第64話

 それでもロウの流す涙は、美しかった。

 太陽の光を受けた青い海のように煌めいていて、きらきらとしていた。

 リチラトゥーラはふとその涙に触れたいと思った。静かに彼の目尻へと親指の腹を触れてその涙を拭う。

 ゆっくりとロウの視線が、リチラトゥーラに向いた。


「リチ……?」

「ばかなひと。お前はわたくしを知らないの? わたくしは、これからの未来を守るために生きているの。そこにわたくしがいなければ意味ないでしょう?」

「けどあんたは海に」

「あれは不可抗力だったわ。もう二度としない」


 約束する。そう言ってリチラトゥーラはロウの口許に自身の唇をそっと重ねた。

 ふにゅ、っと柔らかい音が二人の鼓膜に触れる。

 ロウは一瞬、何をされたのか理解できておらず、その紅い双眸をぱちくりと子供のように瞬かせた。


「……な、」

「八年前のお返しよ」

「……このマセガキめ」


 ロウは張っていた気を緩め、生きた心地がしなかった、とリチラトゥーラの雪のように白い首筋にそっと顔をうずめた。長く吐かれた溜め息が、温かくてこそばゆい。

 先ほどまで彼からの拒絶を怖れていたのが嘘のように、リチラトゥーラは彼のことを愛おしいと感じてその首に手を伸ばし優しく抱き締めた。


 ❅ ❅ ❅


 ふと視線に、伸ばした腕によってズレた裾の隙間から採取痕が映えた。


「……お前は、わたくしを国を犠牲にするために『花鱗』を与えたわけではないと言ったわね」

「ん? ……ああ」

「わたくしだって国の犠牲になろうと思って研究を続けているわけじゃないわ。お前の代わりではなく、わたくし自身がそうありたいと決めたのよ。クルドゥ病を晴らす薬になることが、今のわたくしの夢なの。誰にもこの想いは譲るつもりはないわ」


 幼き頃より雪夜の国で春を想わせる姫だと謳われ続けていたリチラトゥーラは、次第に国に温かさを取り戻すにはどうしたらいいのかを考えるようになる。

 時は過ぎ、大人になり、できることも増えた。クルドゥ病の研究はその第一歩であり、同時に国に希望の光が一筋射した瞬間でもあったのだ。


 強い眼差しを持ってロウと対峙する。

 ロウはもう何も言うまいと肩をすくめ苦笑した。


「……分かったよ。おれはもう、あんたに何も言わない。……おれの負けだよ、リチ」

「ふふ。あら、いつからお前はわたくしに勝てると思っていたの?」

「……! はあぁ……完敗だ!」


 ロウはそのまま全身の力を抜き、リチラトゥーラの隣に倒れ込む。ロウの表情は、水平線に続くあの海の青のように清々しかった。


「……帰ろう。あんたの家族が待ってる」

「拉致したのはお前よ。責任をもって、お父さまにしっかりと叱られなさい」

「うっ、それを言うのは反則だろ……」

「でもまあいいわ。……帰りましょう。お前の家族も待っている」


 愛おしい者が傍にいる。

 触れることができ、笑い合える。


 八年間、リチラトゥーラはぽっかりと空いてしまった心の穴を研究に没頭することで埋めてきた。それでも穴は完全に塞がることは無かった。


 束の間の再会でもいい。多くは望まない。

 おまえが欲しいだなんて、言わない。



(……ありがとう、ロウ。もう一度、わたくしと出会ってくれて)



 叶わぬ恋でもいい。ただ傍にいてくれるだけで幸せなのだと、リチラトゥーラは彼の手を触れた。

 ロウも彼女の心を察したのか、静かに彼女の額と合わせて「……待たせて悪かった」と笑った。



 星屑のように煌めいた砂が風に煽られ宙を舞う。まるで歴代の春竜を悼むようにして、砂は海へと流れていく。

 それは海に骨を埋葬する散骨のようで、リチラトゥーラは静かに目を伏せ、海へと祈りを捧げた。

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春を告げる竜と雪夜の国 KaoLi @t58vxwqk

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