第59話

 その女性は、三百年前、彼が愛した『女王』に似ていた。


 彼の記憶に眠る『女王』は黒く艶やかなくせ毛をしていたが、女性は色素が薄くさらりと真っ直ぐな髪をしていた。

 くせ毛は支度が難しいから嫌いだと苦笑していた『女王』を思い出す。似ているのは雰囲気だけだと悟り、ロウはふっと警戒していた気を緩めた。


「——……あら。ふふ。大怪我をしていたと聞いていたのだけれど……。聞いていたよりも元気そうで安心しましたわ」

「……あんたは……」

わたくしは、スニェークノーチ国、王妃。イザベラーニャと申します」


 それが彼女イザベラーニャとの、リチラトゥーラの母親との邂逅であった。



 イザベラーニャは強かな女性だった。愛娘であるリチラトゥーラにも容赦なくげんこつを食らわすし、夫である国王にも意見のできる稀有な存在であった。

 代々スニェークノーチの王族にしか国の王位を継げないというがなければ、間違いなく今代の王は彼女が継いでいただろう。

 彼女は、誰からも愛され、誰からも信頼の厚い女性だった。


 彼女は国境を越えた西国からやってきた外来人だった。

 どういった経緯で国王と出逢い、結婚に至ったのか。気になって話を聞いてみたが、彼女はとうとう教えてはくれなかった。

 ただひとつ言えることは、イザベラーニャはたくさんのことを知ることが好きだった。

 それが彼女の世界の全てだった。


 そしてさらに月日は経ち、ロウがスニェークノーチ国に滞在するようになってから早一ヶ月が経とうとしていた。


 この国に来てからというもの、本当に白銀世界しか見ない。以前にも滞在していた三百年前からの変わらぬ姿に、ああ帰ってきたのか、と思いふける自分がいた。


 ロウは今まで考えていた。どうしてあの日、自分はこの国に訪れ、怪我をして、庭園に倒れていたのか。ロウはそれまでの記憶が曖昧だった。思い出そうとする度、胸に痛みが走って邪魔だった。考えるなと言われているようで、いつの間にか考えることを放棄した。


 ふとその場に立ち止まる。特に何かを感じたとか、そういうことはない。ただ本当に、なんとなく立ち止まった。

 そこは、三百年前に妹を埋葬した『祈りの廟』の前だった。


「——……」


 息の詰まる感覚がロウの胸を掌握していく。

『どうして』『お前だけがどうして』『どうして生き残っている』と。

 彼を責める声は止まらない。けれどこれはロウが抱いている自責の念から作られた自分の言葉であり、本来は聞こえるはずのないものだった。


「……許してくれとは、言わない。だから……」


 だから、今を生きることは許してくれ。

 不意に彼の瞳から大粒の涙がひとつ零れ落ちた。瞬間、彼に聞こえていた彼を責める声たちは次第に退いていった。


「……そう。あなたにも聞こえているのね。この春竜さまたちの悲しみに色づいた声が……」


 ハッと我に返ったロウは俯けていた顔を勢いよく上げる。彼の目の前に現れたのは、イザベラーニャだった。

 今の言葉を聞かれていたのだろうか。聞かれても問題は無いが、それでもロウの中では隠しておきたいことに違いがなく、まるで秘密のバレた子供のような後ろめたさを抱いた。


「王妃……殿下」

「……けれど不思議です。あなたが何かを呟いた時から、悲しみの声は収まりましたわ。ふふ、思っていた通り——」



 ——あなた、春竜さまなのね。



 ぶわりとロウの中で何かが弾けた。怒りなのか、焦りなのか、感情的になる何かが彼の胸の内で暴れ回る。体の中の血が沸騰するように熱い。ああいけない。これ以上は、自分が『人』でないことが知られてしまう。

 ロウの懸念は意味をなさなかった。目が紅くなっていくのを感じて、咄嗟に下を向いたが遅く、イザベラーニャが静かに近づいて彼の顔に触れた。


「春竜の瞳……。本当に、まだ、生きていらしたなんて……」

「……あんた……何を知ってる」

「何も……。ただ、私はあなたをお待ちしておりましたの。私にはに、春を、届けることが出来ないから……」

「……? ……っあ、おい!」


 イザベラーニャの声が段々と薄れていったかと思えば、不意に彼女の体が傾いた。異変に気づいたロウが咄嗟にイザベラーニャの体を支える。

 力なく彼に重心を預けたイザベラーニャからは——死のにおいが漂っていた。

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