第58話

 その場に立ち上がり、辺りを見渡す。水平線に続く青を、人々は『海』と呼ぶ。

 絵本の中でしか見たことのない、本物の『海』はなんだか綺麗というよりもおぞましいものに見えた。

 風に運ばれて香る潮風はたまの贅沢で並ぶ魚料理の匂いに似ていて、ああこの大海原に乗って魚たちはやって来るのね、とリチラトゥーラは改めて海の恵みに感謝した。


「……リチ、移動しよう。ここは少し冷える」


 そんなことはないと思うのだが、と首を傾げたが、ロウがここにいたくなさそうにしていたのでリチラトゥーラは彼に従うことにした。


 海から風が強く吹いた。思わず手で顔を覆い、風を受け流す。誰かの気配を感じ、薄目に海の方を見る。リチラトゥーラは、目の前の光景に息をすることを忘れた。



「……お母さま……?」



 夢に見た、母の姿がそこにあった。ありえないことと頭では理解しているのに、心は認めたくないとはやる鼓動が訴える。

 記憶の中のままの母が微笑みながら海の向こう側から彼女を手招きしていた。リチラトゥーラは無意識の内に海に向かって歩を進めていた。


「お母さま! ——」

「リチ」


 不意に腕を掴まれて、後ろを振り返る。悲しい目をしたロウがリチラトゥーラの意識を海から陸へと引き戻した。


「気をつけろ。この島は、死に最も近い島と言われている」


 よく見れば母のような存在は半透明であり、陽炎のように足元を水面に揺らめかせていた。このまま手招きに引き込まれていたなら、リチラトゥーラは海に攫われてそのまま溺れ死んでいたことだろう。


 プランタン島。春竜の住まう国。

 その実体は、生と死のである。


「……ごめんなさい。ありがとう、ロウ」

「……行くぞ」


 この時リチラトゥーラはやっと、彼がどうしてこの場所に留まることを嫌ったのかを理解した。

 死に近いと云われる島は、今会いたい者を水面に映し出す。

 生者の世界に現れた命亡き者。それが愛していた者ともなれば手招きに応じてしまうのも無理はない。今のリチラトゥーラがそうであったように。

 過去、ロウもそうであったのだろうか? そうやって、愛していた者たちを見送ってきたのだろうか? それはどれほど辛いことだっただろう。

 彼に引かれている腕を見ている視界が、次第にぼやけ滲む。ロウの彼女を引く手は、ひどく温かかった。



 彼の手に惹かれ連れてこられたのは島の奥、スニェークノーチ国の国花でもあるプランタンの花々が咲き誇る場所。そこには大きな石碑が静かに佇んでいた。

 春竜の姿のロウと同じかそれ以上の高さがある。また、見たことのない言語が石碑には彫り記されており、日の光を受けて文字は鮮やかな色を煌めかせていた。


「……これは……?」

「今までの春竜が眠っている、慰霊碑だ」

「今までの……」

「各地で死んだ春竜の御霊は、全てここに還るんだ」


 煌めく文字は、眠る彼らの御霊。光は、彼の言葉に呼応したようだった。

 春竜は歴史上その希少性ゆえに、各地で捕縛、狩猟され絶滅まで追い込まれたという。そんな、無念にも散ってしまった春竜たちの魂の形は今、慰霊碑の中で静かに光を放ち世界に息づいていた。


 爽やかな風が吹き抜けて、慰霊碑の隙間から音が響く。リチラトゥーラたちの耳に届いたその音は、美しい音色を奏でる春竜の鳴き声のようだった。


 ロウがリチラトゥーラに振り返る。今まで見たことのない、いつになく真剣な表情の彼にリチラトゥーラは思わずドキリとした。


「……ロウ……?」

「……おれはここで、あんたに話したいと思ってた。おれのこと。春竜のこと。クルドゥ病のこと。そして——イザベラーニャのこと」

「お母さまの……?」

「ああ」


 ロウが春竜たちの御霊の眠る慰霊碑を見上げる。彼の瞳には憂う心が滲んでいた。なびいた風に、話す時であると背中をそっと押されたような気がして、ロウはその重い口をゆっくりと開いた。

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