とどめおかまし

 十代は美しい。
 若葉のように柔らかく、陽ざしを浴びて翠色に透きとおり、風に揺れて騒がしい。

 芸術の水準が飛躍的にのびたルネッサンス期のフィレンツェ。大人に混じって仕事をしている少年の中に、神の贈り物と名付けられた美少年がいた。
 すでに名声を得ていたミケランジェロは彼をモデルにしてダビデ像を完成させたいと少年に申し出るが、美少年はある理由からそれを断り、はやく一人前になりたいのだと云って大工修行に没頭している。
 その理由は遠くの土地にある。
 それを知ったミケランジェロは、少年の決意を尊重することで少年からの信頼を得、付かず離れずの距離から大人としての援助を少年に与える。

 ミケランジェロ作ダビデ像の眸はハートの形をしている。
 そこから編み出された素晴らしい掌篇。

 とかく時代ものとなると、調べ上げた当時の風俗や知識を随所に詰め込みたくなるものだが、九月ソナタさんはそこはあっさりしている。
 舞台となった古都を実際に知っているからというだけでなく、登場人物だけを見つめてお話を作っているからだろう。

 芸術家を保護した施政者メディチ家についても、フィレンツェを揺るがせた狂信者サヴォナローラについても、広場の名も人の服装も食料事情も、とくに掘り下げて触れることはない。
 他の人ならば当然書くであろうことを、ごっそりと割愛している。
 そんな最小限の描写なのに、みるみるうちに読者は蝋燭頼みの中世の夜に連れていかれてしまう。
 トスカーナ平野に沈む夕日が見える。
 細部について書いたりはしないのに、柑橘色をした光が文字の向こうに見えてくる。

 生きた人物が書ければその作品は半分は成功したようなもの。そう云われているが、ミケランジェロの「ピエタ」のように身体の均衡が多少おかしかろうが、疑問や矛盾が残ろうが、一切そんなことは気にならないのはその作品が優れているからに他ならない。
むしろ、あの崩れた均衡を「間違えている」として、実際の人体に沿って正確に修正してしまうと、あのピエタの迫りくるような存在感は失われてしまう。

 寸分刻みに正確無比であるような作品は、その正確さを洗練された美として誇るのでない限り、物語ののびやかな生命を失っていることが多い。
 それが分からぬ人たちは、血眼になって粗さがしをしてはことさら大声で勝ち誇り、人が刻んだものを叩き潰して勝ち誇る。
 そのような心ない人たちには味わえぬものがこの世にはある。
 中世に吹いたやさしい風。
 かたちにはならぬそれを拾いおこして物語に閉じ込める人を、わたしは小説家と呼んでいる。