第2話

 そして翌日になった。目覚めた時、少しだけぼんやりした後、ああ、これが最後の朝なんだっけと思った。最後の朝餉は、上官の心遣いで、彼にだけ果物が添えられていた。上官も、彼を指名した王女は彼を殺すつもりだと思っているのだ。果実は少し酸っぱかったが美味しかった。


 対戦場で、初めて彼は王女の顔を見た。今から自分を殺すのだろうと思っている相手を。これからどれくらいそのひとと信じ難い縁で結ばれて過ごすのかも知らずに。


 アウレルキアは栗色の髪と琥珀色の瞳を持っていた。これまでの王族の子は皆、美しく化粧をして髪を整えられ、ぴかぴかの兵装を身につけていたのに、何故か彼女の髪は、わざと引っかき回したかのようにぐしゃぐしゃに、色んな方向にはねていた。兵装も庶民の子が使い古したものみたいだった。

 けれども、それでもアルディクは、綺麗な女の子だなと思った。金木犀の香りは気のせいではなかった。その全身から漂う香りを嗅いだ時、アルディクは、それまで持っていた、救われ難い運命への反感のようなものを、束の間忘れてしまった。こんな女の子に殺されるんなら、大人の兵士になって戦場で死ぬより余程いい事かも知れない、と。


 黄色い砂塵が舞い上がる、訓練兵舎の表に設置された闘技場は、見慣れた上官と訓練兵達に取り囲まれ、仔猫一匹這い出る隙間もない。仰ぎ見た空は雲もないのに濁っていた。この世界の空は晴れ渡る事はない。


「アルディク・アルム、一手手合わせ願いたい」


 幼女の声が凛と響く。観衆は王女を讃えて歓声を上げた。アルディクは剣の柄に額を付け、上位の相手への礼を示した。


 次の瞬間、アウレルキアの脚が地を蹴った。ぼうっとしていたアルディクの盾を薙ぎ払う。アルディクは慌てた。一応、出来試合ではないと見せかける為に、少しは防御しないといけないのに。


「もう試合は始まってるんだよ。ぼうっとしないで」


 アウレルキアはそう言って、はね飛ばしたアルディクの盾を拾って渡す。観衆から不思議そうなざわめきが洩れる。


「……なんで?」


 思わず敬語も忘れてアルディクは少女に尋ねる。王女はにこっと笑い、


「私は本気の勝負がしたい。処罰なんかさせないから、本気で打ってきてよ。それがきみの兄さんへの手向けになるんじゃないかと思うから」


 アルディクは何を言われたのか理解出来なかった。この少女は本当に王族なのだろうか。ただの庶民の子どもだった兄への手向けなんて言葉が、王族から出る筈がない。

 そうか、とアルディクは思う。これは罠なんだ。新しい遊びだ。真に受けて王女を打てば、激しい罰が下されるに違いない。本物の剣で抵抗できない人間を刺して嬲りたいのが王族の本性なんだから、この娘はアルディクが兄より酷い目に遭うのが見たいのだろう。しかし、流石にそれは嫌だと思った。王族に立ち向かえば、自分だけでなく家族に類が及ぶ。


「出来ません、姫さま」


 とアルディクは盾を装着し直しながら応えた。アウレルキアはその応えに不満そうな顔をする。


「なんで? 私の言葉が信用できないの? 処罰なんかさせないって」


 信用なんか出来るかよ、と思いつつも、アルディクは、


「畏れ多くも王族の方に剣を向けるなど、神にも背く行為。してはならないと教え込まれています。どうかお許しを」

「それじゃあ、なんの為に試合なんかするの?」

「姫さまがご無事に王都へご帰還される為です」


 何を知らないふりしてるんだ。何を企んでるんだ。全部解ってる癖に。殺すならさっさとして欲しい。アルディクは苛立ちを隠す為に俯いた。すると、鈴を鳴らすような細い声が聞こえた。


「私は王都へ帰りたくない」

「…………は?」


 余りにも意外な言葉に思わず顔を上げると、琥珀色の瞳はじっとアルディクを見つめていた。


「兄上から聞いたんだ、お前の兄を殺した話を。すごく得意げに話してた。それから私の世界は変わった。どうしてそんな事が許されるんだろうと思って、色々書物を読んだり人に聞いたりした。そしたら、嫌になった。自分が王族でいる事が」


 アルディクは、たった七歳の少女からこんな言葉が出る事に驚いた。そう言えば上官は、「王家随一の英邁なお生まれつきと言われるお方」とか言ってたっけ。よく意味も解らないし関係ない事だと思っていたけれど、要するにずば抜けて頭がいいのだろう。

 だが、だからなんだというのだ。この少女は王女で自分は一介の見習い兵士に過ぎない。もしも少女が本心で言っているとしても、自分にはどうしようもないし、迷惑なだけだ。『王族でいる事が嫌になった』という言葉はアルディクにとって共感し得るものではなく、むしろ途方もなく傲慢なものに思えた。殆どの国民が一生足を踏み入れる事もない華やかな王都に住んでいて、見も知らぬ王族の為に闘う必要も死ぬ必要もなく生まれてきたというのに、それを嫌だと言うなんて。


「王都に帰りたくない。ここで普通の人間みたいに生きてみたい」


 彼の感情を逆撫でするような台詞を、幼い王女は真剣な表情で吐く。


「……普通の人間の暮らし、ってどんなもんか、わかって言ってるんですか」


 観客は、二人がいつまでも動かずに会話を続けている事を訝しんでいるようだった。姫君、剣をお振り下さい、という上官の声が響いたが、ざわめきの中、王女に届いたかどうかは判らなかった。


「? 解らない。解らないから、知りたい」


 王女のいらえは、アルディクの中の何かにぶつかり、破壊した。それは、決して王族に逆らうな、という理性の壁。必死で保ってきたもの。


「おまえなんかに! わかるもんか! 兄さんがどんな風に死んだか! 父さんがなんで足をなくさないといけなかったのか!」


 叫びながら、アルディクは剣を振り上げ跳んだ。どうせ訓練用の剣で王女を殺す事は出来ない。せいぜい可愛らしい顔に暫く消えない痣を作るのが精一杯。顔色を変えた上官たちが駆け寄ってくるのを感じる。ごめん、父さん、母さん。ごめん、兄さん。でも、我慢が出来ない……。たとえ激しい拷問の罰の上に処刑されるとしても……!

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