入れ帳をめくり始めた。
しばらくの後、私は仕入れ帳を前に煩悶していた。
五年前の帳簿にそれらしき書名を発見したのまでは良い。仕入れ帳には、キリル文字の後に「イサーク・レヴィタン作品集」と書かれている。レヴィタンというのが画家の名前らしい。
しかし私がその発見を全然喜べなかったのは、その後に記載された仕入れ先である。
「
九十九書店は、私の店のような貸本業ではなく、古書の買取と販売をやっている店だ。扱っている品物が同じだから在庫のやり取りなどをすることもあり、本来なら仲良くすべき同業者なのだ。が、しかし。
かなり迷った後で、私は電話を引っ張り出した。電話の使用は緊急時に限られており、今回がそうかといえば微妙だが、いきなり店に行くのはどうしても嫌だった。
のろのろダイヤルを回すと、向こうも定休日だからいないかもしれないという密かな願望を打ち砕いて、呼び出し音が一回鳴るか鳴らないかで相手が出た。
「はいっ、九十九書店です」
営業の鑑のような溌剌とした声だ。
「……相変わらずの空元気ね」
「あっアキちゃん久しぶり!」
そういえばこいつも私をアキちゃんと呼ぶんだった。
「アキちゃんじゃありません。槙島書店です、ご同業の」
「それがアキちゃんだってば。最近連絡ないから廃業したかと思ったよ。そういえばお店がペンギンに襲われたんだってね。大丈夫だった?」
「アキちゃんって呼ぶのやめてよ。廃業してたら襲われないわよ。何でペンギンなのよ。大丈夫じゃなかったら電話してないわよ」
「そう? おかしいな、ペンギンだと思ったんだけどな。違う鳥か、ミコアイサだっけ」
「そんな珍鳥むしろ来てほしいわよ……じゃない、こっちが用あってかけたんだからちょっと黙って聞いて」
電話の向こうの男、九十九書店の
「はいはい聞きますよ、何でしょう。電話してくるくらいだからきっとまた変な問題を抱えこんでるんだろうけど。同業の先輩としてなんでも助けになるよ。でも勘違いしてほしくないのはさ、俺って優しいけどみんなに優しいんだよね。アキちゃんだけに優しいわけじゃ……」
「黙れっ!」
そんなことは三年前からわかっている。何を血迷ったのか三年前のあの時、私は松永に告白してその場であっさりふられたのだ。
「いつまでも昔の話を蒸し返すんじゃないわよ。あの頃はここに来たばっかりで正常な判断ができなかったから……」
「ま、それは置いといて、今日のご用件は何かな」
「それを言いたかったのにあんたが邪魔したんでしょ」
「いいからいいから」
こいつと話すといつもこうだ。鼻息が荒くなるのを抑えながら私は言った。
「あんたのところから先代が買った本、調べてほしいの」
「ああそんなこと。お安いご用で」
あっさりと軽い返事が戻ってくる。
「やってくれる? じゃあ書名は……」
「待った。その前に事情を教えてよ」
やっぱりそう来たか。松永は何にでも首を突っこみたがる性分なのだ。だが、結澄さんの名前は出したくない。
「悪いけど、お客さんのプライベートだから」
一応断ってみるが、松永はすかさず答えた。
「それはこっちも同じだよ。アキちゃん、ウチが誰から本を買ったのか知りたいんだろ」
「それはそうなんだけど」
困った私が黙っていると、松永はじゃあさ、と言って続けた。
「個人の名前は言わなくていいから何があったかだけ教えてよ。あとご飯」
「まあ、それなら……ん、ちょっと」
「ようし、決まりだ」
「待って、ご飯って何?」
「ご飯食べに行こうよ、今夜」
「はあ⁉︎」
何が悲しくてふられた相手と食事しなければならないのだ。
「あんた何考えてんの?」
向こうも向こうで何が楽しくてふった相手と食事したいのだ。
「いやあだってさ、アキちゃん俺のこと基本避けてるじゃん。でも同業者としてはもっと情報交換とかした方がいいと思うんだよね。だからこの機会に過去のことは水に流してさ」
「でも。そんなあっさり割り切れないし」
言っていることは確かに正論だが、感情的には、はいそうですね、とは行かない。
「ああ、アキちゃんまだ俺のこと好きなのね」
松永はくっくと笑った。
「違うわナルシスト!」
「じゃあいいじゃん。先代からの馴染みの店があるんだよね。これ役得なんだけど、今なら戻り鰹出してくれんの」
「え、戻り鰹」
鰹は好物だ。大体の食べ物は好物だが。
「そうそれがさ、たたきも刺身もうまいんだけど、何つけると思う?」
「そりゃポン酢でしょ。あっにんにく醤油でもいいな」
「ちっちっ、そんな余計なのいらない。塩と、お好みで切ったにんにく。これだけでいける」
「本当? 鰹でしょ、けっこう匂いキツいよ」
「それが新鮮なのは違うんだな。全然臭みがないのね」
私はごくりと生唾を飲みこんだ。
「どう、行く?」
「……おごりなら」
「そりゃダメだよ、同業の親睦会なんだから」
「じゃあ七三で」
松永は大げさにため息をついた。
「しょうがない、六四でどうよ」
「んん、わかった」
鰹じゃなく自分が一本釣りされたような気がしたが、結澄さんのためでもある。
それから電話でことのあらましを伝え、松永がすぐ仕入れの記録を見てくれるというので、戸締まりをして九十九書店に向かった。
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