寂しん坊の肖像
灰崎千尋
画家への手紙
ご無沙汰しています。
いいえ、いいえ違います。こうして直ぐに上辺を取り繕おうとしてしまうのは、僕の悪い癖です。
僕は、僕と貴方に関わる一切をこの手紙に明らかにしようと決心したのです。そうしなくては僕自身が耐えられなかったから。
これまで貴方に隠していたのも、突然貴方の前から姿を消したのも、今あなたに全部を知ってほしいのも、僕の身勝手であると承知しています。しかしそのいずれにも理由があるのを告白しようというのです。だからどうか最後まで、この手紙を読んでください。読んでいただけたのなら、どうしたって構いませんから。
最初に告白しなければならないのは、貴方との出会いについてです。
その画廊の前を通ったのは、全くの偶然でした。雑居ビルの一階、通りに面した画廊はガラス張りで、中の様子が丸見えになっていました。僕はその前をただ通り過ぎようとしたのですが、一枚の絵と目が合ってしまって、思わず足を止めたのです。
それは或る男の肖像画で、彼はガラス越しに僕のことを暗い目で見つめていました。
彼をもっと近くで見たい、という衝動に駆られて、僕は初めて画廊というものに足を踏み入れました。僕は絵に関しては、教養として求められる以上のことを知りません。それでも強烈に惹かれるものが、その絵にはあったのです。
画廊は大変静かでした。他に人影は無く、僕は彼とじっくり対峙することができました。塗り重ねられた
同じだと思いました。僕と同じく、彼はどうしようもない孤独を抱えた人なのだと、そう思ったのです。
画廊のオーナーに後ろから声をかけられるまで、僕はずうっとその絵を眺めていました。そんなに気に入ったのならと、オーナーは僕にその絵を描いた画家の名刺をくれたのです。そしてこれが「自画像」をテーマにしたグループ展であることを教えてくれました。
ええ、そうです。その名刺には、貴方の名前が印刷されていました。
誤解しないでほしいのですが、そこから貴方のアトリエを調べたりしたわけではありません。
名前と電話番号が載っているだけの、シンプルな名刺。僕はそれを財布に入れて大事にしていただけでした。僕と似た寂しさを知っている人がいる、その証として。
数ヶ月後、僕は大学に進学して親元を離れました。新天地、新たな学友、新たな学問。僕は今度こそ、僕の抱える退屈が打破されるのを期待していました。けれどもそれは早々に、あっさりと裏切られることになります。
僕は五月に入って、大学にも行かなくなってしまいました。他人からすれば典型的な五月病にしか見えないことでしょう。しかしそれ以上に僕は、僕の人生にすっかり飽きてしまっていたのです。
貴方がどう思っているかはわかりませんが、世間一般的に、僕は見目の良い方です。嗚呼、
僕はこの容姿に加え、人並みの社交性を持ち合わせていました。それだけで男でも女でも、僕の周りには人が集まってくるのです。僕はしばしば、誘蛾灯にでもなったような心持ちになりました。彼らは僕の中に何か素敵な幻想を見ていて、僕の本質を見ようとはしません。
僕は空っぽです。がらんどうです。僕が僕自身を一番つまらないと思っているのに、周りが上辺だけを見てちやほやするのが心底気に食わないのです。
そして新しい生活が始まったところで、上っ面を張り付けることが習慣になってしまった僕も、それだけを見て群がる人々も、何一つ変わりはしませんでした。そうして僕はこの先もこんな人生が続いてしまうのだろうと、自分自身にうんざりしてしまったのです。
そんな時でした。貴方のアトリエを見つけたのは。
道路を街路樹がおざなりに飾って、その新緑がやけに眩しい日でした。僕は下宿していた町を当てもなくぷらぷらとしていました。何があるわけでもない平凡な町です。それでも、家に閉じこもって僕自身と向き合うよりはずっとましでした。そうして無意識に人気の無い方を選んで行くと、坂道を上り、細い路地を抜け、山を背にぽつんと立つ家を見つけました。
その時の驚きと言ったら! 家の小ささの割に広い窓(今ならばそれが光を採り入れるためだとわかりますが)、そこに見えたのが数か月前に出会った自画像の顔そのままだったのですから。
貴方は僕の視線に気づきもせず、自画像に見た仄暗い瞳でキャンバスに向き合っていました。僕は考え無しに玄関まで行き、呼び鈴を鳴らそうとして思い留まりました。僕は貴方の筆を止めたい訳ではありませんでしたから。そこで裏に回ってみると小さな裏口があったので、そっと握りを回してみました。鍵はかかっておらず、するりと扉は開いてしまいました。
