結澄さんの異変

 何日か経った水曜日の昼過ぎ、お店の定休日に私は市役所へ向かった。住民票を取った後で総務課を訪れると、三淵くんは準備を整えて待ってくれていた。

「お疲れ様。じゃあこの書類、経理に持っていこうか。伊福くんと話はしておいたよ」

「助かるわ」

 伊福くんと会うのはこの前の夜以来だ。自分がいじったのが悪いのだが、根にもたれていたら嫌だなと少し気まずかった。

 だが私の予想は外れた。伊福くんは私を見ても好意も敵意も示さず、書類もああそうですか、と受け取っただけでほとんど中身も見ていない。ただ枚数だけ数えて、その後で小さなため息をついた。

「伊福くん、どうかした? 元気ないね」

 三淵くんが話しかけた。伊福くんは三淵くんの顔をじっと見て、その後で視線だけちらりと私によこし、もう一度ため息をついた。

「実は、ここ数日結澄さんの様子がおかしいんです」

「おかしい?」

 私は三淵くんと顔を見合わせた。

「はい。なんだか無気力で、心ここに在らずって感じで。そのくせ既死者の迎えには絶対に行くと言い張るんです。昨日もそんな状態で嘆きの川に行ったんですが、結澄さんそこで怪異と戦って怪我を」

「えっ、怪我⁉︎ 大丈夫なの」

 思わず私は伊福くんの肩に手をかけた。だがその手を退けて伊福くんは答える。

「僕がその場で治療したから問題ありません」

「教導部で負傷者が出たって噂は聞いたけど、結澄さんだったのか。今日は休んでるの?」

 行き場を失った私の手を取ってゆっくり下ろしながら三淵くんが聞いた。伊福くんはうなずく。

「はい、外傷は治ってますが元々非番の日だったので。僕も結澄さんとシフトを合わせてるんですけど、昨日の報告書だけ作っておこうと思って来たんです」

 市役所は土日が休みだが、曜日に関係なく仕事のある教導部や警備部などは必ず誰かが勤務しているようシフトを組んでいるので、他の職員とは休みが違う。

 三淵くんは腕を組む。

「心配だな。伊福くん、結澄さんが不調になった原因の心当たりはないの」

「いえ、僕は何も」

 その時私の心の中に、先日の結澄さんとのやり取りが浮かんだ。キリル文字の画集を手にした彼女のおかしな態度。

「あの」

 私は小さく手を上げた。

「もしかすると私、知ってるかも」

「え?」

 二人に注目されてわけもなく焦りながら、私はその時の結澄さんとのやり取りを説明した。


 しばらくの後、私たち三人は槙島書店に向かっていた。話を聞いた三淵くんが問題の画集をすぐにでも確かめたいと言ってきたのだ。伊福くんもついてくることになった。

「一乗さんの話から判断すると、画集になんらかの呪が込められていたということでしょうか」

 伊福くんが横目で私を見ながら言った。視線に冷たいものを感じて私は小さくなる。

「まあまあ、まだそう決まったわけじゃないし」

 三淵くんが取りなしてくれた。

「それに、アキちゃんはこんなのほほんとしてる割に呪とか怪異には鋭いんだ。怪異つきの本を店頭に出して気がつかないほど間が抜けてはいないよ」

 褒められているのかけなされているのかよくわからない。私は視線を遠くにやった。そこに映った人影がある。

「あれ? ねえ、あそこにいる人」

「結澄さん!」

 叫ぶなり伊福くんが走り出し、三淵くんと私がそれに続いた。

 人影は私たちに気づいて振り返る。紛れもない、結澄さんだ。

「やあ」

 結澄さんは手を上げた。

「どうしたんだ、お揃いで。でもちょうど良かった。一乗さんの店に行こうとしてたんだ」

 私は三淵くんを見た。その顔がうなずいたので、

「わかった。本当は定休日なんだけど」

 と答えた。

「あ、休みだったの。ごめんね」

「ううん、いいの。それでご用件は?」

「うん……」

 結澄さんは肩に掛けたシンプルなカンバス地のバッグを探って、中から本を取り出した。この前貸した中編だ。

「これ、もう読んじゃったから返そうと思って。面白かったよ。特にキス……」

「キス?」

 伊福くんが目を光らせる。

「気に入ったなら良かったわ」

 これ以上話をややこしくしたくなかったので私は伊福くんをさえぎり、結澄さんから本を受け取った。本に触れる時密かに注意していたが、特に怪異の気配はなかった。

「同じ作者の本、他にも読んでみる?」

「そうね。でも今日は他に気になるのがあってさ。この前の画集、もう一度見せてもらえない?」

 私たちの間に、さっと緊張が走った。

 伊福くんが一歩前に出て言った。

「その本、怪異が憑いてる可能性があります。僕たちはそれを調べに来たんです」

「怪異?」

 結澄さんの表情が険しくなる。

「馬鹿な。この前読んだ時はそんなもの感じなかった」

「見てみなければわかりません」

「伊福くん、私を信用してないのか」

「ちょい待った。どっちも落ち着いて」

 私は二人の間に割って入った。

「私だって怪異憑きの本が店頭に並んでたなんて思いたくない。でも、とにかく現物を見てみようよ」

 しばらくの沈黙の後、結澄さんは頭をこくりと動かした。

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