思いがけない再会
三淵くんは書類を持って市役所に戻っていった。私もようやく頭痛が治まり、お昼に何を食べるか考える余裕も出てきた。二日酔いと寝不足で今朝はお弁当を作れなかったのだけれど、昨日ビールにプノイマを使ってしまったので節約しないといけない。玉龍堂でラスクとパンの耳の揚げたのでも買ってくるか。
パンの耳は砂糖がまぶしてあって甘いから、ラスクはガーリックとか塩味のが残ってるといいな、などと半分よだれを垂らしながら店を出ようとすると、入り口で向こうから来た人とぶつかりそうになった。
「おっと」
「あ、ごめんなさい」
謝った私はあれ、と首をひねった。どこかで見たことがある女性だ。
「昨日は大変だったね」
「あっ、結澄さん⁉︎」
声で初めて気がついたほど、昨夜とは見た目の印象が違った。今日の結澄さんはゆったりしたスウェットに黒のスキニーパンツ、足元はスニーカーを履いている。
私があまりじろじろ見るので結澄さんは照れたように顔をうつむけた。
「今日は非番だから私服なんだ。このくらいなら何かあった時でも走り回れるしね」
昨日の和装も制服ではないはずだが、本人としてはそのつもりなのだろう。それにしてもきちんとコーディネーションが考えられている。いつも似たようなシャツにジーンズの私は、違うちがう自分は好きでこうしてるんだと内心で言い訳しつつも恥ずかしくなった。
「やっぱりこう見ると痛々しいな。もう少し早く助けに来られれば良かったんだけど、ごめん」
結澄さんは店の端に積まれた扉や本棚の残骸を見てつぶやいた。
「いいえ、そんなこと。結澄さんのおかげで本は全部無事でした。ありがとうございます!」
私は九十度頭を下げた。
「いいんだ、それが仕事なんだから」
結澄さんは私の肩に両手をかけて体を起こさせた。上げた目線に、はにかんだ微笑みが映った。誇らしさと含羞と、それに何かしら感傷のようなものを感じさせる、女の私でもどきっとしてしまうような表情だ。
「あの、ええと、わざわざ様子を見に来てくれたんですか」
何故か慌てて私は聞いた。結澄さんは首を振る。
「それもないわけじゃないけど、どっちかといえばお客さん。本、見せてもらっていいかな」
「もちろんどうぞ!」
「うん」
敷居をまたごうとして結澄さんは立ち止まる。
「そうだ、敬語じゃなくていいよ、タメ口で。あっちの人生も足せば、多分私の方が年下だろうから」
そう言うと答えを聞かずに店に入っていく。意外と小さな背中だと思った。
「あ、懐かしいな」
店に入ってすぐ、棚にあった古いハードカバーを結澄さんは手に取った。その丁寧な手つきから結澄さんが書物に愛着を持っていることがわかる。ところが、
「この人の本、昔読んだよ」
と言ってこっちに向けた表紙を見て驚いた。抑圧された情念と退廃的な古典を融合させた純文学作家の怪奇な作品だ。
「このミイラの話、元ネタは上田秋成なんだけど、秋成も学校で教えていいのかみたいなの多いよね。『菊花の約』とかタイトルがずばり隠語というか」
「まあまあ」
放っておくともっと生々しい話を始めそうなので私は止めた。結澄さんはなんだか活きいきしていて、口調も昨日より柔らかい。
「昭和の女流が好きなんですか……じゃなかった好きなの? もっと出してこようか」
思い切って友達みたいに話しかけると結澄さんもにこっと笑った。じんわりと嬉しくなる。
けれど結澄さんは私の提案には軽く首を振り、出した時と同じように丁寧に本を戻した。
「今日は小説よりも絵なんかが見たくて。風景画の画集とかない?」
「あるある。こっち」
店の奥の方には大判の本を集めた一角がある。
私たちの世界で決してできないことが一つある。それは旅行だ。嘆きの川と忘却の川を渡ることはもちろんできないし、その上流、下流方向にも一定以上は進めない。他の場所について一切知らないまま、私たちは比良坂市で暮らすしかないのだ。
だから、ここではない風景を見ることのできる絵画は人気が高い。店には画集もけっこう揃っている。
といっても、実は私は絵にあまり詳しくない。物語が好きで、それで見ることや旅することを代替してきたからかもしれない。
が、とにかく画集の棚に行って二、三冊それらしいのを取り出した。一冊を開き、ルドンとかいう人のだが、ぱらぱらめくって風景画を探す。
「これとかどうかな? きれいな山」
草花に彩られた、険しいが優しい山並みと、西洋画らしいもやもや薄青い空。
「……山はともかく後ろに妖怪がいるんだけど」
「大丈夫だよ、優しそうだし」
絵には「キュクロープス」と題がつけられている。
「仕事を思い出すから妖怪系はパス」
すげなく断られ、私は画集を閉じた。結澄さんはううむとうなって腕を組む。
「妖怪を除けば確かにいい景色だったけど、ちょい湿度高めだな。もっとカラッとしたやつない?」
「カラッといったら――」
私は別の画集を開いた。数少ない私が名を知っている画家だ。
「ダリね。『内乱の予感』」
南欧らしい濃い青の空と湧き立つ雲、強い太陽光線が作るコントラスト。
「いやこれ風景画じゃないでしょ」
結澄さんがすかさず突っこみを入れた。確かに、南欧の景色の手前で四角い枠に人間のパーツをくっつけた妙な怪物が激しく自己主張している。
「でも、ちゃんと風景もあるし、カラッとしてるよ」
「カラッというかギラッとしてるよ」
ダリもお気に召さないらしい。まあさすがにこれを風景画と言い張るのは無理があるか。
「じゃあ、ええと」
私は再び本棚を探す。画集は洋書も多いしそもそも画家の名前を知らないから、表紙で選ぶしかない。
何冊か見ていくと、透明感のある岸辺の風景が描かれた表紙に目が止まった。書名はロシアや東欧で使われるキリル文字というやつで書かれていてまったく読めないが、雰囲気は良い感じだ。
「ご希望に合ってそうなのがあったよ」
本棚から出した画集の表紙を結澄さんに見せる。
「へえ、どんな……」
返事は途中で止まった。結澄さんの顔から表情が失われて、本をじっと見つめている。
「どうかした?」
結澄さんは答えず、それでも丁寧に私の手から本を取った。ゆっくりとページをめくり、その手があるところで止まる。
睡蓮の絵だ。
写真にでも撮ったようなくっきりした輪郭の絵だ。日差しが当たる睡蓮の丸い葉が暗い水底を切り取って独特の浮遊感がある。水はどこまでも透明で、見続けていると絵の中に沈みこんでいきそうだ。
「いい絵だね、これ」
もう一度声をかけると結澄さんは私を見た。だが私を見ながらその瞳に私は映っていないみたいだった。
「結澄さん?」
「……あ、ごめん」
結澄さんの両目に、ようやく私が帰ってきた。
「ちょっとぼやっとしちゃって。だってこの絵って、……あれ、何だったかな? 忘れちゃった」
結澄さんはぽんと音を立てて本を閉じ、本棚に戻した。
「それ、借りないの?」
「いいんだ。今日は別のにするよ」
結局その日結澄さんが借りていったのは、少年の生首を育てる女性を描いた中編だった。そのチョイスもなかなかのインパクトだったので私はつい、画集を見た時の結澄さんの態度を忘れてしまったのだ。
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