裏口はちょうどアトリエに繋がっていて、貴方の丸まった背が僕の正面にありました。絵具と油、それから木の匂いが鼻の奥をつんと刺激します。僕は緊張と興奮で息の仕方を忘れそうになりました。
貴方が描いていたのは、静物画でした。白い布と、果物
やがて、深い息を吐きながら貴方が筆を置きました。僕の方は大きく息を吸って「こんにちは」と、至極凡庸な挨拶をしました。
貴方は
「ごめんなさい、鍵が開いていたものだから」と僕が微笑んでも、貴方は威嚇するように低い声で「出ていけ」と言うだけでした。
僕が「貴方の絵が好きです」と続けると、貴方の瞳は怯えと戸惑いに揺れました。それから何も言わず後ずさり、アトリエから繋がる別の部屋へ引っ込みました。
貴方は不審者を警察へ通報することもできたし、暴力的に排除することもできました。しかしそうはしなかった。しばらくしてアトリエへ戻ってきた貴方は、まだ居座っている僕を奇妙な生き物でも観察するような目で見ただけで、また筆を握りました。貴方はそれ以上僕に構いませんでしたから、僕は心行くまで貴方の筆運びを眺め、貴方の気づかないうちにそっとアトリエを抜け出しました。
それから僕は、しばしば貴方のアトリエを訪れました。裏口の扉はいつも鍵が開いていました。貴方が家を空けている時でさえ僕は自由に出入りできたので、先に入って貴方を待っていることさえありました。
最初の内、僕を見る貴方の目が色々に変わるのを楽しんでいました。不審、苛立ち、呆れ、混乱。そんな感情が見て取れるのに、貴方は僕を完全に拒みはしませんでした。
「お前は、絵を描くのか?」と、貴方が問うてきたことがありました。
「いいえ」と首を振る僕に、「なら、どうしてこんな
その時僕は、こう答えたはずです。
「言ったでしょう。貴方の絵が好きなのです。貴方の絵の前でなら、僕は素直に自分の寂しさに向き合うことができる。この孤独を分かち合えるような気がする。絵に描かれた寂しさを受け取ることもできる。その絵が出来ていく
僕は珍しく自分が言い淀んだのを覚えています。貴方の顔を見ると、促すように僕をじっと見ていたので、僕は言葉を続けました。
「それに、そんな絵を描く貴方のことも好きなのです」
それが、貴方のもとへ通ううちに僕の出した結論でした。
僕はこれまで、見知らぬ人の家へ侵入するような大胆な行動をする人間ではありませんでした。僕自身、戸惑っていたのです。他人に対して、こんなにも興味を持ったのも初めてでした。ええ、これではまるで、初恋ではありませんか。
思えば僕は画廊でひと目見た時から、絵に描かれた貴方を、そして貴方という画家を、すっかり好きになっていたのです。一目惚れ、ということになりましょうか。そして実際に会って、また会いたくなって、もっと知りたくなってしまった。
僕の告白を聞いた貴方は、なんとも形容しがたい表情をしていました。目を見開いて、眉間の皺を濃くして、口を開けたり締めたりするけれど言葉にはならなくて。
僕も急に恥ずかしくなってしまって、その日はアトリエを出ました。
そんな風だったのですが、翌日も裏口の鍵はちゃあんと開いていました。
アトリエの時間は静かに過ぎて行きました。貴方は言葉を交わすのを好まない様子でしたし、僕は口を開くと心の内を全てぶち撒けてしまいそうでしたから。
それでも少しずつ、僕は貴方のことを知っていきました。
昼前に隣の私室からアトリエに出てくること。絵具の並べ方にルールがあること。珈琲が好きだけれど猫舌であること。時々は外でスケッチをすること。画廊などとのやり取りは手紙でしているらしいこと。貴方の電話が滅多に、いえ、たぶん鳴らないこと。
貴方のことを知る度に、僕の空白が埋まっていく気がしていました。新しい色に自分が塗り替えられていくようでした。
何よりも雄弁だったのはやはり、貴方の絵です。木炭で描かれたデッサンは陰影が濃く、そのぶん光が眩しく見えました。描いた後に手で汚した跡があったり、いくつも色を試した様子の習作もありました。しかしその中にいる人間は、貴方一人でした。貴方の作品は風景や静物がほとんどで、人物といえば僅かな自画像だけのようでした。
僕はそれを、とても残念に思ったのです。貴方の作品はどれも好きでしたが、何より気に入っていたのは自画像でしたから。
