後編
次に気がついた時は、あまりにベタすぎて笑っちまうようなシチュエーションだった。場所は狭い穴ぐらのような、窓が全くない部屋で、俺はすっぽんぽんになっていた。あろうことか、手術台のようなところで大の字に固定されていたのだ!
「いや、ちょっと、これは」
思わず声を上げると、ドアからこれまたいかにもな手術着姿の面々が現れた。ゴム手袋をして、消毒済みの両手を掲げた、すぐにでも「オペを開始する」とか言いそうな人々である。なのに、頭にはまたしても穴あき買い物袋。こいつらには衛生管理への理解が欠落している。
「おい、待ってくれっ。責任者と話をさせろっ」
「私だが」
一人が言った。同じように買い物袋を頭にかぶってはいても、こちらは背広姿で、やや恰幅のいい体型。手には葉巻。手術室の中で色々と突っ込みたいことはあるけど、まずは確認だ。
「聞かせてくれ、六十億の期限はいつだ?」
「日本時間で三日後の深夜だ」
意識的に淡々と声を出しているような、そんな発声だった。
「なら」
「だが、銀行の手続きとかあるし、何より君の内蔵を今から高値で売りつけて契約を成立させねばならん。結構忙しいんだ」
「な、内蔵!? 腎臓片方とかじゃなくて!?」
「内蔵全部。ついでに心臓とか眼球とか骨とか、使えるものは全部。ええと」
そこでなぜか葉巻男はメモを取り出して、その先を棒読みで言った。
「"くっくっく。貴様のような金一つ返せんクズの体が、世界中の病気の人々の役に立とうというのだ。光栄に思うことだなっ"」
「……すみません。なんで棒読みなんですか?」
はあーっと深く息を吐くと、男(まあ間違いなく男だろう)は肩を落とした。
「いや、私だってこんなことしたくないんだよ。……キツいんだよ、こんな展開は結構。せめて悪役の振りでもしないと」
めんどうな人のようだ。もっと「金が全て」的な人ならストレートに話が進むんだが。
「でも、この家と土地も抵当に入ってるし……娘がまだ……小さいんだ。私は、あの娘のためなら、あえて悪魔にっ」
「いやちょっと、はっきりさせましょうよ。俺の臓器売って、いったいいくらになる予定なんですか?」
「んーと、うまくいけば十億程度かなあ」
「そんなに? いや、俺が言うのもなんですけど、なんか高すぎません?」
「うん、そこは
「え、病気の人のためって話は」
「ああ、それはフェイク。そういうことにでもしておかないと、私も気が滅入ってね」
よく喋ってくれるんだが、表情は陰々滅滅としていて、おまけにやばい事情らしい。俺はさしあたっての問題に話を集中することにした。
「あの、とにかく六十億には足りないわけですよね? あとはどうするんですか?」
「……どうしよっかなあー」
途端に、泣きそうな声で身を震わせるお父さん(多分)。しかしほんとにやりにくい相手だな。
「あのっ。あなたもトレーダーなんですよね? なら、分かるでしょう? 俺、今現在いくつか
「どれぐらい?」
「いや、それはチャートを見てみないことには」
実際には、十億にすら遠く及ばない金額なのは分ってる。でも、とにかく時間稼ぎになれば。あるいは、俺に稼げる能力があることを証明できれば、今日のところは利子分だけの支払いでよしとしてもらって、先につなげられるかも。
だが、あのタカヤをしてヘボトレーダーと言わしめたダメな投資家は(まあこの人がその本人で間違いないだろう)、期待を裏切らず、優柔不断だった。
「いやダメだ! そんなこと言って、ベルトを解いた途端、私を殴って医師団も蹴り倒して逃げるつもりだろう! そうなったら! この家は、私の家族は、娘はぁぁぁぁ!」
「じゃ、ベルトこのまんまでいいから、パソコン持ってきてくださいよ! 話はそれからで」
「ぬっ、そ、そのパソコンに、いったい君はどんな細工をっ」
「何ができるってんですか、こんなハダカで大の字のまんまでっ!」
「ご主人様、お取り込みの最中ですが」
唐突にクールな声が戸口から聞こえて、俺とヘボ氏は首を振り向けた。アパートの部屋にやってきた紳士服だ。依然こちらも買い物袋をかぶったままだが、執事か何かだったんだろうか。
「お耳に入れておこうと思いまして。午後からマーケットが大荒れになっております。あるいは、トレード的にチャンスかと」
一瞬、呆けたような戸惑いがヘボ氏からにじみ出たのを感じて、俺は先手を打った。大声で紳士服に命令したのだ。
「見せてくれっ! 商品先物のチャートだっ! 今すぐ!」
気圧されたわけじゃないだろうが、紳士服は慇懃に一礼すると、すぐに大型タブレットを俺の頭の上に掲げてきた。ひと目見て唖然とした。こんな動きは。信じられない。また新しい宇宙人がやってきたとでも言うのか?
