それは、川魚の鱗のような雲が空を泳いでいる秋晴れの日だった。先日までじわりと汗をかく季節だったのに、今日は柔らかな日差しが庭にふりそそいでいる。腕の中でむずがっていた息子はやっと落ち着いたのか、今ではすう、すう、と細かく寝息をたてている。私はなるべく彼の眠りを妨げぬよう、風にあおられるように体を揺り動かしていた。山桃のような、すっきりとした甘い香りが彼から漂ってくる。深呼吸していたそのとき、静かに障子が開かれた。


「どうだ、寝たか」

御上おかみ


 御上は衣擦れの音もなるべく立てないようにしているのか、いつもよりゆっくりと歩いている。小姓こしょう吉良きらも、同じように抜き足差し足で御上に付き従っている。齢十七になる吉良はここ三年で背がぐんと伸び、御上の背を追い越しそうになっていた。

 御上は私のそばに座るやいなや、腕の中で眠る息子――八知やちの頬に指を伸ばす。指の背で頬を撫でると御上は満足されたのか、ふ、と微笑まれた。


「八知は腹がふくれて寝たか。忙しいやつだ」

「それが赤子の務めですから」


 八知は小さな唇をむにゅむにゅと動かしている。泣いたりむずがったりしているときは嵐のようだが、寝静まっている顔は春に咲く野花のように穏やかだ。


「それにしても、須原すわらは眠れているのか? 疲れた顔をしているぞ」

「大丈夫です、ときどき篠目ささめに八知の世話を任せていますから。それより、御上もお忙しそうで」


 御上の白い顔に、少しかげりが見えた。


「大事ない。唐納と空夜がうまくやってくれている。私は楽なものだ」


 笑って御上は答える。が、これは御上の悪い癖であることを、私は知っている。御上の背後で、怖い顔をしている吉良が何か言いたそうにしている。


「ほんとう? 吉良」

「御上は昨夜、丑三つ刻まで書物を読んでおられました」

「こら、ばらすな、吉良」


 夜更かししている御上が悪いのです、と吉良はたしなめる。主人と小姓ではなく、まるで兄弟のようなやりとりに、私は昔を思い出す。私もよく、無茶をしては幼馴染みに叱られた。まるで、私の兄のような人だった。私はそこで記憶をたどることを止め、御上に声をかけた。


「周辺国の使者のご訪問も立て続けですから書物を読むお時間もないのでしょうけれど、あまり無理なさらないでください」


 八知が生まれて三月みつきが経つが、周辺国の使者はいまだにやってくる。いつもの執務をこなしながら使者への対応も行わなければならず、かなり御上の負担になっているはずだ。私がお願いすると、御上はばつが悪そうに、うむ、とだけ返事した。この国を統べる御上なのに、こういうところは妙に幼く見える。思わずふふ、と笑みがこぼれた。私と八知を見つめる御上も、口元がほころんでいる。


「須原、今日は早く執務が終われそうなんだ。久しぶりに一緒に過ごさぬか」

「それは嬉しゅう思いますが……」


 最近は執務が忙しく、空き時間に足を運んではまた執務室に戻られることが多かったため、あまり御上と話す機会がなかった。それに、八知はまだまだ手がかかる。私が見ていないと、その小さな身体を震わせて、御所に響き渡るかと思うほど大きな声で泣くので、ひとときも目が離せないという日々だった。

 私をおもんぱかってか、部屋の隅に控えていた篠目が切れ長の目をさらに細めて笑う。


「須原様、今夜は私が御子様みこさまのお世話をいたします。須原様もお疲れでしょうから、久しぶりに御上とごゆるりとお過ごしになられてはいかがでしょう」


 篠目はもう長年御所に務めており、私が嫁いできたころから世話をしてくれている。自身も三人の子を育てているせいか、私よりもよっぽど子育てに精通しているため、八知を預けることに何の不安もなかった。


「そうね……。ありがとう、篠目。お言葉に甘えようかしら」


 私の返答を待ちわびていたかのように、御上は膝をぱん、とひとつ打った。


「よし。では私の方からまた迎えを――」


 突然、御上の言葉はけたたましい泣き声に掻き消された。腕の中の八知が急にむずがりだしたかと思うと、丸めた体から熱があふれ出すように泣き出した。私は慌てて八知をあやすが、泣き止むまでには時間がかかりそうだ。篠目は、新しいおしめを取りにあわただしく隣の部屋へ向かった。

