しき

此糸桜樺

夢見草

 萌黄色もえぎいろの春。力強くそびえ立つ幹に、空へ張り巡らすような枝が伸びる。薄紅色うすべにいろの花弁はチラチラと舞い、 地面に薄紅梅うすこうばいの湖をつくる。

 山梨県山高神代桜やまたかじんだいさくら。それは、永和元年に創建された實相寺じっそうじの境内にある。

 みなみが、前々から「見に行きたい」と言っていた場所だ。


「わあ、きれい! 大きいね!」

「おーすごいなー。樹齢2000年だってさ」


 さすがに幹が太い。ゴツゴツとしたこぶは、桜の歴史の壮大さを物語っているようだった。


「ねえ、写真撮ろうよ!」

「そうだな。撮ろうか」


 僕はカメラを取り出す。すると、南は意外そうに首を傾げた。


「スマホじゃないのね」

「うん。せっかくなら綺麗に撮りたいだろ?」

「写真家にでもなるの? そんな本気にならなくても」

「いいんだよ。ほら、撮ってやるからそこ立って」

「はーい」


 そのとき、花びらが、ひらり、と彼女の肩に落ちた。南はゆっくりとそれを手に取る。そして僕に差し出して、にっと笑った。


「小さくて可愛いね!」


 萌黄色のワンピースが風にそよぐ。


「なあ、みなみ


 僕は少し声を張り上げた。南は「うん?」と首を傾げる。


「ずっと、一緒にいような!」

「ふふふ、もっちろん! 死ぬまで一緒だよ!!」


 南は満面の笑みでピースサインをした。


 カシャリ。僕はカメラのシャッターを切った。



 燃える夏。暗闇に咲く大輪の華。マツバギクが咲き、牡丹が散る。ハゼランが咲き、イワハナビが散る。パーンという音とともに次々と華が打ち上がり、最後は音もなく消えてゆく。

