西国の果て
第57話
どこからか、優しい歌が聞こえてくる。
彼女は知っていた。母の好きだった、海の歌だ。
母の生まれた故郷は温かい場所であったと、幼い少女は聞いたことがあった。母国を想い、娘を愛のある眼差しで見つめながら歌う母は、リチラトゥーラにとって最も尊敬する人物だった。
母が歌うのを止める。娘が夢への舟を漕ぎだしたためだ。母はまだ幼いリチラトゥーラの髪を優しく梳きながら、前髪を分け、額にキスを落とす。ほんの少しだけ母の唇は震えているような気がした。
『————春竜さまに、選ばれたあなたなら、きっとこの国に…………』
ぽたり、幼いリチラトゥーラの頬が、一粒の雫によって濡れる。
それは母の様々な想いが詰まった、リチラトゥーラが初めて見た、母の涙だった。
❅ ❅ ❅
不意に目が覚め、リチラトゥーラはその場に起き上がった。先ほどまで見ていたのは夢……けれど彼女にとっては、物心がつく前の記憶に思えてならなかった。
少し上がった息を整えていると、風景が鮮明に見えてくる。一面が白に染まり、目の前に広がる青に息を呑む。そこは、まるで絵本の中でしか見たことのない美しい場所だった。
白い色は自国でも見飽きるほどに堪能してきたリチラトゥーラだが、この場所の白は冷たくない。そんな初めての感覚に戸惑う自分がそこにいた。
「——目が覚めたか」
ふと声が聞こえて、リチラトゥーラはその声のした方をゆっくりと振り向いた。そこにいたのは、眠る前に見た彼女にとって愛おしい存在。
そして、誘拐を懇願した相手でもある、リチラトゥーラの焦がれた人物……ロウだった。
彼は春竜の姿を解き、以前のような人間の姿でリチラトゥーラの隣に座っていた。久しぶりの再会に、泣きそうになるのを必死に堪えて彼を見つめる。
もう手離したくないから、離れたくないから、無意識に彼の手を少しだけ指先で触れる。
ロウは気づいていないフリをして視線を青の水平線へと戻した。
「……お前、髪が……」
「八年も放っておけばな」
彼の髪はひとつに束ねられており、リチラトゥーラに負けないくらいの長さになっていた。その長さから、二人が分かった「時の重さ」がうかがえた。
八年である。八年間、彼らは一度も会うことはなかった。
彼らは互いに時の流れの早さを実感し、そしてその時間を取り戻せないことを、知っていた。
大人になったのだ。気が狂いそうになる、八年間だった。
「綺麗ね。わたくしより上手に手入れができてる」
「馬鹿言え。潮風にさらされまくって痛みきってるわ」
「しおかぜ……? ……ねえロウ。ここは一体どこなの?」
リチラトゥーラの問いにロウは静かに目を伏せ、そして開き、答える。
「……ここは、あんたがずっと行きたいと言っていた、西国の果て——プランタン島だよ」
……分かっていた。目が覚めた時に見えたこの光景が、あの『春竜伝説』の絵本に出てくる幻の島と酷似していたことを。
だからリチラトゥーラは驚くことなく、そう、と静かに頷くのだった。
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