本の無限の力

 問題の画集に指を触れた私は、胸がすっと冷たくなるのを感じた。

「普通じゃない」

 辛うじてそれだけ言えた。

「怪異が憑いてるってことですか」

 伊福くんが勢いこんで尋ねる。

「わからない、そこまでは。三淵くん、お願い」

 三淵くんは無言でうなずいて本を受け取ると単眼鏡を取り出す。私は自分自身の死亡宣告を聞くみたいな気持ちで作業を見守った。

 信じられない。この前触った時はこんな感じは受けなかった。それとも、結澄さんが来たことで舞い上がっていて気づかなかったのだろうか。

 かなり長い時間をかけ本を点検した後で三淵くんは単眼鏡を外し、押し黙ったまま眉をひそめた。

「三淵さん、何かわかりましたか」

「うーん」

 伊福くんの問いかけに、三淵くんは首をひねった。

「結論からいうと、僕にもよくわからない」

 意外な答えだった。私は伊福くんと顔を見合わせる。

「わからないってどういうこと?」

 三淵くんはため息をついた。

「アキちゃんの言う通り、この画集には異常な気配がある。具体的にはプノイマが過剰なんだ」

「それが、怪異が憑いているってことじゃないんですか」

 納得できない表情で伊福くんが聞く。

「違うんだ。もし怪異だったら、必ず大元に魂か、それが変質した霊みたいなものがあるはずなんだよ。でもこの本に魂は憑いてない。だから怪異ではない。だけど、単なる本に過剰なプノイマが貯まることもないはずだ。それは、容量一リットルのボトルに二リットルの水が入っているようなものだから」

 その時、今まで私の後ろでじっと立っていた結澄さんがすっと手を伸ばし、三淵くんから画集を奪った。

「もういいだろ、怪異じゃないってわかったなら」

 抑揚のない声でそう言うと素早くページを繰る。

「結澄さん、開かないで! 何が起きるかわからない」

 慌てて三淵くんが言うが、結澄さんは首を振る。

「何も起きたりしないさ、何も……」

 瞬間、ページが膨れ上がって結澄さんの上半身を飲みこんだ。

「結澄さん!」

 叫んだ私は結澄さんの手から画集を払い落とす。幻だった。

「これ以上読んじゃダメです」

 床に落ちた本を素早く拾って抱えこむ。生命を持った何かを抱いているような、異様な感覚があった。

「返してよ!」

 結澄さんが鋭く叫び、乱暴に私の肩をつかんだ。

「痛たっ!」

「やめてください。結澄さんちょっとおかしいですよ」

 伊福くんが結澄さんと私の間に割りこむように入る。

「おかしくなんかない。何で邪魔するんだよ」

 結澄さんは伊福くんを押しのけようとする。揉み合いになって、手が私から離れた。

「アキちゃん、画集を地下へ! 封印するんだ」

 三淵くんが結澄さんの肩を押さえながら言った。

「わかった」

 揉み合う三人を背後に残して私は書庫に入る。素早く解呪の言葉を唱えて、地下への扉を開けた。

「返して、返して!」

 結澄さんが子供のような声で叫んだ。返して。地下からのささやきが結澄さんに呼応する。返して、本を返して。私を返して。

 私は聞こえないふりをして地階に降り、本棚に画集を置いた。ごめんなさい、と小声で言って階段を駆け上がる。

 地下への入り口に封印をかけ直して戻ると、結澄さんは脱力したように床に座りこんでいた。私はその目の前にかがんだ。

「結澄さん、あの本はもう読まない方がいい」

「本? ……え、うん」

 結澄さんは操り人形のように立ち上がった。

「なんか、いろいろ迷惑かけた」

「今日は帰りましょう」

 ふらつく上半身を伊福くんが支える。店を出ようとする後ろ姿に三淵くんが声をかけた。

「あの本の影響を受けてるかもしれない。後で専門の医者に診てもらった方がいいです。手配しておきますよ」

「日時がわかったら教えてください」

 伊福くんが結澄さんの代わりに答え、二人は出ていった。

 店は急に静かになった。私は奥の間に戻って畳の上に寝転がり、三淵くんもその辺に腰かけた。

 しばらくは二人とも何も喋らなかった。ねじ巻きの柱時計がかちこちいう音だけが店の中に響いている。

「あのさ」

 先に口を開いたのは私だった。

「結澄さん、大丈夫かな」

 三淵くんはこっちをちらりと見た。

「アキちゃんに嘘はつきたくないから言うけど、良くないかもしれない。本に怪異はなかった。でも僕らの知らない呪がかかっていた可能性はある。精神を侵食されているかも」

「私のせいだ」

 私は平手で畳をばんと叩いた。

「私が気をつけていればこんなことにならなかった」

「自分を責めても仕方ないよ。でも、もしこの件に何らかの形で怪異が関係しているとわかったら、アキちゃん」

 向き直った三淵くんの視線が怖かった。

「この店は営業停止になる」

 私は唇を噛んだ。

「それは覚悟してる」

 営業停止ですめばまだマシかもしれない。下手をすれば閉店だってあり得る。

「でも今はお店がどうこうよりも結澄さんだわ。私にできることはない?」

「うん」

 三淵くんはうなずいた。

「さっき言った通り、結澄さん自身の治療は僕が医者を頼むよ。アキちゃんは本の出元を洗ってもらえる?」

「地下から本を出してもいいの?」

「いや、本に何が起きてるのかわからないから、なるべくそれは避けたい。仕入れや貸出しの実績から手がかりが見つからないか、調べてほしいんだ」

「わかった。誰から買って誰に貸したか帳簿で確認する」

 私は畳からがばっと跳ね起きる。目の前にやるべきことができると、不安が少し遠のいた。

 三淵くんはそんな私の様子を見てから立ち上がった。

「じゃあ僕は戻るよ。医者の手配と、それに今日のことをちょっと一人で考えたいんだ」

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