<第四章:アムネジア> 【05】
【05】
「逃げ回っていた時、色んな男の庇護下にいたのだが、妹の声1つで裏切る男が続出した。流石、ヴェルスヴェインの正統後継者といったところ。だからまあ、子をバンバン産んだ。如何な男でも、自分の血が胎に宿った女は裏切れん。自分の半身であるからな。あれは、その誰かの子だ」
頭が痛い。
頭蓋が割れるような頭痛を感じた。
「妾の急激な再生も、同じ血が原因だろう。この鎖さえ解ければ、受肉し再誕できるやもしれん。次こそは妹に復讐を果たそう」
「生きてるのか?」
何とか、その言葉を吐く。
「生きてはおらん。最後は、男に裏切られて背を刺されて死んだそうだ。戦士の死に方ではない。笑える人望だね。しかし、血は残っている。それを滅するまで、妾は何度でも復活する」
「………で?」
頭痛が酷い。
頭の中から別の生物が出てきそうだ。
「貴様の記憶を覗いた。あの【獣の王】が乗る気でない以上、妾たちだけでどうにかするぞ。先ず、貴様の女をここに呼べ。妾が食い殺す」
「あ?」
「あれは幻だ。胎の子も含め、貴様の夢でしかない。思い出せ、貴様の女はとうの昔に――――――」
「黙れぇぇぇぇぇぇぇぇええ!!」
吐くように叫んだ。
潰された死体がフラッシュバックする。いいや、それはすぐ消えた。そんな悪夢など存在しない。
「女々しい男だなぁ。思い出せ、貴様はなんの感情を元手にここまで来たのだ。その名を思い出せ。忘れるな。過去の過ちは、絶対に変えられないのだ。塗り潰すか、食い殺すしかない。怒れ怒れ、穏やかな夜など存在しない。いつだって人の世を動かすのは激情だ」
俺の頬を血が伝う。
忘れていた感情が、血涙と共に溢れ出ていた。
「フィロはッ、死んでいない! この本の内容が悪夢だ!」
「妾は本の話などしてない。貴様も違和感の正体には気付いているだろ」
手にしていた本を、俺は忌々しく投げ捨てる。
「違う。あんなことがッ、あってたまるかッッ」
「どれだけ嘆こうとも、あったことだ。10年それを抱えて生きてきたのだろ? あと一歩だぞ。ほれ、怨敵は手の届くところにいる。奴は、貴様や、貴様の女の魂をしゃぶりながらニヤついた笑みを浮かべている。戦士なら戦え、戦って死ね。力を振るい一度でも誰かを傷付けたのなら、ベッドで死ねると思うな。さあ、思い出せ。己を奮い立たせろ。思い出せ。その名は」
思い出す名は、“復讐”だ。
世界が変わる。
暗い地下室から、灰色の空と岩の荒野へ。
空気も色も風も違う。俺の手には歪な剣。握り締めた手には血。
忘れていた感情と記憶が蘇り、その情報量で脳が一時停止する。
「どうしたの?」
その声で、思考と景色が歪む。
俺は、地下室に呼び戻された。
フィロが階段を降りてくる。
大きくなった腹を庇いながら、ゆっくりと。
「もう夜遅いよ。早くベッドに戻ろう」
差し伸べられた手に、俺は自然と手を伸ばす。
「ダメだよ」
誰かに腕を掴まれた。
「さあ、起きて。戦って。そのために、ここまで来たんでしょ」
獣の声じゃなかった。
フィロが、もう1人いた。
目元を隠したボサボサの赤い髪、着古した革の鎧、腰にはロングソードがある。
あの日のままのフィロがいた。
幻は一瞬で消える。
目を閉じ、目を覚ますと、目の前に広がるのは苔と岩。
本当にもう、覚めてしまった。
「………………良い悪夢だった」
衰弱した体を奮い立たせる。今だけ持てばいい。この戦いだけ持てばいい。胸を叩き、心臓を動かす。歯を食いしばる。細胞を殺意で満たす。
動け。
戦え。
激しい脈動が耳に響いた。
全身に激痛が走る。間違いなく、現実にいる証。
重たいロラの剣を肩に担う。
敵は――――――すぐそこで佇んでいた。
「何故、夢から出た」
緑炎を纏った巨大な獣が、疲れた男の声を吐く。
その全長は、夢で会ったロラよりも、あの子供の影よりも大きい。だが覇気を、生命を感じない。岩山や、彫像のような存在感。
「あの夢は、我からの褒美だ。哀れな英雄の最後を、幸福な夢で締め括る。こんな慈愛に満ちた神の奇跡はない」
言葉はいらない。
いるのは、血と剣のみ。
斬りかかる寸前に、剣が手の中から消えた。
「その剣は、我が母であり血肉である。貴様の物ではない」
拳を作る。
