脳内みちの会議


 わたしはよく、みちのさんの胸で泣く。

 待てよ何云ってんだこいつきめえ……

 安心して欲しい。みちのさんであって、みちのあかりさんではない。わたしは「みちのさん」の前で泣く。そんな時、みちのさんは云う。

「またなの? 泣くほどのことではないわ」
「聖人君子に小説は書けないわ。汚れと強さと弱さを持つのが物書きよ」
「嫌な人間は無視していいのよ。みちのは無視するわ。たとえ地球上の80億人の半分がそう云っても、残りの40億人は違うことを云うわ」

 このくらいのことはスラスラとみちのさんは云ってくれる。
 そしてみちのさんはわたしの肩を叩く。
「あなたよりもずっとハイステージにいる人たちが悩んだり苦しんだり傷ついたりしていないと想う? そんなことない。殺るか殺られるかでドロドロよ☆」

 そっかー。
 会議が終わる頃にはわたしは元気になっている。
 ヨカッタネ。
 いややっぱりてめえきめえよなんだよ脳内会議って「みちのさん」しか喋ってねえし、病気かよ。
 そんなことはどうでもいいのだが、なぜ「みちの」。


 これは明らかにみちのあかりさんが悪いのだ。もともと脳内にいた名言botのようなオネエには名がなかった。男よりも的外れではなく、女よりも湿っぽくなく、男性の包容力と女性のデリカシーを持つオネエは相談相手にちょうどよいのだそうだ。
 オネエはけっこう辛口で厳しいことも云うのだが、感情に後腐れをつくらない特技も持っている。自問自答の時のキャラにはもともと、オネエっぽいXに登場して頂いていたのだ。
 ところが、みちのあかりさんの創作論を熟読しているうちに、いつの間にかXは「みちのさん」になってしまった。
 男性がオネエに寄せたキャラで語るとみんな口調が似てしまうからだろうか。


 借り物の言葉は、響かない。どこかで聴いたことのある言葉でも、その人がその口で、その人の教養や経験や感性に根付いたものを発することで、はじめてそれは言葉と変わる。「みちのあかりさん」の創作論もそうだ。積み重ねてきたものをろ過した言葉は、人の心をゆり動かす。

 宝塚の芸名みたいなみちのあかりさんは、とても熱く、真っ直ぐに、カクヨムの活用方法を語ってくれる。本を出したいとわめく小僧たちには、現代における商業ビジネスとしての創作の在り方を説く。
 出版に関わる大勢の人間の生活を支えて食べさせていける者がプロになれるのは当然じゃないですか? と。
 世の中で生きていく上での普遍の方向性がそこにはある。
 仕事で培ったスキルを積極的にみちのあかりさんはカクヨムライフに取り入れている。悩んでも疑問を抱いても、停滞しておらず、行動に変えるのだ。

 とくに、これから社会人になろうとする学生さんにはこちらの創作論を勧めたい。
 姿勢が勉強になると想う。


 意見を異にする部分もあるがそんなものは想定内だ。まよえる羊がいたとしても、「みちのあかりさん」は、悪いだけとは断定しない。
 メリット・デメリットを数え上げ、その上で「お好きにやんなさい」と放してくれる。
 みちのあかりさんは自分を信じているが、自分だけが絶対だと信じているわけでもないのだ。
 この幅があるかないかで、その人の意見を傾聴できるかどうかが決まる。

 おそらく互いの小説を読むことはないだろう。ジャンルも嗜好もまったく違う。それでも、その方の創作論や創作姿勢が為になる、そんな人は大勢いる。
 みちのあかりさんはそのうちの一人なのだ。
 名言集の宝庫のようなエッセイ。胸にストレートに飛び込んでくる。


 『もし、完璧な小説というものを作ろうと思ったら、それはやがてAIが作ることでしょう。おかしくても、つたなくても、感動できる小説。それが人間の作る意味じゃないですか?』
 ──うちはうち、よそはよそ(創作論それぞれ)

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