第61話

 彼女の祖父が春竜であったなら、この国に春を届けていないことは春竜の使命放棄とも受け取れる。だが、長きにわたる先人の沈黙は、後世の春竜に使命を忘れさせるには十分な時間だった。


「……」

「そんな顔をなさらないで。春を届けなかった祖父は一族の恥と言われても可笑しくはないのでしょう。ただ、あの方は知らなかったのです。春を切望する民がこの世にいることを。そしてそれを叶えることができる力を持つ者が己であることを」


 しかし事実、プランタンの所為でこの国はゆっくりと滅びに向かい始めている。

 当時代の春竜は、春竜としての使命を放棄したのだ。この国は春が訪れなければ、多くの民がその命を崇拝する者によって失われていく。

 無知な民はその世界の残酷さを知らぬまま、春に焦がれ眠り逝くのだ。


「プランタンのことを、気に病んでおられますの?」

「使命放棄はあってはならないことだ」

「ふふ。けれどあなたが気に病むことでもないのですよ? たとえ、プランタンが原因で民が病にしたとしても、それは仕方のないこと。真実を知る者は少ないのですし、知っていたとしても治療法は……無いのですから」

「……おれはだ」


 そう。当時代の春竜は、彼女の祖父だけではない。


「春を届けることを放棄した春竜おれをこのまま国に監禁し、春を無理矢理訪れさせるか?」



 使命を果たさせるために。雪夜の国の人柱となるために。



 ロウはどこに向けることもできない苛立ちの毒をイザベラーニャに吐く。イザベラーニャは目を見開いて、その美しき双眸をぱちぱちと瞬き、そしてふんわりと彼に微笑んだ。


「……それはそれで仕方のないこと。春竜さまにだって休息は必要ですもの。あなたは、神ではない」


 そして、思ってもみなかった回答に、今度はロウが困惑の表情を見せた。


「いいのよ、ご無理はなさらないで。けれどあなたは優しい方だから……いつかきっと、届けてくださいますわ。この国に、暖かい世界を」


 春を望む民だというのに、イザベラーニャの表情は暗かった。どうしてそんな顔をするのか、ロウには分からない。


 三百年前、二度とこの雪夜の国に来るなと言われたその約束を破ってしまったことは見逃してほしい。

 ただ——。


(——もし、が、許してくれるならおれは……)


 愛した者が繋いだ未来を、守ることを、果たして『彼女』は許してくれるだろうか?



「——おかあさまっ!」



 ロウが言葉を紡ごうとしたその時、医務室の扉が勢いよく開かれた。突然開かれた扉の音に、ロウは振り返る。

 そこにいたのは、春を彷彿とさせる花の香りを微かに纏った小さな少女——のちにスニェークノーチ国に春をもたらした王女である——リチラトゥーラだった。

 ロウは話の腰が折れたことに心のどこかで安堵した。これ以上話を続けていれば、彼の中で覚悟が揺らぐことは明白だった。タッ、タッ、タッ、と小さな子供らしい足音を鳴らしながら、リチラトゥーラはイザベラーニャの許に駆け寄り飛びついた。

 ここからは家族の時間だ。イザベラーニャは自分が長くないことを理解している。ロウは親子水入らずの時間を邪魔することは野暮であると、静かに医務室から立ち去った。



 その二年後、スニェークノーチ国王妃イザベラーニャは、クルドゥ病により死去。


 その日、雪夜の国は酷く寒かった。



 こうしてロウは、またひとつ、罪を重ねたのである。

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