だが。
――大底は今日の十五時ゼロ分。信じて
ナノミがこれを予測して? そうかもしれない。そうではないかもしれない。
でも、信じて賭けるのが、この場は正解のはずだ!
うおおおおおっと声を上げて四肢に力を入れる。ただ気合を入れただけだったんだが、ベルトはあっさり引きちぎれた。安物だったんじゃないか、単に。
「ひいいいいいっ」
ヘボ氏がパニックを起こして飛び退った。煽りを食って、医師団の何人かがひっくり返った。哀れにも、彼らは未だに両手を掲げたままのポーズで、主人の命令を待っていたのだ。
「あー、みなさん、ここは俺がなんとかできると思うんで……下がってもらっていいですよ」
手術台の上であぐらをかき、受け取ったタブレットを抱え込んだ姿勢で、俺は言った。どうやら逃げるでもなく、本当に先物トレードをその場でやりそうな様子を見て、医師団達も安心したらしい。主人の指示も待たず、ぞろぞろとその場を去っていった。
後には、ひっくり返った姿勢で目を見開いたままのヘボ氏と(袋をかぶっていても目つきは分かるもんだ)、いくらか期待の空気をまとわせながら俺の横に佇んだままの執事。
時刻は十四時四十分。俺がちょっとした思いつきで金属系の先物を売ったのが、正午過ぎ。
わずか二時間半ほどの前の話だが、なんと、商品先物の価格の多くが、七十から八十パーセント下落している。
あり得ないことだった。一年間がかりでも、複数の銘柄がここまで下がることはない。戦争が起ころうが、大津波が起ころうが、こんな数字は出ない。むしろ上がる。
「この相場の理由は?」
いちいち調べる時間も惜しくて、執事に聞いた。
「おそらく、これかと」
執事が自分のスマートフォンを差し出した。わざわざ用意してくれていたのか、ひと読みで事態が分かるニュースサイトの画面だった。
ワテラノン・ショック、再び
本日午後一時十五分、国連を通じてワテラノン通商部から電撃的なアナウンスが発せれた。それによると、ワテラノン通商部は、両星の親善の証として、地球科学の十世紀先を行く素粒子操作技術を供与する用意があるとのこと。この技術は、電子・陽子・中性子の配置を自在に操るもので、実現すれば、中世の錬金術師のごとく、鉄から金や銀、あるいはウランやプラチナなど、望む元素を必要な量だけ生成することが可能。資源問題の全てに終止符を打ち、エネルギー問題も抜本的な解決が期待できる、夢のテクノロジーである。
とんでもない話だ。
今後は金属資源を求めて、莫大な手間とエネルギーをかけて鉱山を掘り進める必要もない。
金属資源系の商品先物が大暴落するわけだ。
ニュースの続報によっては、暴落幅はさらに広がる可能性だってある。プラチナの価格が紙並みになる可能性すら予想できるのだから。でも。
――大底は十五時。
ここから折り返す、というのか? 下げ止まると?
これはまたあり得ない、と思う。いったい誰が売りを止めるのか。誰が買いに走るというのか。
――信じて。
「執事さん、ちょっとニュースのチェック頼めますか? 経済系の大きなのが入ってきたら、すぐ知らせて下さい」
「仰せのままに」
時刻は十四時五十三分。すでに俺は、使いつけている契約先の証券会社の自分のページにログインしていた。ここで大反転があるなら、正午過ぎに作った売り
問題なのは、仮にここで大反転があったとしても、同じ枚数を買いに替えただけなら、なお六十億には遠く及ばないということだ。ではどうするか。
買いの枚数を三十倍にすればいい。
これは株ではない。先物だ。株価は二万円が三万円になっても一倍半の価値になるだけだが、たとえば指数先物で日経平均が二万円から一挙に三万円になったら、どれだけの儲けになるか、ご存知だろうか?
