第63話

 海のさざ波が荒れた心を落ち着かせてくれると信じていた。実際にはそんなことはなくて、リチラトゥーラは溢れる罪悪感に苛まれていた。


 自業自得であるものの、リチラトゥーラは本気で彼を助けたいと思っていた。本気だったからこそ、心から気持ちをぶつけてしまったのだ。謝りたくとも、もう彼からの信頼は失せてしまったことだろう。

 この信頼は、容易には取り戻せない。


「……わたくし……ロウになんてこと……」


 独りごちた声は波に掻き消されていく。

 このまま攫ってほしい。

 醜く育ってしまったこの心ごと全て。

 そう思ったら早かった。リチラトゥーラはゆっくりと立ち上がり、そのまま海に向かって砂浜を歩いていく。


 一歩、海水が足に触れる。


 二歩、くるぶしまで浸かる。


 ……五歩、膝上まで海水に浸かると、目の前に見えてくるのは蜃気楼。


 イザベラーニャの幻影が、水平線の先でリチラトゥーラを手招いていた。

 少し大きな波がリチラトゥーラを襲い、彼女の顔に勢いよくかかる。べたべたとした海水が気持ち悪い。目の前のイザベラーニャは微笑みながら彼女を待っている。


「……ここはプランタン島。死と生との、境界にある島……」


 リチラトゥーラは小さく呟くとその場に立ち止まった。


 彼女は別に死にたいわけではなかった。むしろ生き続けて、国に貢献したいと思うような人物だった。

 だから、これ以上先へと進めば、死に体を絡め捕られて二度と地上へと戻ることは叶わないだろうことは、聡明な彼女なら、少し考えれば分かることだった。


「……ごめんなさい、お母さま。わたくしまだ、そちらには参ることができません」


 イザベラーニャは微笑み手招きしている。


「本当は、お傍にいたいのだけれど、行ってしまえばお父さまと……ロウが悲しむから」


 イザベラーニャは微笑み——。


「だから……またあなたを一目でも見ることができて、嬉しかった」


 そして泡沫となり、彼方へと溶けて消えた。


 ❅ ❅ ❅


「……戻らなきゃ」


 イザベラーニャとの別れを惜しみながら、リチラトゥーラはプランタン島の浜辺を目指すため振り返ろうとした。

 その瞬間、彼女の体は強い力によって上空へと一気に引き上げられた。


「えっ、ロウ……⁉」


 見上げた先にいたのは、春竜の姿をしたロウだった。



 あっという間に浜辺に着き、ロウは再び見慣れた人型の姿に戻る。リチラトゥーラは急に気恥ずかしくなり、「ロ、ロウ……?」とためらいがちに彼に話しかけた。しかし彼は先のこともあるからか沈黙を貫いている。

 当たり前だ。それほどのことをしてしまったのだと、リチラトゥーラがそう思ったその時、彼女の体は勢いよく浜辺に押し倒された。砂が緩衝材となり痛みはなかったが、その衝撃はリチラトゥーラを驚かすには十分だった。


「きゃっ」

「——なんで海に入った‼」


 不可抗力だった、と言えば済む話だった。けれどリチラトゥーラは口を動かすことができずにいた。それはきっと彼に対する罪悪感によるものだ。

 何も答えない彼女に、ロウは舌を打った。紅色に染まった双眸がリチラトゥーラの全てを捕らえている。もうどこにも、逃げられない。


「……何か言え」

「……わ、わたくしは……」

「“わたくしは”、なんだ? また沖の方にイザベラーニャの幻影でも見たか? イザベラーニャの傍に行きたいと思ったから海に入ったのか?」

「それ、は……」


 否定できない。

 最初はそうだったかもしれない。自分に嫌気が差して、自暴自棄になって海に入った。

 けれど彼女は母との想い出を切り、『今』に思いとどまったのだ。言葉に詰まるのは、ロウに対しての後ろめたさがあるから。リチラトゥーラはやはり彼に何も言い返せずにいた。


 ぼたり、と重たい水の落ちる音がリチラトゥーラの耳朶を触れた。ロウの前髪や頬から海水が雫となって落ちてきているのだと思ったリチラトゥーラは、ゆっくりと彼を見上げた。見上げた先にあった光景に、思わず息を飲む。


 ロウが……涙を流していたのだ。


「っ、大嫌いでもなんでもいいから! 頼むからっ! ……もう二度と、おれの前からいなくならないでくれっ……‼」


 悲痛な叫びは、彼の過去を物語る。

 永き時を生きる春竜にだって、大切なものとの別れはある。

 人間よりもずっと、多く。

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