 秋田県全国競技花火大会。通称、「大曲の花火」。日本三大花火としても名高い権威ある大会だ。

 やはり夏の風物詩といったら特大サイズの花火に限る。


「迫力すごい」


 感嘆したような、感服したような、気持ちのこもった声だった。鮮やかな光の色彩が、南の顔を染めていく。


「今のうちに目に焼き付けておかなきゃね!」

「別に、また来ればいいだろ」


 僕は少し苦笑した。


「だってこんなにすごい花火初めてなんだもの」

「今度は、もっとすごいところへ連れて行ってやるからさ。だから、大丈夫だよ」


 南は、ふふ、と微笑むと、黙って夜空に目を戻した。


「行けたら、ね!」


 僕は、光の色彩に染まった南の横顔を、パシャリとカメラに写す。


「何撮ってるのよー? 撮るのは花火でしょ!」

「ああ、そうだったな」


 南には分かるのかもしれない。

 これで夏の旅行は最後になるだろう、と。



 橙、紅、黄。小さな窓から見える黄金の山々は、太陽に照らされてキラキラと輝いている。油絵のようにくっきりとした色彩は、金箔の錦をまとったように、ひどく美しかった。

 名所でもなんでもない、ただの近所の山だが、こうしてじっくり見ると風情があるものだ。


「素敵な景色! に〜しき〜おりぃな〜す〜」

「本当だな」


 南は何度も、うんうん、と相槌を打つ。白い毛布をかぶりながら、機嫌良さげに鼻歌を歌った。


「あーあ、紅葉狩り行きたかったなあ。私の生きがいは旅行だけなのにショック!」

「来年行こうよ。紅葉の綺麗な所にさ」

「えー、紅葉の名所? どこだろう?」


 南は、うーん、と考え込んだ。「吉野とか?」と呟く。


「それは桜だろ。吉野の桜」

「あ、そうか!」


 南は、ポンと手を打ち、恥ずかしそうに笑った。


「京都の嵐山とかどうだ? 嵐山の天龍寺とか、よく綺麗って言われるよなあ」

「天龍寺、いいわねえ! えーとね……ここでしょ?」


 南はベッドの裏から旅行雑誌を取り出すと、『天龍寺』と書かれたページを指さした。僕は、ゆっくりとうなづく。


「ねえねえ、写真撮ってよ」

「え、何を?」

「私と紅葉に決まってるじゃん!」

「あ、ああ」


 南はベッドからおりると窓際に立ち、にこりと笑った。

 僕はパシャリとシャッターを切った。


「ここの紅葉と天龍寺の紅葉。どっちが綺麗かな。もし行ったら比べてみてね!」


 南は満足そうに笑った。

 違う。違うんだ。僕は、君と一緒に見たいんだ。



 静かな冬。柔らかな綿あめがしんしんと降り積もる。素手で触ると、すぐにしゅっと消えてしまう。南に見せるために、僕は手袋をして、小さな宝石の結晶をたくさん捕まえた。

 細かな白粉が降りかかった山は、洋菓子に使われる粉砂糖のようだった。しかし、死化粧のように白くて怖い。


「ほら、ちゃんと結晶だよ」


 南は、コクコクと小さくうなづいた。目がキラキラと輝いている。言葉を発していないのに、「うわあ! 結晶だ!」という声が聞こえてくるようだった。


「……南はさ、何の季節が好き?」


 僕がボソリと呟くと、南は「春」と小さな声で言った。


「どうして?」


 南は穏やかに笑う。


「あなたと、ずっと、一緒にいたい、から」

「春じゃなくても一緒にいようよ。ずっとずっと一緒にいよう……!!」


 僕は南の手を取る。

 南の手は温かかった。それなのに、弱々しかった。


「冬の名所はどこかな。やっぱり北海道? 函館とかいいよね。雪まつりとかグルメとかさ。それとも暖かい地域にでも行って……」

「ええ」


 僕の声を遮るかのように、南は静かに目を閉じた。


「南……」

「山高神代桜、もう一度、行きたかった……な」


◆◆◆◆


 春は桜。夏は花火。秋は紅葉。冬は雪。

 南の笑顔は、いつもここにあった。


 あの頃に、戻りたいと思うときもある。

 南ともっと話がしたかった。もっともっと遠くへ行きたかった。たくさん旅行して、喋って、笑って……。でも、時間は、いくら願っても戻らない。


 花が咲く。一面見渡す限り、真っ白な桃色。純白に満ちた薄紅うすくれない

 ぶわりと風がたつ。ざああっと絢爛に散る。――薄桜の友禅着物が、風に煽られ飛び立つように。袖をいっぱいに広げ、褄下つましたをたなびかせるように。何十着、何百着、何千着と青空の下で舞い躍るように――

 薄い鴇色ときいろ、濃い鴇色……同じ鴇色でも微妙に違う。一つ一つの花弁に、水彩絵の具のようにムラがあるのだ。

 日に照らされて白くなっては、影に入って暗くなる。濃い紅梅こうばいの塊となっては、バラバラバラと四方八方へ散っていく。灰桜はいざくらの美しい陰影をつくっては、どこともなしに消えていく。


 来年も色んな所へ行こうねって。いつまでも一緒にいようねって。辛い治療を終えて病気が治ったら、二人でたくさん旅行しようねって。……そう約束したのに。

 それなのに。酷いよ、南。あまりにも早すぎるよ……。


 南が好きだと言った春は、今では僕の一番好きな季節になっている。この桜の木の下で、「ずっと一緒にいよう」って言ったっけ。


──僕は、南を幸せにできたのだろうか?


 今年の僕の目標は、南との約束を守ること。

 嵐山の紅葉を見に行くのだ。病院の窓から見えた紅葉と、嵐山にある天龍寺の紅葉と――どちらが美しいのか確かめに行く。そして、遺影の南に報告する。

 あれはおそらく、僕が南の後追いをしないための予防線だったのでは、と思う。南がああ言えば、僕は少なくとも秋までは生きることができるだろう、と。

 僕の考えすぎかもしれない。でも南はいつもそういう所があった。……温かくて、優しくて。


「僕は大丈夫だよ。心配しないで」


 僕の手向花たむけばなが、ポツリと地面にこぼれ落ちた。それは、優しい桜色の雫だった。

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しき 此糸桜樺 @Kabazakura

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