なんと、十三、四倍である。
商業先物の場合、その利幅はさらに大きい。しかも、今日は八十パーセントの下落幅。俺が正午に作った売り玉の多くは、まもなく元の証拠金の三十数倍に利益が膨らもうとしていた。
正午の時点での全資金は、およそ八百万。それが今の時点で、そろそろ三億に届くぐらい。
ここからあと二十倍ちょっとにできれば――。
「ニュース、何かありました?」
「いえ」
十四時五十七分。動きがおかしい。依然売りが優勢だが、どこの銘柄も微妙にスプレッドが開いていってる。極度に緊張した様子見の局面だ。
ニュース以前の何らかの動きを、トップトレーダー集団がつかんでいるということだろう。記者会見の動きが出ている、あるいは、匿名筋から売買を手控えておけとの天の声が降ってきた、そんな状況。
今しかない。ここで買う。
全決済。全ての売り玉を現金化。自己資金総額を確認。正午時点との資金比に合わせて、金属資源系の全銘柄に買い注文の枚数を入れていき、
チャートのてっぺんがふわっと動いた。事実上の世界標準であるシカゴ先物、そのチャートがわずかに揺れるほどの買い注文を、俺は今入れた。
もしここで大暴落が続いたら、今度こそ破滅だろうなと思う。こんなトレードは絶対にやっちゃいけない取引だ。
十五時ジャスト。スプレットがやや狭まってきた。再び動き出そうな気配。
一瞬、チャートがぐんっと沈んだ。すぐに戻したが、最安値は更新している。再暴落か?
――信じて。
信じる。信じるけれど、目の前の事態には対応しなきゃならない。このまま落ちるんなら、買いをただちに損切り。場合によってはそのまま再び売り注文。
指先だけは、いつでもタップできるように。息も忘れて、ただチャートの先を睨みつける。
一瞬、カーソルが目の前から消えた。
値の表示がどこにもない。いや、そうじゃなかった。あまりに急な動きで、画面の書き換えが間に合わなかったのだ。
チャートはゼロ秒で吹っ飛んだような値動きを示していた。遥か上に。上空三万メートルの高みに翔んだかのように。
そのまま成層圏を突き破る勢いで、ぐんぐん
何が起こったのかは知らない。でも、確かに大底は過ぎた。
「こんなニュースが」
執事がうやうやしく画面を差し出してきた。時計を見ると、十五時三分。
経済フラッシュニュース(続報)
ワテラノ星通商部の続報によれば、「十世紀差のある技術を二十一世紀中に地球へ移植するのは無謀すぎる」とのこと。先だっての発表は、あくまで超長期的な視座での提案であり、素粒子操作を試し始めるのは、地球では「早くても二十四世紀になるだろう」。
ほうっとため息が出た。確かにこれは、惑星規模で資源相場が大振動するようなトピックだ。
もう二度と、こんなチャートを目にすることはないだろう。そう思うと、ちょっとだけ惜しいような気がする。
もっともっと続けていたい。いつまでもこのまま発注画面を覗いたままでいたい。儲けとは全然関係なしに、そう切実に思いたくなるトレードがある。まあ、今日のこれはいささか力技に偏り過ぎだろうが。っていうか、こんな出来レース、反則だよ。
「ええと。ご主人」
状況は何となく分ってるのだろうけれど、なおもぼーっとしたままのヘボ氏を横目で見て、声をかけた。
「六十億お返しすればいいんですよね。まさか現金を引き出せとか言わないですよね? 振込先の銀行と話をつけてもらえませんか? 俺の口座から、必要なだけ持っていってくれと」
「ろ、六十億が……できたのか?」
「もうすぐ届きます。さらに半月ぐらい待ってもらえるんなら、八十億ぐらいになりそうですけどね……今日中だと、まあぎりぎりですか」
いくら下落の理由が帳消しになったからと言って、即日元値まで上がるという保証はない。現に、十五時十分を過ぎたところで、それまで猛烈に突き上がっていたチャートに、小休止のような動きが出ている。元値の七十五パーから八十パーあたりだ。この辺は、銘柄によっては