 あまりの声の大きさに目を丸くして驚く御上の後ろで、吉良がふと零す。


「御上の言葉を遮れるのは、この国で御子様だけですね」


 その言葉に、御上と私は声をそろえて笑ってしまった。



 その夜は満月だった。私は御上と夕餉を共にし、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごしていた。御上は縁側に敷いた敷物に座られて、懐かしそうに、月明かりに照らされる庭を眺められている。整えられた草木も小さな川も灯籠も、昼とは違う顔を見せていた。以前ご自身の居室だったこの部屋は、今は私の部屋になっている。「庭の景色を見れたほうが、須原も気晴らしになるだろう」という御上の気遣いがあったからだ。山育ちの私は、この四季によって表情を変える庭を気に入っていた。


「いよいよ明後日だな」


 御上は、二人の間に置かれた盆から猪口をつまみあげ、ひとくち酒を召し上がる。


「八知のお披露目の儀ですね。御所の拝殿前の境内が開放されて、御上や八知の姿を見ようと民が大勢押し寄せると空夜様から伺いました」

「村の人々にも会えるのだから、須原も嬉しいだろう」

「ええ、久しぶりに父母の顔を見ることができます」


 御上のはからいで、わたしが生まれ育った村の人たちも呼ばれていると聞いた。嫁入り以来、村には帰ることは当然無かったから、三年ぶりに会えることになる。拝殿と境内では距離があるので言葉を交わすことはできないが、私の元気な姿を見せればみんな安心するだろう。

 そう考えていると、御上は私の顔を覗き込んだ。月光が落ちる真剣な表情に、私ははっとした。


「須原。今は寂しくないか?」

「え?」


 御上は私の目をまっすぐに見つめてお尋ねになった。御上の朝焼けのような朱の眼に夜が映り込み、夕方の山際のような色をしていた。


「私はずるい人間だ。おぬしが心からあの村の人々を愛していることを知っていたのに、どうしても私の隣にいてほしいと願ってしまったのだ。知らぬ土地で、知らぬしきたりのなか、知らぬ者の花嫁になることは、どれだけ寂しかったことだろう」

「御上……」


 御上に嫁いだあの日から、私は何一つ不自由しなかった。知らぬ土地の風景は四季が移り変わる度に美しかった。知らぬしきたりは、篠目や吉良や、周りの人々が嫌な顔ひとつせず教えてくれた。知らぬ者の――御上の花嫁になることは、このうえなく幸せなことだった。御上は、私の不安をひとつずつ丁寧に取り除くために、この三年、いつも隣で私に微笑みかけてくださった。八知という、かけがえのない珠のような息子も生まれた。これ以上、私は何を望むことがあろうか。これ以上、何を……。


 御上のひんやりとした手が、私の手の甲に重なった。骨張った手が、私の指を包み込む。流れが速い雲が月にかかり、御上の顔に影が落ちた。 


「名を呼んでくれ、須原。おぬしに名を呼ばれることが、私は何よりも嬉しい」


 私は御上の手を握り返す。ささくれの一つも無い、美しい手だ。畑を耕したことも、木を切り出したこともない、この国の民を優しく包み込む手だ。


「お慕いしております……朝陽あさひ様」


 名を呼んだ私の唇を、御上の唇がそっと塞いだ。私が発した音を、自分だけのものにしようとしているのかもしれないと思った。


 月よ。どうかそのまま雲に隠れていて。

 そう願わずにはいられなかった。



 お披露目の儀の日も、天高い秋晴れとなった。御所の拝殿の外からは、ゆるやかな風にのって、人々の賑やかな声がここまで届いてくる。八知も落ち着かないのか、私の腕の中で体をしきりに動かしている。