それに、僕が受け取ってばかりで貴方に何も返せていないのが気がかりでした。勝手に押しかけて、勝手に満たされて。その自覚は僕にだってありました。
だから、「僕を描きませんか?」と言ったのです。
貴方は筆を置いて、熱い珈琲に息を吹きかけているところでしたが、その姿勢のままぴたりと固まってしまいました。
「僕でよければ、いつでもモデルになります。脱いだって構いませんから」と僕は付け加えました。
これはしばらく考えていたことでした。僕が貴方にできることと言ったら、これ位しか思いつかなかったのです。貴方の描いた僕が見てみたい、という願いがあったのも確かですが。
貴方は眉根を寄せて、しかしじっくりと僕を観察しました。その間、僕は射貫かれたように動くことが出来ませんでした。
どれくらいそうしていたでしょう。やがて、貴方は決心したようにイーゼルのキャンバスを素描用に取り換えると、隣の私室から背もたれのある椅子を運んできました。無言で僕を見る貴方に促されるまま、僕はぎくしゃくとその椅子に座りました。まさか今すぐだとは思っていなかったものですから。
自分から言い出しておきながら、なんとひどいモデルだったことでしょう。僕は普段どう座っていたのだかわからなくなっていましたし、心臓が早鐘を打っていました。いつになく
そうして貴方に描かれる日々が始まりました。次第に慣れてきた僕は、湧き上がる喜びに身を委ねながらも、静かに座っていられるようになりました。貴方の手元を見られない代わりに、僕を描く貴方の顔を堂々と見ることが出きました。貴方の目が僕をなぞる度、肌がぴりりと
永遠に続けば良いと思っていましたが、過ぎてみればあっという間でした。貴方は僕を描いた絵だけはずっと見せてくれませんでした。デッサンが何枚も溜まり、キャンバスの下絵になり、少しずつ色が乗る。その絵が完成してようやく、僕はイーゼルの手前に行くことを許されたのでした。
嗚呼、その絵は今も僕の脳裏に焼き付いています。
等身大に描かれた、胸から上の僕。筆の跡がしっかりと見えるタッチは、あの日見た貴方の自画像と同じでした。けれどそれ以外は、何もかもが違いました。
僕の顔には温かな光が当たり、うっすら上気した頬を照らしていました。流し気味にこちらを見る目は柔らかく、唇の端にも笑みが浮かんでいます。しかしその端々に寂しさが滲んで見えました。
僕は、自分がこんなに素直な顔ができるのを知りませんでした。それはきっと貴方の前だからで、貴方のおかげなのです。でも、それにしたって、貴方から見た僕は綺麗過ぎる。
僕は胸が一杯になって、私室に戻ろうとする貴方を後ろから抱きしめました。
「ありがとう。僕をこんな風に描いてくれて」
僕はそう言って、貴方の頬に接吻したのです。
あの時、全てが変わってしまったのですね。
貴方は新しく静物画や風景画を描こうとして、描けなかった。鏡を見るのもやめてしまった。僕をまた椅子に座らせて、けれどもやはり描けなかった。
描けなくなった貴方の恐慌を、僕ではどうすることもできませんでした。
僕と貴方は似ていると、今でも思っています。それは表と裏のように。貴方は人を避けているようで、ずっと求めていた。言葉で飾らない代わりに沈黙して、けれど自分を受け入れて欲しかった。
しかし決定的に違うのは、貴方が画家であることでした。僕はこうなってようやく、それに気づいたのです。
貴方はきっと、不器用な芸術家なのでしょう。できることなら、僕が貴方を満たしてあげたかった。幸福な貴方の描く絵を見てみたかった。でもそれは叶わないのです。貴方は孤独でなければ描けない人だから。
愛しています、貴方を。
貴方の絵を。貴方という画家を。貴方という人を。
だから僕は、貴方の前から消えることにしたのです。
貴方と出会ったことも、アトリエに行ったことも、あの日接吻したことも、僕は後悔していません。
僕は貴方に、孤独を刻み付けることができたでしょうから。
これで貴方は、この先もずっと描いていけるはずです。
それだけは、貴方に伝えておきたかったのです。
これが、僕の告白の全てです。
もう二度と、貴方にお会いするつもりはありません。手紙もこれが最初で最後です。
でもまたどこかで貴方の絵に会えたらと、そう願ってもいます。
だからどうか、描いてください。
ご活躍を心から祈っています。
寂しん坊の肖像 灰崎千尋 @chat_gris
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