獣と同じ緑炎が右腕に集まり、
「その力も、我の加護だ」
散った。
「その名も、痛みも、栄誉も、歴史も、呪いすらも、全て我が用意した」
体から力が抜ける。
「貴様が持つものなど1つもない。最初から最後まで、全てが我の用意した筋書であり、供物を肥やすための餌だ」
体が鉛のように重い。
関節が錆びて固まる。
とてつもない疲労感に襲われた。息絶える寸前まで体が衰弱する。
なのに、どうしてか。
「我は、この英雄の墓場で数多の魂を集めた。英雄を慰めるために、看取るために、新たな英雄を導き、作るために。ここが貴様の終極なのだ。抗うことに意味はない」
ああ、どうしてか。
闘志が欠けもしない。
心臓の音はうるさいまま。血と殺意は滾ったまま。体は決して倒れない。
どんな強大な存在であろうとも、神でも悪魔でも、形を持った地獄でも、こいつだけは殺す。殺してやる。
「手向けとして見せてやろう。借り物ではない“本物”の英雄の力を」
荒野に夜が訪れた。
蛍に似た燐光が舞う。
光は獣の背後に集い、獣よりも更に大きく強大な骨の巨人となった。それが手にするのは、燃え盛る緑炎を宿した巨剣。
世界を斬り落とせそうな刃だ。
間違いなく英雄の力であり、確かに本物だろう。
俺の目の前に、小さな光が舞い踊る。
獣が呼び出し、集った者の中からこぼれた1つ。
光を手にすると、それは覚えのある重さに変化する。
使い古されたロングソードだ。
全長1メートル。切って良し、突いて良しの直剣。最も頼りにしていた冒険の友。
短めの十字鍔に、片手でも両手でも扱える柄の長さ。刃は何度も研いだせいで、元より二割ほど痩せている。
ああ、重い。
何度手にしても尚重い。
最後の最後まで軽く感じることはできなかった。
全身全霊を持って剣を両手で握り締め、背負う。
剣の重さは肉に食い込み、体が沈む。だが、この重さがあれば、俺に斬れないものはない。
「魂の1つが味方したか。………それがなんだ? そんな剣1つで何ができるのだ? その程度の力で何かを成せるのなら、人は英雄など求めない。貴様はもう砕け散れ、夢見ることもできない英雄の“なりそこない”」
巨人が剣を振り下ろした。
あまりにも大きいせいか、ゆっくりと近付いてくるように見えた。
アリとゾウより酷い圧倒的な質量差。
巨剣が近付くだけで、地鳴りと強風が巻き起こっていた。
今更、言葉など必要ない。
だが、神に言っておきたいことがある。
「俺の最初の2つ名を知っているか?」
剣を振り下ろす。
真っ正面から、刃をかち合わす。
雷鳴と共に、巨大な火花が咲く。
炎と風を感じながら、荒れ狂う鉄の瀑布を斬り落とす。
「【巨人殺し】だ」
左腕を掲げる。
空から燃える刃が落ちて来た。小山の如きサイズ、凡人であるなら潰れて消えるのみ。
だが俺は、それを俺は片手で掴んだ。
衝撃と重さで全身の骨が歪む。肉が潰れ、血を吐く、左腕が刃の残り火で焼ける。左上半身も、顔も、魂も焼ける。
だとしても俺は、まだ生きている。
「ハハハハハッッ!」
爆笑してやった。
踏み締める大地が、重さに耐えきれず砕けた。
バランスを崩しながら、俺は巨人に刃を投げ付ける。流星のように飛んだ刃は、巨人の首を刎ねた。
巨人は、無数の蛍火に変わり散る。
俺は、もう一度剣を背負った。片手で、しかし殺意を極限まで研ぎ澄まし、静寂の中、英雄のように飛んだ。
「貴様が――――――」
サンッ、と。
白刃が世界を斬り裂く。
両断された獣と共に、何かが割れる音を聞いた。
意識とは別に、俺の体が倒れた。
ロングソードの金属音が涼やかに響く。
体が動かない。指一本動かない。うるさかった心臓の音が、小さくて聞こえない。
奇跡のタネ。
恐らくは、蛇の力だ。
あいつには、英雄に対しての特効があるのだろう。もしくは、あいつから借りた力のどれかが原因か。
それは曖昧だが、もう1つは確かなもの。
「フィロ」
「終わっちゃったね」
俺の手を取る赤毛の少女だ。
目が霞んでよく見えないが、間違いなく傍にいる。
「全部終わったよ。………ああ、疲れた」
「お疲れ様」
髪を撫でられる。
穏やかな睡魔に襲われた。目を閉じたら、もう目覚めない眠りに落ちるだろう。
悔いはない。
