あの子の泣き声を追って

中今透

あの子の泣き声を追って

前編

「ハァ、ハァ、ハァ……」


 私は鎌を握りしめて走っていた。

 二日前の大雨で水かさが増していた川は、今はなりを潜め、穏やかなせせらぎが耳に届いていた。

 私は土砂で崩れて川沿いを塞いだところで立ち止まった。

 濡れた泥で足下が不安定な中で、私はまたあの泣き声を聞いた。

 甲高い声で、わめくように泣く、赤ん坊の声を。



      *



 先週のことだ。

 中学生の私は、まだ生後半月の弟をおんぶして川沿いを歩いていた。

 父と母は共働きで、祖父母は田んぼと畑で忙しく、夏休みの私は、こうして弟の世話を任されていた。

 昼過ぎになって、ミルクを飲ませても泣き止まない弟――健太をあやすために、おんぶをしながら土手を散歩していた。


 隣を流れる川の穏やかな音色が子守歌になったのか、弟はスヤスヤと眠りに落ち、私はさて帰路につこうかというところであった。

 ぽつ、ぽつ。

 急に現れた曇天が滴を落とし始めた。

 予報では今日は一日中晴れだったはずなのに……。

 不満げな私を余所に、雲は泣くように雨をまき散らし、洪水のように頭上に降り注いだ。


「ああっ! もう!」


 悪態をつく私に答えて、目を覚ました弟は再び泣き出したが、雨音がそれをかき消した。

 既にぬかるみ始めた土手を、濡れた雑草がふくらはぎを引っ掻くのをお構いなしに走り出す。


「えっ……!」


 何かに足を取られた。

 蹴躓いたとか、植物の蔦に足を引っかけたとか、そういうことではない。


 何かが私の足を掴んだのだ。


 顔を足下に向けると……、


 頭頂部が禿げたが、川から上半身を出して、私の足を掴んでいた。


 ギョロリとした目玉、小さな赤鼻、笑うようにうっすらと空いた口から覗く牙、薄い頭頂部を中心に生えた濡れた髪の毛。全身が濃い緑色の不気味な生き物。


「……っ!」


 入浴中にゲジゲジを見つけた時のような生理的な恐怖が迫り上がってきた。


 は川から這い上がって、さっと鮮やかな手品のように抱っこ紐を解くと、私の背中から落下した健太を器用に受け止めた。


「なっ……!?」


 その行動に私が抱いたのは、計り知れない激情、心が痛みを発する程の怒りだった。


「返せ!」


 は私の言葉に応えることなく、さっと身を翻すと、泥で濁った川へ飛び込んで姿を消した。

 弟の健太をつれて。



      *



 雨で田んぼ仕事を中断して帰ってきた祖父母に、弟のことと――、のことを話した。

 最初は信じてもらえないだろうと思ったが、祖父母は神妙な顔つきで口を開いた。


「この辺りにはな、その昔、飢餓の時なんかは生まれた赤ん坊を水に浸けて殺したという話が伝わっているんだ」

「……なにそれ」

「飢饉の時は、口減らし……、食べ物がないなら、食べる者を減らせば良いという考えのもとで、生まれた赤ん坊を殺すことがあったんだよ」


 あまりに残酷で、現代では現実味のない話に、私は唖然とするしかなかった。


「無論」と祖父は続けた。「きちんと供養はされたさ。しかし、十分に供養がなされなかった赤子の霊が、死霊となって留まることもあった」


 私は弟のことを考えた。

 に攫われた弟もまた、その死霊になるのではないかと恐れたのだ。


「ここいらばかりの話じゃない。口減らしのための赤ん坊を殺すのは、各地で見られたそうだ。石臼で圧殺して土間に埋める地域もあるらしい」


 飢饉で自らの赤子を殺す。

 それほどまでに追い詰められ、切迫した状況の中で、更なる悲しみを生み出す行為に、当時の人々が何を想ったのか。


「『死霊解脱物語聞書しりょうげだつものがたりききがき』という書物には、十七世紀に与右衛門の後妻が水殺した子供の死霊が、クヮッパ――河童と化したという話があったねえ」


 祖母の話を聞いて、私はあの時見た、あれの姿を思い出した。

 はたしか、頭頂部がまるで皿のようになっていなかったか。


「河童か……」と祖父は呟いた。「たしか、『大和本草やまとほんぞう』という十八世紀の本草書にも、河童は水中に人を引き入れて、出会った者の精神を昏倒させるとあったな」


 私はそのような話は、所詮、伝説・伝承の域を出ない作り話だと思っていた。

 とはいえ、実際にあれの姿を見てしまった今、もはや疑うことなどできなかった。


「しかし、哀れな話よ。供養されなかった赤子が、生きた赤子を攫うなど」

「そんなことより!」


 私は座布団から立ち上がった叫んだ。


「健太を探しにいかないと!」

「この大雨の中でか? この分だと川も増水して、二次災害になりかねん。雨が止むまで待つんだ。それに、もしかしたら、健太はもう……」


 深い皺の入った祖父の顔が、苦々しげに歪んだ。

 祖父の先の言葉は、言わずとも分かっていた。

 もしかしたら、健太はもう既に……、死んで…………。

 考えたくもなかった。


「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」


 突然、赤子の泣き声が、どこからともなく響き渡った。


「え……? どうして……? どこから?」


 たしかに泣き声は聞こえるのだが、どこから聞こえてくるのかは分からなかった。

 まるで空中を漂っているかのように、居間のあらゆる方向から聞こえてくる。


「……まるで、ノツゴだな。健太の霊でも取り憑いたか?」

「ノツゴ?」

「人に憑いて怪異現象を引き起こすものの一種だよ」


 祖母が祖父に代わって答えた。


「民間伝承の一種で、ノツゴに憑かれると、何もないのに足がもつれたり、恐ろしい叫び声を上げたり、あるいは……、赤子の泣き声が聞こえたりするそうだよ」

「……私に取り憑いたって、それじゃあ……」


 祖母の言葉に、私は恐ろしい仮説が頭に浮かんだ。

 健太の死霊が、私に憑いたという――――。


「生き霊かもしれんぞ」

「え?」


 祖父の言葉に、私は耳を疑った。


「健太の『生きたい』という生の渇望が、生き霊となってお前に憑いたのかもしれん。もしかすれば、その声を辿っていけば、健太のいるところに辿り着けるやもしれんな」


 祖父の心強い言葉に、私の揺れていた心は静まっていった。

 そうだ。きっと生きている。

 健太の泣き声が響く中、私はそう信じた。

 すると、泣き声は次第に弱くなり、そして消えた。

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