第4話

『私の願い……叶える為に、手伝ってくれないか?』


 後から思えば、あのことばが、アルディクの灰色の世界を塗り替えた。彼は夜明け前の見回りを終えて天幕に戻りながら、何故か急にあの言葉を思い出していた。あれから、十年も経ったというのに、まるで昨日の事のようにあの幼かった笑顔は鮮明に脳裏に張り付いている。


 天幕の入り口で張り番をしていた兵士ふたりが、朝霧の中にアルディクの姿がかたちどっていくのを見つけ、直立不動の姿勢をとる。


「お役目お疲れ様であります!」

「ご無事で何よりでございます!」


 15歳とまだ若いが、武術に長け、信頼に足る兵士たちだ。そして、憧憬の眼差しで自分を見ている。


「将軍閣下!」

「なかにおられるのか?」

「は、はいっ、お帰りをお待ちです!」


 緊張気味に、兵士は応える。アルディクは頷いて、天幕の入り口の垂れ幕を持ち上げた。


「……ルキア」


 ぱちぱちと天幕用の簡易炉が燃える傍、革の敷物の上で、書物の束に寄りかかるようにして栗色の髪の娘がうたた寝していた。


「あ……アルディ……おかえり」


 呼び声に、琥珀色の瞳を眠たげに開く。しなやかな革の兵装を身につけた、17歳の美しい娘がそこにいた。娘はその身分に相応しくもなく、男の前で大あくびをして、


「ごめん。眠っちゃってた」


 と詫びて屈託なく笑った。


「そんな事はいい。昨夜は夜通しの行軍だったんだから、眠れる時は眠っておけ。だが、うたた寝は風邪をひく」


 朝露に湿ったマントを火の側に広げながらアルディクはぶっきらぼうに言う。娘は首をすくめて、


「そうだね、ありがとう」


 と素直な言葉を返した。


 王女アウレルキアと訓練兵アルディク……十年の歳月は、ふたりの間柄を誰一人想像も出来なかった形に変えていた。


―――


 七歳の王女が、その生まれついて持った特権を全て捨て、庶民と同等の訓練を受けて前線に立ちたいと願った時、初めは両親も兄弟も皆、子どもの戯言と笑ったらしい。王は妃に、『賢しいと博士に評されたからといって、王女には不必要な学問など身につけさせるからおかしな考えを持つのだ。王の子の役割は、ストルヘナに併合された国を治めることだけだ。虫けらのごとく死なせる為に神が作られた一般兵士のまねごとなど、ばかばかしいにも程がある』と言い放ったそうだ。しかし幼い王女は顔色も変えずに、『私はこのいくさを終わらせる戦王女になります。それが私の使命と考えます』と言い返した。『幼い女の身で何が出来ると言うのだ。そんな事より学問は止めて楽器や裁縫でもしておくがいい』そんな父親の言葉に、アウレルキアは琥珀色の瞳に決して退かない光を湛えながらもその時はそれ以上請わなかった。その代わり……たまたま戦況報告の為に王都に滞在していた竜将軍ダルトスに請うて、秘かに剣術を教わったのだった。


 ストルヘナの軍をまとめる武人の長、飛竜将軍。ダルトスや歴代の殆どの飛竜将軍は貴族の出身だったが、ストルヘナの歴史の中には、庶民の兵士から実力でその地位を勝ち取った者もいた。伝説の戦王女アウラレイアに付き従った最初の飛竜将軍も庶民の出だったという。父の許可を得ているという王女の言葉を信じた飛竜将軍は幼い王女の酔狂だと思いつつも、稽古に付き合った。だがここで、竜将軍は、幼い王女に驚くべき天賦の武術の才を見出した。たったの一月で、七歳の少女が国一番の武人から十本に一本取れるようにまで成長したのだ。


(この方は、本当に戦王女の生まれ変わりかも知れない)


 そう感じた飛竜将軍は、王に、王女の思うままにさせるべきと進言した。王は最初は不機嫌になったが、やがて考えを改めた。小賢しい三女は元々あまり他の子より気に入らない点が多い。美しさでは他の姉妹より秀でていたが、王の考える、あるべき王女の姿とはあまりにかけ離れていた。