もしかしたら、これからロンドン、ニューヨークと市場が開いていくに従って、いっぺんまた底値に向かったりするかも知れない。中期的にはほぼ間違いなく今日の正午価格に戻るだろうと予想できるのだが、それがいつになるのかは読めない。
(全決済、と)
俺の資金総額が何とか六十億と六十一億の間あたりに届いた瞬間を狙って、俺は全てのトレードを終えた。資産一覧のページを出して、タブレットごとヘボ氏に差し出してやる。ヘボ氏の指先は震えていた。
「おお。おおおお。これで、救われた。なんとありがたい――」
そのまま床にうずくまって一昼夜号泣し続けそうな雰囲気である。そういうのも苦手なんで、慌てて俺は執事さんに不要不急の話を振ってみる。
「えーと、あの、俺の服、そろそろ返してもらえませんかね?」
その時ももちろん俺はすっぽんぽんのままだった。鷹揚に頷いた執事氏が部屋を出て行きかけた時、ヘボ氏の胸元で呼び出し音が鳴った。彼の個人用ケータイのようだ。
「はい。……ええ、はい。たった今。完全に六十億でございます」
どうやら上役か司令塔がいるらしい。このヘボ氏、呆然としたふりをして状況報告は発信していたのか、それとも執事が連絡していたのか。
「はい。ええはい。そういうことで。……えっ!」
感涙をしたたらせながら話していたヘボ氏が、急にショックを受けたような声を発した。
「いや、それは……その、あまりにも」
なんだろう。また何となく雲行きが怪しくなってきたような。
「いや、ですが。……いや、しかし」
さかんに逆説を連発するヘボ氏。なんだか心底から不本意な指示に抗弁しているようにも見えるが。
さんざん同じような言葉を繰り返してから、ようやくヘボ氏は言った。
「分かりました。……そこまでおっしゃるのであれば」
ケータイを切ったヘボ氏は、俺の顔を見なかった。最初会った時にそうしていたように、努めて抑揚を表に出さないように、世間話のような口調でこう告げた。
「すまないが、君をこのまま帰すわけには行かなくなった」
聞いた瞬間にげんなりする。こう言った以上、この先のセリフは決まっている。
「君は私達の内部情報に触れてしまった。……生かしておくわけにはいかない、と……指示があって……申し訳ない」
最後のは本心なんだろうが、結局死ぬことに変わりはないと思うと、全然共感できたもんじゃない。こういう場面でドラマのキャラが「偽善者めっ」とか叫ぶ気持ちが分ったような気がした。
「本当に、申し訳ない。……やってくれ」
背中越しに執事に命令するヘボ氏。俺はと言うと、なぜかそれほどでもなかった。親父がうんざりするほどの借財残して死んで、仕方なく俺が先物の負けトレードを引き継いで、なんとか引き分けに持ち込んだ時も、そういえばこんな気分だったろうか。誰もほめるやつなんていない。でも、俺は全力を尽くした。それが勝ちに転べなかったのは、紙一枚の運がなかったからだ。
そう、運がなかっただけ。
ああでも。
もう何日か、一緒にいたかったか、かな――。
こちらも申し訳なさそうに、執事氏が古風なリボルバーを俺に向けた。俺は動かなかった。逃げるには色々と体勢が悪すぎるし、疲れ切ってもいる。
「できれば楽に死にたいんだが」
「仰せのままに」
撃鉄が動いて、シリンダーが回るのが見えた。ゆっくり目を閉じる。
突然、ぎゃりっとした何かを断ち切るようなノイズが響いて、直後、鼻と耳に強烈な陰圧が掛かった。そして雷のような轟音。猛烈な砂ぼこり。
目を開けた俺は、咳をしながらあっけにとられた。壁の一面がトーストを薄切りしたみたいにまるまるカットされて外側に引き倒されていた。もうもうとしたほこりを通して、日が傾きかけた庭園の風景が丸見えになっている。そこに居並んでいたのは、なんだかすごい装甲服を身につけた兵士の一団。直訳すると「宇宙戦争」になるあの映画の、帝国軍部隊そのまんまみたいな連中が十人ぐらい横並びで、ライフルっぽい銃器を構えている。
