一冊の本の中にあった灯明

 1803年に常陸国に漂着した虚舟(うつろぶね)の中には箱を抱えた女がいた。
 女は箱を手放そうとしない。
 きっと不義密通をはたらいたのだ。男は国で斬首され、女は海に流されたのだ。そう述べる者もいた。
 異国の女が抱えて離さなかった箱。その中には男の首が入っていたのだろうと。


 女を乗せて海を流れてきた虚舟。
 舟を描写したものを見れば、その形状はUFOのようである。

 このように、女を乗せて漂着する舟というものは、それだけで人の想像をかきたてる。
 灯台守として島に籠もっている男は或る日、海原を超えて外国から陸に辿り着いた女を引き上げる。

 国を違える彼と彼女。二人には或る共通点があった。同じ本を聖典のように心の中に抱きしめて生きてきたのだ。

 わけありの素性を持つ軍属の男はこの一冊の本に導かれるようにして孤島の防人となり、支配者階層に生まれた女は恵まれた暮らしと決別して小舟で波間に乗り出した。
 二人が読みふけった本の中に篭められていたメッセージは、とても古臭いものだ。
 しかしその古臭い紙の本が読む者たちに訴えかけたものは、彼らの脳を貫き、北極星のように冷たい光でかがやいた。

 最先端なものにしか価値はない。やたらと他者を否定する声の大きなものだけに利得があり、すべてはAIがやってくれる便利で高度で洗練された完璧な世界。

 そんな時代にあって、その古ぼけた本はまだ呼びかけている。風に消えかけながら、変色して今にも破れそうな頁の中から、小さな灯火を燃やしている。

 人間であることを止めないで。

 命のカンテラを掲げることを止めないで。

 活字が描いてみせた夜空の星座。
 それに触れた者は誰でもそこを目指して未知の明日へと歩いていくのだ。
 大古の人々が等しくそうであったように。

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