第62話

“サアァ……”と仄かに香る潮風が、二人の前を柔らかく吹き抜けた。


 リチラトゥーラの淡い花の髪がふんわりと揺れる。

 ロウは過去を話し終わると、伏せていた瞼をゆっくりと開いて彼女を見た。リチラトゥーラは、泣きたい衝動を必死に堪えながらその場に立ち尽くしていた。



「……八年前、ジュードは言っていたな。何故春を届けなかったのかと。届けていれば、イザベラーニャの死が少しは遠のくはずだったと。……でもおれは届けなかった。おれの意志もあるが、クルドゥ病の真実を知る者として、国に混乱を招かないようにイザベラーニャ自身が『春』を拒んだからだ」

「お母さまが……。……お父さまは? ジュードは、お父さまもお前のことを知っていると、知っていて黙っていたのだと言っていたわ」


 王という地位にあり、ロウを春竜と認識していたであろう国王が、春竜に『春』を届けさせなかったのは国罪であると、あの日ジュードは叫んだ。イザベラーニャを崇拝していた彼にとっては、国王が彼女を見殺しにしたように映っていたのだろう。


「国王は、半信半疑だったんだろうな。おれはあのひとの前で一度も、春竜の話題を出さなかったから。ただイザベラーニャとおれが時折、クルドゥ病について会話していたのを見られていたなら、気づいていても可笑しくはないな」


 イザベラーニャのルーツについても、彼は何も自分から聞こうとはしなかったと彼女は語っていた。彼女が春竜の血筋であることも気づいてはいそうだったが、結局国王はイザベラーニャに問う機会を逃し続け、そのうちに娘のリチラトゥーラが生まれた。守るべきものができて、さらに訊く機会を逃したのだ。

 いや、もしかすると彼は、ずっと家族を守るためにあえて『春』に関する沈黙を守り続けてきたのかもしれない。


「あの時のジュードの言葉に答えるなら、あの時裁かれるべきはおれだった」

「そんなこと……」


 悲哀の色を帯びた彼の微笑みは、リチラトゥーラの心を無意識に締めつけた。


「この世界に現存する春竜はもうおれだけだ。もしかしたら、各国に春を告げに出た者たちが生きている可能性はあるが、イザベラーニャのようなケースもあれば、国に囚われていたり、事情があってこの島に戻れなかったり、最悪死んでこの慰霊碑に戻っている可能性もある。だが記憶している限り、おれの他にはいない。この島は

「この、島?」


 ロウの言葉の端に僅かな含みを感じたリチラトゥーラは、待って、と彼の手を引いた。彼女が今から何を言うのか察しがついているのだろう。ロウは諦めた表情で彼女を見つめ返した。


「どういうこと? スニェークノーチ国が滅びるというのなら分かるわ。でもこの島がというのは、」

「おれの命が尽きれば、この島も、海に沈んで消える」


 そういう仕組みなんだ、そうロウは笑っていた。


「……」

「だから死ぬ前に、この島と、あんたに会っておきたかった。あんたに伝えたかった。あんたの母親のこと、それと『プランタン』のこと、春竜のこと。……春竜だって、不死身じゃない。歳を取りにくいだけであって、けっして不死じゃないんだ」

「でもっ……!」

「……リチ、頼みたいことがあるんだ。明日、あんたをスニェークノーチ国に帰す。そうしたら何も訊かず、そのままおれを、『祈りの廟』に匿ってほしい」



 ——『う』



 その言葉は、リチラトゥーラには意味をなさない、ただの音にしか聞こえていない。


「おれは決めていたんだ。最期は『祈りの廟』で眠りたい。あそこには妹の遺骸が、入っているから」



 ——『



 ロウの言葉を、頭の中で繰り返してみる。やはり言葉の音階は音でしかなかった。


「なあ、頼むよリチ。……リチラトゥーラ」


 名を呼ばれた瞬間、リチラトゥーラの中で何かが弾けた。

 リチラトゥーラは勢いよくロウの胸倉を掴んだ。争いごととは無縁の人生を送ってきた彼女の手は、案の定震えていたが、そこから垣間見える覚悟の表れにロウは口を利けずにいた。


「——ッじゃあ最期は人として生きなさい! わたくしが死なせない! お前は生きるの‼」


 やっと再会できたというのに、現実は非情で満ちている。


 彼が掬い上げてくれたこの命を、愛する民のために捧げようと決めたリチラトゥーラは、たった数年共に過ごした彼のことも例外ではないと考えていた。もっともロウの場合はクルドゥ病が原因というわけではないのだが、それでも医療を志す者としてリチラトゥーラに彼の命を諦めるという選択肢は無かった。


 他事を考えていたその一瞬の隙を突かれ、ロウがリチラトゥーラの胸倉を掴み返した。突然の反抗に、ロウの行動に、リチラトゥーラは身動きが取れなくなった息苦しさよりも驚きの方が強く、雪の双眸を大きく見開いた。


「おれはお前に! あの国の犠牲にするために『花鱗』を分け与えたんじゃないッ!」


 そう叫び、ロウはリチラトゥーラの右腕を掴み勢いよく世界に晒した。

 そこには数々の採血痕が痛々しく残っている。ハッとして、リチラトゥーラはすぐに右腕を隠すために、ロウの胸倉を掴んでいた手を離した。

 ロウも、ゆっくりと彼女から離れる。彼の表情からは静かな怒りが見えた。リチラトゥーラは今まで頑張ってきたことを、秘めやかに焦がれていた相手に全てを否定された気分になり、今にも泣きそうだった。


 リチラトゥーラは今、彼と別れた八年前あのころにいた。


「……では、では何故あの時、わたくしを『花鱗』で助けたの!」

「それは……」


 溢れてしまったそれを、止める術を彼女は知らない。


「わたくしは、嬉しかった! 国のために、お父さまのために、少しでもお役に立てる日が来たのだと、本気でそう思っていたのに!」

「リチ——」

「もう何も聞きたくない! お前の言う言葉なんて!」


 ああダメよ。これ以上は、彼の存在自体を否定し彼を傷つけてしまうことになる。

 そう頭で理解をしていても、リチラトゥーラの今の動揺した心では感情のコントロールなどできるはずもなかった。



「——春を届けないなんて、大嫌いよ‼」



 一瞬の静寂が痛い時が流れる。

 溢れてしまった言葉を飲み込むことはできない。リチラトゥーラは恐る恐るロウを見上げた。


 彼の顔は悲痛に満ちていた。


 やってしまった。

 今まで抑えていた想いが、覚悟が、揺らいでしまったせいで、リチラトゥーラは最愛のひとの心を自らの言葉の刃で傷つけた。

 自分が最も嫌いだとしてきたで、彼の心を刺したのだ。


「あ……」


 謝ったところで許されるわけがない。リチラトゥーラは自責の念に駆られてロウから離れるようにして海辺に向かって走り出した。


 ロウは彼女を追いかけることはせず、ただ彼女の走り去る姿を呆然と見つめていた。

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