本物の彼女

西野ゆう

第1話

 昇降口に落ちている四つ折りにされた一枚の紙。それは自らを恥ずかしんでいるようで、その羞恥の奥を覗いてみたくなった。


 指先でそっと

 文字をなぞる

「す」

 という文字の

 くるりと回って交わるあまりの美しさに

 思わず光をあてて

 独り

 壁と

 指先

 昨日失くした涙

 昨日託した明日


「詩? いや、歌詞かな……」

 一度さっと眺めて、授業中に教師の目を盗んで渡すような手紙の類ではないと分かった。

 スリッパに履き替え、一段高い廊下に上がる。

 そこでもう一度振り返り、紙の落とし主の姿を誰もいない空間に投影した。

 艶やかな唇も含め、愛らしい魅力に溢れたパーツを収めた輪郭は、細い顎先くらいしか印象にない。大きめの眼鏡と、長く垂れ下がった前髪がそうさせているのだろう。

 瀬戸なほ子。

 ノートに刻まれた癖の強い字に、確信をもって彼女を思い浮かべた僕は、その紙をズボンに押し込んだ。

 授業中も神経はポケットに集中していた。折れ曲がった角が、太もも辺りで存在を主張し続けている。

 チクリ、とした。太ももが、だ。

 ――「す」という文字のくるりと回って交わるあまりの美しさ

 その部分だけがなぜだか印象に残っている。

 字の特徴は間違いなく瀬戸の字なのだが、文章が妙に大人びていて胸がざわついた。

 帰宅して、ベッドで横になる時間になっても、相変わらずあの紙は自分の手の中にある。

 高校に入学して二か月。まだ瀬戸と会話したことはない。まともに声も聞いたことがない。あの小さな顔の下の方にあって、嫌でもその存在感の大きさを認めざるを得ない唇が、大きく開かれるところを見たことがない。

 そんな彼女に惹かれたキッカケなんて、誰にも恥ずかしくて言えない。

 入学して間もなく、夢の中で、僕は彼女の正面に立ち、彼女の前髪をかきあげ、彼女の眼鏡を外していた。それだけだ。それだけの行動をして、彼女の顔に見惚れる夢。

 だが現実では、彼女の長い前髪の奥にある瞳をちゃんと見たこともない。

 そもそも、これまでまともに女子を好きになったことのない自分が、「瀬戸なほ子」という実在する人間がいながら、自分の勝手な想像だけで作り上げた「瀬戸なほ子」に恋心を持っているという現状が酷く失礼なようにも思えてきた。

「明日、思い切って紙拾ったこと言ってみるかな……」

 口に出していったのは、僅かな勇気が、少しでも膨らまないかと期待してのことだったが、その夜に見た夢で、勇気は完全に消えてなくなった。

 僕の後ろの席に座った彼女は、僕の背中に何度も繰り返して「キモい」と書き続けていた。


 八月。

 瀬戸が落とした紙は、家の机の本立てで、教科書の間に挟まっている。

 夏休みは午前中に少しだけ課題をこなして、昼間はダラダラと過ごしていた。

 だが思わぬところで、再び頭の中が彼女で支配された。

 その彼女は、学校で見る「瀬戸なほ子」でも、その姿を見ながら僕が想像で作り上げた「瀬戸なほ子」でもなく、本物の「瀬戸なほ子」だった。


 指先でそっと

 呪文をなぞる

「す」

 という文字の

 くるりと回って交わるあまりの眩しさに

 思わず顔を背けて

 また独り

 壁と

 指先

 昨日失くした涙

 昨日託した明日


 紙に書かれていた言葉とは、少し違っていた。

 教室で見る彼女とは、大きく違っていた。

 公園の野外ステージ。やや前のめりの姿勢で背中にバンドのメンバーを従えた彼女は、その場に君臨した女王のようだった。


 僕は彼女に声を掛けるべきか悩んだが、ステージ上で歌う彼女とは何度も目を合わせている。何も話さずに立ち去る方が不自然な気がして、全ての勇気を使って声を掛けた。

「瀬戸さん、かっこよかったよ、凄く」

 彼女の背中に向け声を掛けると、振り返った彼女は僕の顔を睨みつけていた。

 そして彼女は険しい表情のまま、僕の方へ近づいてきた。

「誰?」

「え?」

 彼女はもう一度「誰?」と言いながら、斜め前にかがむような姿勢になって、丈が膝下まである、長くて薄手のカーディガンのポケットに手を入れた。

 そのポケットから出したものを見て、ステージ上で僕を指さしながらも「誰?」と聞いてきた意味が分かった。

 彼女は手にした眼鏡をかけ、もう一度僕の顔を見た。

「あ……」

「や、やあ」

 何とも間の抜けた挨拶を再度交わし、もう一度ステージで見た彼女の感想を伝えようとしたが、先に彼女の口から出た言葉に、僕は何を返して良いか分からなくなった。

「ごめんね、気付かなかった。あたし、ぼやけて見えないくらいが緊張しなくていいんだ」

「なんだ。何度も目が合ってたと思ったのに」

 彼女は僕のその言葉にも眩しい笑顔を向けてくれた。

「瀬戸さん、ひとつだけ聞いていい?」

「なに?」

「さっきの歌の歌詞なんだけど……実体験?」

「え? 違うよ。あんな感じの夢見たことがあって」

 僕はそれを聞いて、笑った。

「夢って、たまにおかしいよね」

「そうだね」

 そう言って笑う彼女の眼鏡に手を掛けるようなことなどできるはずもなく、ただ僕は、僕の夢の話もいつかできたらいいなと願っていた。

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本物の彼女 西野ゆう @ukizm

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