後編
先日の大雨で土砂崩れが起きたようで、父と母は家に帰れない状態が続いていた。
父と母には、まだ健太の件は話していない。
健太がどうなったのか、生きているのか死んでいるのかも分からないのだ。
いいや、生きているに決まっている。
健太を救い出すまでは、父と母には黙っておく。
どうせ、こんな荒唐無稽な話、聞いても信じてはくれないだろうし。
大雨から二日経ち、川もようやく落ち着きを取り戻したので、私は健太を探しに再び土手まで向かおうとしていた。
「これを持って行け」
祖父から手渡されたのは、祖父が畑仕事でよく使っている鎌だった。
「『
「……うん。ありがとう」
祖父から鎌を受け取って、私は走り出した。
泥で水が濁った川を見つけると、私は緩い坂を滑るように下って土手へと出た。
増水していた川はすっかり静まりかえっていて、さらさらと流れる水音だけが耳に届いてた。
健太の泣き声は聞こえない。
「健太! どこにいるの!」
ペンキで塗ったような青空の下、私の甲高い叫び声に応えるように、健太の泣き声が聞こえた。
土手を更に進んだ方角だ。
「絶対、お姉ちゃんが迎えに行くからね」
朝露で濡れた雑草と、ぬかるんだ泥を踏みしめて、私はあの子の声を追いかけた。
健太の泣き声は近くもあり遠くもあり、つかず離れず、まるで道しるべのように私を導いてくれた。そして、土手を進んでいくと、厚くて重い雲がずっしりと空に陣取り始めた。
近づいているという確信があった。
まだ朝方だというのに、まるで冬の夕方のように暗くなった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
使い古された鎌を握りしめて走り続けると、土砂崩れが起きた現場まで辿り着いた。
土砂は、土手を登った先の山から流れていて、道路と土手を塞いでいた。
これ以上は進めない。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」
まるで目の前で泣いているかのように、健太の声が聞こえる。
「卑怯者! 姿を見せろ! 健太を帰せ!」
土砂近くの川から、鋭い爪を持ったひれのついた濡れた手が現れ、べちゃりと泥に叩きつけられた。
のっそり。
と水滴をこぼしながら現れたそれに、私は息をのんだ。
身長は低く、私より明らかに小さい、低学年の小学生くらいだろうか。
全身が藻のような緑色に色づき、見開いた目はどんよりと暗い。突き出た小さな赤い鼻に、笑うように開かれた大きな口からは牙が四つほど見えた。
頭頂部だけは禿げたように薄い灰色で、そこから手入れをしていないような髪の毛がもじゃもじゃと生えている。
そして――――、腕に健太を抱きかかえている。
眠っているのか、大人しく腕に抱かれている。
はっきりと、この目で見ているのにも関わらず、目の前の存在が信じられず、私は立ち尽くした。
恐いとか、おぞましいとか、そういった感情は浮かんでこなかった。
むしろ……、かわいそうだと思ってしまった。
「……あなたが、どうしてそんな姿になってしまったのか、私には分からない」
私は鎌を振り下ろして言った。
ひゅんっ。
と風を切る音が鳴った。
それは、ひるんだように一歩退いた。
「友達が欲しかったの? だから、健太を奪ったの? それとも、赤ん坊だった自分を殺した意趣返しなのかな」
それは何も答えない。
ただ、苦しそうに、
「ぎぎっ」
と鳴くだけだった。
いや、泣いていたのかもしれない。
「でもね。あなたにどんな理由があっても、その子は私にとって大切な弟なの」
意思疎通ができているのか、分かるはずもなかった。
それでも、乱暴を働こうという気持ちは湧かなかった。
それが、あまりにも、哀れに見えたから。
私は鎌を地面に落とすと、両腕を差し出した。
「さあ、帰して」
それは、悲しそうな、寂しそうな表情で、おそるおそるといった緩慢な動作で、近づいてきた。
大事そうに、まるで宝物のように丁寧に、健太を私の腕におさめた。
「うん。ありがとう」
あれだけ厚い雲が退いていった。
一瞬だけ太陽を浴びたそれは、逃げるように川に飛び込んだ。
水しぶきが私の顔にかかり、それが飛び込んでいった先に目を向けたが、既にその姿はどこにも見えなかった。
健太はすぅすぅと寝息を立てて眠っていた。
川の中にいたはずなのに冷たくなくて、濡れてもなくて、健康そうなほっぺは赤く輝いていた。
「おかえり。健太」
*
その後、祖父は寺の住職に頼んで、川辺で供養を執り行ってもらった。
住職は祖父の友人で、事情を話すと納得したように、すんなり引き受けたそうだ。
あのかわいそうな子は、これで成仏できただろうか。
気がかりだが、それを知る術はもうないのだろう。
土砂崩れで塞がった道は、絶賛撤去作業中で、父と母が戻るのはもう少し先になるそうだ。
私は腕の中で抱っこした健太に、哺乳瓶でミルクを与えていた。
不思議と、二日も飲まず食わずだったはずなのに、健太の健康状態は良好だった。
これも、怪奇現象の一種だろうか。
ミルクを飲み終わった健太の上体を抱いて、背中を叩いてゲップを出させると、再び腕の中に戻して、そのぷにぷにのほっぺたを突っついた。
「あっ、あう、あー」
かわいい、かわいい、弟だ。
生きていてくれて、本当に良かった。
だからこそ、かわいい子供を口減らしのために殺さなければならなかった過去を振り返ると、やるせなくなり、川辺で出会ったあの子のことが、どうしても、忘れられなかった。
あの子の泣き声を追って 中今透 @tooru_nakaima
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