「篠目、八知は泣かないかしら? 泣いたらどうしましょう」

「大丈夫ですよ、須原様。短い時間ですし、隣に私も控えております。須原様と御子様の元気なお姿を民に見せてあげてくださいまし」


 篠目のふくよかな笑顔が、八知と同じように落ち着きのなかった私の心を落ち着かせた。それを感じとってか、八知も大人しくなった。

 障子の外に、見慣れた影が映る。「御上の御成りです」と吉良の声がした。障子が開き、そこには秋の儀式衣を召した御上がいらっしゃった。私は八知を抱きながら御上に頭をさげる。髪につけた花飾りが揺れた。


「その花飾り……懐かしいな、須原」

「覚えていらっしゃいますか」

「おぬしが嫁入りのときにしていたものだろう?」

「はい。本当は花嫁衣装に合わせるものですが、本日の朱い儀式衣にも似合うかと思いまして」


 嫁入りのとき、隣家に住んでいたおばさんが作ってくれた髪飾りだった。御上はそっと花飾りに触れる。その表情は慈しんでいるようでもあり、どこか哀しんでいるようでもあった。


「御上。須原様。そろそろお時間です」


 吉良の合図で、御上の表情が引き締まった。父や夫の顔から、この国を統べる者の顔になっていた。その表情を隣で見るたび、私は御上の花嫁なのだと思い知った。八知も緊張した周りの空気を感じたのか、あう、と一言発して御上の背中をじっと見ていた。


 朱く塗られた拝殿の扉の前に立つと、その向こうの人だかりが肌や耳で感じられるほどになっていた。御上は人の前に立つことに慣れているが、私はちっとも慣れない。跳ねている心臓の鼓動で八知が驚きませんように、と心配するばかりだ。


 からんからんという鐘の音が鳴る。お披露目の儀の刻になったようだ。拝殿の外で、警士けいしが口上を述べているのが聞こえる。それにあわせて歓声があがているようだ。御上は、緊張している私の耳もとでささやいた。


「おぬしの村の者たちは向かって左手前に場所をとっているそうだ。手でも振ってやりなさい」


 御上の心遣いに、胸がきゅっとなった。嫁が故郷に思いを馳せるなどいい気はしないだろうに、私のことを想ってくれているのだ。自由なようで、この国の誰よりも耐え忍んでいる彼を、私はこれからもそばで支えていけたらと思う。


 警士の口上が終わり、再び鐘の音が響く。複数人の警士が、いっせいに朱色の大きな扉を開いた。風が通り抜けた。

 目の前には、広場を埋め尽くす人波が広がっていた。みんなそれぞれ手をあげたり振ったり、歓声を上げたりしている。御上は右手を挙げ、歓声に静かに応えている。八知は驚いているようだが、その小さな眼で人々のほうを見つめている。

 私は左手前の列に視線をやっていた。手前といえど、私たちからの距離はかなりある。八知を抱き締めながら、歓声が響くなか必死で目をこらして探した。


 ふと、目に留まる背格好があった。父様と母様だ。いつしか見せてくれた一張羅の藍の着物を着ている。母様は泣いているようだ。父様が母様の肩を抱き、もう片方の手を大きく振ってくれていた。八知を抱いているので手は振れない。私はうなずいて応えた。


 その後ろに、ひときわ背の高い人が立っているのが見えた。その人は手も振らず、歓声もあげずにたたずんでいる。

 どくん、と心臓がひとつ大きく跳ねた。


月裳つくも


 私の声は、隣の御上にすら聞こえなかっただろう。それくらい小さく、口からその名が零れ落ちた。全身が粟立あわだつ。月裳は背が伸びたのか、父様よりも頭一つ分大きくなっていた。

 月裳は手も振ることなく、ただ静かに私のことをじっと見つめていた。熱気に包まれたこの場所で、月裳の周りだけが静寂に包まれていた。

 月裳の唇が、ふいに動いたように見えた。私は無駄だとわかりながら、必死に耳を澄ます。大きな歓声に掻き消えて、月裳の声は聞こえない。もう私には届かない。


「御上万歳! 御子様万歳!」


 観衆の声に、私の思いが埋もれていく。不意に、涙が流れた。顎を伝った涙は八知の頬に落ち、八知が大声で泣き始めた。

 

 雨とは無縁の、どこまでも広く高い天に、御上を讃える声が響き渡る。

 私は、御上の花嫁としてこれからも生きていく。



   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

御上の花嫁 高村 芳 @yo4_taka6ra

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