第69話・そして日常へ
帝人は暗闇の中にいた。
何も見えない。
何も聞こえない。
なんだ、ここは?
誰か、と声をあげて、そのあげた声どころか呼吸の音すら聞こえないのに気づいた。
……聞こえない。
呼吸の音だけではなく、心音すら!
脈に指を当てて、動いているのは確認できる。でも、耳に近付けても、何も聞こえない。
すん、と腕の匂いを嗅いでみる。涙でぐしゃぐしゃだったはずのスーツからも何の臭いもしない。
見えない、聞こえない、嗅げない!
(それだけじゃないわ)
声か、思念か、分からないけど、自分以外の誰かの感覚に触れようとした。一人じゃない、そう思って。
でも、その気配がある方に行こうとしても、気配は遠ざかる……いいや?
消えていく?
(ここは、わたしが逃げ込みたかった世界)
え?
こんな何もないところ、来たくないのに。ていうか、なんで自分がこんな所に?
(どんな苦痛や屈辱より、これがあなたには一番効くと思ったから)
くすくすと笑う気配。
(これから、あなたの感覚を奪う。一つ残らず)
か、感覚?
(そう。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚……。だけど、意識は残してあげる)
優しく告げられた言葉の意味を飲み込めず、続きを待つ。
(わたしが自分の中に作り出した、絶対安全な場所。ここをあなたに譲ってあげる)
譲ってって……どういうことだ?
(誰も入ってこない、焼かれたノートも、雑巾の匂いも、悪口も、押し付けられる煙草も、何も感じない場所。絶対安心な、わたしだけの空間)
絶対安心なら、怨霊からも逃げられる?
(ええ。でも、一度入ったらもう出られない)
え。
(こんな世界しか逃げ込める場所がない、という絶望を、思い知らせてあげる)
こ、ここに、一人で? 私一人で?
(ええ。この世界しか逃げ込める場所がないと追い詰めたのはあなた。つまりここはあなたの作った部屋。遠慮しないでいなさいよ。ここは晴屋も土門もない、何にもない世界だから、土門の刺客も来やしない。安心して、あなたのもたらしたわたしの絶望を思い知るといい。一生、ここで)
すぅ、と気配が消える。
待ってくれ、置いていかないで、こんな場所、耐えられない、誰もいない、誰も褒めてくれない、誰もへつらってくれない世界なんて。
だけど、もう何もない。
慌てて自分の頬を叩いてみようとしたが、腕が動く感覚もない。頬が叩かれる感覚も、叩く音も、何もない。
待って、助けて、二度と、二度としないから、助けて――!
その意識の絶叫に、触れてくるものはなかった。
◇ ◇ ◇
かくん、と力なく首を垂れた帝人を見て、影一は小さく息を吐いて声をかけた。
「殺さなかったのか?」
「死んだようなもの」
美優はあっさりと言い切る。
「何もない世界に、感覚を奪って放り込んであげた。光も闇もない、見えない、聞こえない、触れない、嗅げない、味わえない、何も感じられない、自分一人しかいない世界で、どこまで狂わずにいられるか……高みの見物とさせてもらうわ。……でも、土門の人たちが彼を引き取るっていうならわたしは別に構わないわよ。土門帝人の精神はもう粉々になるから。わたしはその様子を眺めて楽しむわ」
「こっわ」
思わず真司が呟く。
「わたしが怨霊だってこと忘れた?」
「いんや、覚えてる。俺も踏み外せば同じ世界へ真っ逆さまってことも」
「それだけ覚えていれば、いい」
クスッと笑う美優に、背中に寒気が走った真司だったが、踏み外さなければいいのだと思いなおす。
……美優が自分を一時的にでも許してくれたのは、自分の行動ではなく美優の気紛れが大きいというのはよくわかっている。この怨霊の機嫌を損ねずに自分は生きて行かなければならないのだ。
「じゃあ、わたしはしばらくあの女とあの男の様子を見て楽しむから、何かあったら呼んで?」
美優の姿は空に消える。
「いいんすか、放っておいて」
「構わん。必要な時に来てくれればいい。俺はそこまで束縛しない」
火傷痕は残ったけれど痛みは消えた腕をさすって、真司は頷いた。
「手伝え。この二人、病院に連れて行くにも土門に引き渡すにも、ここに転がしておくわけにはいかん」
「へーい」
影一は輝香の足を持ち、真司が頭を持って、車に押し込む。帝人も。
その時、輝香のスマホが二台、滑り落ちた。
輝香の武器。
「これも、壊しておくべきだろうな」
影一は符を二枚取り出し、口の中で小さく呟いてスマホの上に落とす。
符ごと、スマホが粉々になった。いや、
あれだけ美優や自分を苦しめたスマホも、きれいさっぱり消えてしまう。
「そういや……聞きたいことがあるんすけど。いや、答えられないなら答えなくてもいいんだけど」
「なんだ?」
「あの男があそこまで知りたがっていたこと……怨霊を操る極意って何か、気になって……」
「ああ、それか」
影一は表情を変えずに言った。
「簡単だ。俺もお前も、多分帝人も出来たこと」
影一はライトバンに乗り込みながら言う。
「俺もできる?」
真司も助手席に乗りながら答える。
「ああ」
影一はシートベルトを締め、正面を見て言った。
「怨霊の抱える恨み辛みを分かってやることだ」
「……人間同士の付き合いじゃ当たり前でしょそんなこと」
「怨霊は、その人間同士の付き合いに敗れて死んだ人間。恨み辛みを分かってもらえなかった人間だ。それを分かってやれば、怨霊は自然に従う。恩に着せるとも言うな」
「……それだけ?」
「それだけだ。契約すらあまり意味はない。怨霊が人間に恩義を感じたり、感謝したりすれば、味方してくれる。あんたも実際そうやって美優に助けられたろう」
「……そうなんだ」
「そうだ」
そこで、スマホが鳴る。
「真司、出ろ」
「はいはい……はい何でも屋ハレルヤです。何の御依頼でしょう?」
しばらく真司は聞いていたが、影一の方を見た。
「土門の当主って方が、肉体が生きてるだけなら譲ってくれないかって言ってきてるんすけど」
「ああ、店まで来てくれと伝えておいてくれ」
真司が答えてスマホを切る。
「さて、復讐依頼も終わった。また今まで通り何でも屋の仕事になるが、あんたはどうするんだ?」
「そりゃあ――」
真司は笑った。
「ヒモも年齢限界に来てたし、住み込みで働かせてもらえるなら飽きるまではこの仕事続けますよ。大原に見張られてもいる、うっかりしたことはできないっすから」
「分かった」
何でも屋ハレルヤ、と書かれたライトバンが、町の中心部に向かって駆け抜けていった。
完
ウラミ・ハレルヤ 新矢識仁 @niiyashikihito
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