第60話
クルドゥ病——それは、春竜が過去スニェークノーチ国にもたらした春を象徴とする花『プランタン』から発生する花粉が体内に入ると毒素となり発症する病である。
プランタンの花粉は暖かい地域であれば無毒であるが、寒い地域では毒牙を剥く。
そういった意味では、スニェークノーチ国は春に愛された国であり、同時に、見放された国でもあった。
三百年前はここまで酷くなかった。病に侵された民の数も、その症状も、進行は緩やかだったはずだ。
だが現在ではその数も上昇し、いつしか国病として定められていた。春を思わせる花を贈った当時の春竜も、愛した人間にここまで危害が及ぼうとは想像もしなかっただろう。それはロウも同じ想いであった。
言えるはずもない。
これは罪だ。
春を待つ者たちの切望を満たすために施した春竜の。
❅ ❅ ❅
イザベラーニャもクルドゥ病を患った人間のひとりだった。
彼女が発症したのは、ちょうど娘であるリチラトゥーラを出産した後だったという。
「……免疫力が低下していたのだと思います。プランタンの花を花瓶に生けていたのがいけなかったのかしら。婦長が、娘のためにと摘んできてくださったのに」
こればかりは運が悪かったとしか言いようが無い。スニェークノーチ国にいれば誰しもがなりうる可能性があるのだ。イザベラーニャは、運が悪かった。
「……」
クルドゥ病の原因はプランタンの花にある。
毒を以て毒を制す、という意味で花粉から解毒薬を生成することは可能だが、その毒素を生み出しているのもまたプランタンである。この病を根絶したいと望むなら、まずは花を根元から焼き払わなければならない。
しかし、今のロウにその力は無い。不甲斐ない自身に嫌気が差して、ロウはぐっと口の端を噛んだ。
「クルドゥ病のこと、あなたはどこまで知っていますの?」
「……すべて。その元凶が、同胞のもたらした
「ああ……。では私が考えていたことは概ね当たっていたということですね」
イザベラーニャは悟っていたのだ。全ての発端が、民の心の拠り所にあることを。そして自分の死期についても。
「あの娘は知っているのか? あんたの死期が近いこと」
「……さあ……。ですが、あの子は聡い子ですから、ふんわりとは察しているでしょうね。陛下においても同じかしら。でも私、誰かの前で倒れたことなんて一度も無かったんですのよ?」
あなたが初めてだった、と彼女は力なく微笑んだ。その姿があの日の『彼女』に似ていて、ロウの心は静かに軋みを上げる。
ロウは自分が春竜であることを知られた今、自らについて隠す必要がなくなった。
だから、彼はイザベラーニャに『延命』について持ち掛けた。
「……あんたは何を望む? プランタンの毒を、おれの花鱗で消し去ることも可能だろう。生きたいんだろう。リチの未来を見るために」
「ええ。願わくば。けれど、それは自然の摂理に反しますわ。……でもそうね。もし叶うなら、もう一度、故郷の海が見たいわね。大きな、大きな温かい青を」
イザベラーニャの言葉に、ロウが大きく目を見開いた。そして無礼にも彼女の胸倉を掴み、その淡く紅に染まった双眸を向けた。
「あんた、なんで『海』を知っている。なんでこの国の人間にとっては夢物語でしかない海の色を知っている!」
春竜の住まう西国の果ての島は、三百年前からその存在を秘匿としてきた。現代に生きるものたちはどの国も皆、海というものを紙面でしか知らない。スニェークノーチ国の国民も例外ではないはずだった。
「……私は、この国の生まれではありません。春竜の生き残りでも、ありません。ただ……私の祖母が……春竜に見初められ、そして『花鱗』を賜り、延命したという話を聞いたことがあります」
「なん……」
イザベラーニャの話は、あまりにもロウに衝撃を与えた。聞いたことのない話だった。純血であることを何よりも重んじる春竜が人間と交わったなど、前代未聞である。
「私、一度だけ、プランタンにも足を運んだことがありますのよ? 祖父の腕に抱かれて見た彼の故郷、その一面に広がる青が、とても美しかったことを憶えています」
百年前までは、少なくともロウ以外に春竜がひとり、生き残っていた。この事実は彼にとって吉報とも言えた。
「その、春竜は今、」
「祖父は、ある時から突然、私たちの家族の前から姿を消しました。理由は不明です。ただそうね……きっとあの方のことですから、気まぐれに春の巡りに出掛けて、そのまま帰らぬひととなったのでしょう」
だから我が国には三百年以上春が来ていないのですよ。イザベラーニャは静かに目を伏せた。
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