『いいだろう。もしも本当に戦王女の生まれ変わりであるならば、私の代でストルヘナが世界を統べる事になる。そうでなければ……王族がひとり減るだけだ』


 そうして、国王の許しを得たアウレルキアは訓練兵場に向かいながらも、ただ王族として訓練兵の中で特別扱いを受ける事も望まず、まずは自分の実力を見せつけようと考えた。最初は、『神の子』だからと言い切るのもいいだろう。自分に対する接し方を、既存のものから改めさせるには力を示さなくてはならない。そうでなければ、自分がいくら他の子どもと打ち合いたいと願っても本気でやらせてもらえないだろうし、無理を通せば相手の子どもが罰を受けると彼女は知っていた。だが、そうやって皆の心を惹きつけた後は、自分が皆と同じ人間なのだと認めさせたい。戦王女になってすべてのいくさを終わらせたいという願いは本物だが、『王族でありながらも人でありたい』という思いも同じ位に強かった。


 兄が宴席の度に自慢げに、七歳で闘って人を殺したのだと、虫けらのような庶民でも赤い血を流して苦しんでいたのだと何度も語って笑い、周囲がそれを勇敢だと褒めるのが心底嫌だった。どうして自分は家族と価値観が違うのだろうと悩んだ事もあったが、様々な書物を読んだり、竜将軍の話を聞いたりする事で、段々とその悩みは晴れて、自分は正しいのだと信じられるようになった。王都を離れる際、母だけが涙を流し、ルキア、いつでも帰って来なさい、と言ってくれたが、他の兄弟姉妹は、気持ち悪いものを見るかのように、或いは馬鹿にしたように遠くから眺めていただけだった。姉たちは『どうして美しいものを捨てて汚いところへ行きたいの? 私たちも通過儀礼で訓練場に行ったわ。本当に汚くて臭くて嫌なところだったわよ。お馬鹿さんなルキア! 綺麗なドレスより兵士の服がいいなんて』と笑っていた。


 兄が遊びで殺した子の弟がいると知り、その子を対戦相手に選んだのは、真摯な詫びの気持ちの表れに他ならなかった。だが、その子からは、他の子と違い、王族への憎しみと諦めが感じられた。ただの言葉では信じてもらえないだろう、と思った。だから、その子を打ち負かした。


『私の願い……叶える為に、手伝ってくれないか?』


 声をかけたのは、その子の兄への贖罪だけではなかった。打ち合った一瞬に、彼の資質を見抜いた。どうせ死ぬ為に戦場に送られる兵士だから、きちんとした手ほどきは受けていない筈なのに、彼の剣を躱すのは本当にぎりぎりだったのだ。それに、王族に立ち向かう意志の強さにも惹かれた。

 アウレルキアは彼を訓練のパートナーに選び、上官達に有無を言わせなかった。彼にも周囲にも、自分をルキアと呼び捨てにするように、と言ってきかなかった。最初は皆、そんな事をしたら自分の舌が天罰で燃えてしまうのではないかと恐れていたが、半年もするうちにルキアは周囲に馴染み、周囲も遂に彼女を仲間として受け入れた。

 そしてアルディクは一番最後までルキアを受け入れられなかった者だった。いつも傍にいて共に戦闘訓練をしていても、必要な事以外は話さなかった。それは、彼が長い間ずっと混乱していたからだった。


『王族は神の子だから……仕方が無いんだ。最初から、遊んで暮らす運命に生まれたんだ。俺たちはそれを護る為に闘わなくちゃならない。だけど、これがこの世界の仕組みなんだから、逆らっちゃ駄目だ。いいか、いいか……』

『それが神のご意志だからだ。俺たちもまた、神に作られたものだからだ。王族を護る為に』


 自分の身を護る為に兄が遺してくれた言葉が、呪いのようにアルディクの心を蝕んでいた。ルキアに救われたという現実を、そして隣で泥まみれになって汗だくになっても笑うルキアを、受け入れる事が出来なかった。戦王女なんている訳ない。いるのは、永遠に薄っぺらに死に続ける庶民と、それを眺める王族だけだ。そうやって苦しむアルディクを、ルキアはどうやって救えばいいのか、いつも思案していたが、なかなか難しかった。なんと言っても彼女もまだ八歳の子どもであったから。

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