秋芳洞崩壊の危機
翌日は二日酔いでがんがんする頭を持て余しながらとにかく開けるだけ店を開け、他には何もしないで座り慣れた座布団の上に乗っかっている。
心を無にすれば次第に自分が信楽焼の狸か何かに思えてきて、ならば頭痛を感じるのも狸でしかもその狸は焼き物だから中は空洞だ。空洞の痛みというのは鍾乳洞の中で一定の間隔を置いて水が滴るのと変わらず、そういう自然現象なのだから痛いのは私じゃなく自然の方で、雄大な自然ならこれしきの痛み気にもかけないだろう。鍾乳洞はどこかとなればやはり有名なのは秋芳洞で、複雑に分岐した洞窟内を透明な地下水が流れるのが清洌だ。だけど有名だから観光客が来る。中には騒々しいのもいて、おーいおーいとうるさいことこの上ない。あまりうるさいから身をよじったらそれが地震になって鍾乳洞は崩落してしまい、私は私に戻って三淵くんに揺すられていた。
「おーいアキちゃん、しっかりしなよ」
「やめて、揺らさないで。地下水が」
「地下水?」
「そう、逆流する、リバース。気持ち悪い」
わっと叫んで三淵くんは手を離す。
「早くトイレ行って!」
「うう、いや、大丈夫。余計な刺激を与えなければ」
三淵くんは呆れ顔で肩をすくめた。
「それでよくお店開けたね」
「だってお客さん来るかもしれないし」
本当をいえばお客が来ようと来なかろうと、私の勝手な都合で店を休みにしたくない。
比良坂市の住民登録があれば、陰府から生活に困らない程度のプノイマは支給してもらえる。だから、あえて働いている人はそれが趣味だとか、暇を持て余しているとかだろうと思いがちだが、実際には義務感や利他的な精神で働く人がかなりいる。市役所などはほぼ全員がそうだ。利益ということを離れると人間こんなにも他者に優しくなれるのかと、ここに来てすぐのころ驚いたものだ。でも、考えてみると自分もそんな、他者に対する義務感が心の中にある。
「アキちゃん、聞いてる?」
三淵くんの声で我に返った。
「あ、ごめん」
「謝るのは僕だよ。昨日は来られなくてごめん。街に侵入されるとは思わなくて、防災拠点の応援に行ってたんだ」
三淵くんは頭を下げた。
地震とか台風とかの天災は、ここでは起こらない。だから「防災」と名がつくものには、怪異からの防衛という意味が込められている。防災拠点とは街外れにいくつか建てられた砦で、怪異の襲撃の際の前線基地になる。三淵くんは総務課だから義務はないけど、街を守るために戦っていたのだ。
自然と頭が下がり、私はううん、と首を振った。
「いいの」
「とにかくアキちゃんが無事でなにより」
三淵くんは大きく息を吐いてから店内を見回した。
「お店はちょっとやられたね」
「うん、変なのが来て」
「聞いたよ。麒麟が出たって」
三淵くんの顔がぐっと近づいた。目が輝いている。
「麒麟、どんなだった? 詳しく教えて」
「どんなって……普通に麒麟よ」
「いやいろいろ普通じゃないでしょ。翼を動かさずに飛んだとか目から怪光線を放つとか鳴き声が意外とかわいいとか」
「もう私より知ってるじゃない。それ、誰から聞いたの」
「経理の伊福くんってわかる? 彼、わりと仲良くてね。昨日ここに来たって言うから何があったかちょっと教えてもらったんだ」
この様子だとちょっとどころじゃなく尋問されたのだろう。私は伊福くんに同情した。
「ああ、僕も麒麟見たかったなあ。そうとわかってれば防災拠点になんか行かなかったのに」
「でも、三淵くんが来ても麒麟はやっつけられなかったと思うよ」
三淵くんはう、と言って詰まった。
「結澄さんって人が来てくれなかったらヤバかった」
「その点は彼女に感謝だ。本当に」
「三淵くん、結澄さんのことも知ってるの」
「もちろん。彼女強かったでしょ。ちょっと変わってるけど」
「そうね」
私たちは顔を見合わせてくすくす笑った。しばらくそうしてから三淵くんは笑顔を引っこめた。
「雑談はこれくらいにして、僕にできること、何かある? 午前中の外出許可もらったから、何でも手伝うよ」
「そう、じゃあ遠慮なく」
と言って引っ張り出したのは言うまでもなく昨日の書類である。
「ええっ、何この量?」
いつも温和な三淵くんが珍しく嫌そうな声を出した。
「伊福くんが書いてくれって」
「こんなに? ……まあいいや、とりあえず見せて」
不承ぶしょうという感じで三淵くんは書類を手に取る。その顔にだんだん苦笑が浮かんできた。
「どう、本当に全部書かなきゃいけなさそう?」
「いや、多分半分以下になるよ」
半分としてもそこそこの量ではあるが、私は少し安心した。
「まずガラス戸の分類が建屋になってる。建屋だと部長決裁になるから手間なんだよ。什器扱いにすれば課長決裁だし回議もいらないしね。ついでに本棚と申請をまとめて、二つ合わせても運用課長権限内だな――」
三淵くんは役所的テクニックを使って書類をどんどん選別していく。よくわからないが頼もしい。
最終的に必要書類は三割程度まで減り、その三割もだいたいやってもらって私は住所氏名だけ書きまくった。
一時間弱で書類書きの仕事は終わった。
「ありがとう、三淵くんのおかげで助かったわ」
「どういたしまして。伊福くんはいい子なんだけどちょっと真面目すぎるんだよね。それに申請書用紙一つ作るのにもけっこうプノイマが必要なんだから、こういうのは少ない方がいいんだよ」
三淵くんは書類をまとめながら言う。
「後は住民票だね。これはアキちゃんが直接市役所に行かないとだけど、どうしよう。午後申請に行く?」
「今日はいいや。お店が定休日の水曜に行くね」
今思えばこの時が運命の分岐点だった。ここで店をお休みにしていれば、良かれ悪しかれあの事件は起こらなかったし、槙島書店営業停止の危機なんて事態にも至らなかったはずなのだ。
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