やれることは全部やり切った。なにものでもない異邦人にしては、十分な成果だと思う。
「俺は、お前と同じ場所に行けるのか?」
「行けないよ」
「そうかぁ」
異世界にも地獄はあるようだ。
曲がりなりにも神を殺したのだ。当たり前か。
「少し休んだら、君は立つんだ」
「もう立ち上がれない」
そんな力は残っていない。
「そんなことはないよ。君はまだ頑張れる」
「………無理だ。本当にもう動けない」
「でも、帰る場所はあるでしょ?」
「………………ああ」
「待っている人もいるでしょ?」
「………ああ」
「ボクが君を助けたのは、神の意思なんかじゃないよ。ボクが助けたいから助けた。一緒にいたいからいた。それだけのことなんだ。それだけのことで、君はここまで来れた。君は強い人だ。ボクが保障する」
「フィロ。お前が恋しいよ」
「他に女ができても?」
「できても」
「彼女さんと奥さん、胸大きいよね」
「大きいな」
それはそれ、これはこれ。
「ボクのことなんか、すぐ忘れちゃうでしょ」
「一生忘れない」
「忘れていいよ」
「忘れないさ」
「忘れて、自分の人生を生きて、それがボクの最後のお願い」
「嫌だ」
「今すぐは無理でも、少しずつ忘れて。君がおじいちゃんになって、人生に満足して死ぬ時にでも、また思い出してくれればいいよ」
「無理だ」
「無理じゃない。この傷は、きっと誰かが癒してくれる。死んだ人間じゃなく、生きた人を見てあげて」
「お前は、今ここにいるじゃないか。ずっと傍にいてくれたじゃないか」
「ボクが君の傍にいたのは、君の人生のほんの一瞬だよ。君の人生はまだ続く」
「………続くのか」
こんな苦しみが。
苦しみばかりが………………………………違うな。
良いこともあった。
フィロを忘れたのも、一度や二度じゃなかった。
「さあ、立ち上がって。君が言っていたじゃない。『家に帰るまでが冒険』だって」
フィロの輪郭が光る。
二度目の本当の別れの時だ。
「………………」
声が出ない。
次の言葉が、別れの言葉しかないから。
フィロの顔はもう見えない。それでも彼女が笑っているのは理解できた。
「さよならだね。良かった。今度はきちんとお別れできそう」
またいつか、どこかで、漏れかけた女々しい言葉を、血と共に飲み込む。
最後くらい恰好を付けたい。
「さよならだ、フィロ。本当に心から、俺はお前のことを――――――」
「言わなくてもわかるよ」
フィロは消えた。
風が1つ吹いた。
何にも妨げられない風だ。
終わり告げる風だった。
俺は、夢に落ちる。
もしくは、長い夢から覚める。
………
………………
………………………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
長く何もない夢を見て、再び目覚めた。
生きている。
呼吸をするだけで左半身から激痛が迸るが、俺は生きている。
目を開くと、岩肌が近くに見えた。
生き物の体温と呼吸も感じる。
蹄の音も聞こえる。
自分の状況に気付くには、しばらく時間が必要だった。
俺は、大きな馬の背に、荷物のように括り付けられていた。
騎手と、もう1人誰かの気配を感じる。
「おっ! 我が末よ! 奴がようやく目覚めたぞ!」
「子犬のように騒ぐな、御先祖。縊り殺したくなる」
「身内殺しの次は先祖殺しか? 全く、度し難い血筋だな!」
「貴様に似たのだろ。責任とって自害しろ」
「その程度でだ~れが死ぬか! 妾は、受肉したこの体で世をしゃぶり尽くしてやるのだ!」
「妄言を吐きたいのなら、もう少しマシな肉付きになってからにしろ」
「ほほ~ん。妾に興奮したか?」
「………どこまで遠く飛ぶか、また試してやろうか?」
「断る! 戻って来るのが大変だ!」
うるさいガキの声と、男の声。
「お前ら、誰だ?」
知っているような他人の2人。
「先ず、貴様が名乗れ」
「………………」
当たり前のことを言われ、俺はしばらく迷いながら名乗った。
「涼月だ」
本当の名を、ここからまた自分を始めるために。
<了>
オールドキングと顔のない冒険者 麻美ヒナギ @asamihinagi
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