手術台の上であぐらをかいたすっぽんぽん姿のまま、俺は両手を上げるしかなかった。と、一団の真ん中が割れて、さらに高級そうな装甲服の配下を引き連れた、こちらは華やかな将校服の未来版みたいなのを着た人物が、つかつかと俺達に向かってやってきた。
ふわっとしたセミロング。ちょっと眠たそうな黒目。どうも女性らしい。
「そこの服着てる二人。動いたらあかん。今電話してた相手のこと、全部喋り。命だけは助けたる」
なんで関西訛り。これじゃまるで……と思ったその時、横にいたおっさん二名が、無謀にも漆喰のかけらを振り飛ばしなから、建物の奥へ走り出した。
再度の警告はなかった。帝国軍部隊が一斉に長物を構え、なにかエネルギーの塊みたいなものが瞬時に放射された。ぎゅいーんという音が空間いっぱいに響き渡る。体が丸ごとびりびりした光の網にめり込んだような感触。俺は指一つ動かせないまま、なんだか訳のわからない刺激に耐えきれず、大声を上げて。
そのまま真っ白な虚空に意識を飛ばした。
気がついたら、俺はどこかの病室らしき部屋のベッドの上だった。ベッドとイスとサイドテーブル以外何もない、シンプルな空間だったが、なんとなくレベルの高い病院の、値の張りそうな個室、というイメージだった。
数日分の新聞が置いてあったので日付を確認すると、あれから丸三日が経っていた。俺の事件のことは、少なくとも全国紙であるその新聞には一行も載っておらず、何らかのもみ消しが行われたことは明白だった。
商品先物のむちゃくちゃな動きについては、さすがにでかい記事が出ていた。思わず長文の記事を読みふけっていると、ノックの音がして、二人の人物が入室してきた。一人は医師で、もう一人は外務省ワテラノ部の大曽根、と自己紹介した。
医師は俺の容態を簡単にチェックして早々に退室した。間を置かず、大曽根氏が慎重な口ぶりで俺に語りかけてくる。
「記憶は確かかな? 全部覚えているんなら、だいたいのことは察しがつくんじゃないかと思うんだが」
「……すいません。未だに何がなんだか」
そこでようやく、一切合切の説明を受けることが出来た。
まずは、俺が解剖されそうになった一件について。あれはもちろん病気の人たちを助ける国際プロジェクトなどではなく、単純な臓器売買ですらなかった。なんと、ワテラノ星人が地球人の生体標本を闇輸入しようとしていたらしいのだ。
大曽根氏が明言したわけじゃないが、どうもワテラノ星人というのは、世間的に報道されているよりもずっとやんちゃなようだ。科学技術こそ進んでいるものの、普通に犯罪組織もあれば、グレーな商売もブラックなビジネスもある、らしい。
「ファーストコンタクトからものの三ヶ月で、地球側のシンジケートともしっかり結びついてる。有り体に言えば治外法権の大集団だから、あらゆる悪巧みがやりたい放題ってことだ」
「んなむちゃくちゃな。警察も手が出せないってことですか?」
「まあ、少なくとも表向きはねえ」
「じゃ、どうするんです?」
「そのために、君の彼女のような存在が必要だったというわけさ」
そう、バカをやる宇宙人がいれば、取り締まる宇宙人もいるわけで、ナノミはまさにその立場だったのだ。このへん、今ひとつよくわからないんだが、彼女は二百何十人かいる王女格の一人で、お姫様というのも地球人的には間違いではないとのこと。
それがなんで俺の部屋でネットトレード三昧していたのかといえば、それで立派に経済犯罪の調査になっていたそうだ。地球の金融活動を末端の立場から俯瞰する、いい経験になったとのことだった。
「と、外務省宛ての説明ではそうなっている。君たち二人の間にどんな経緯があったのかまでは関知しないが」
「はあ……」
「実を言うと、株とか先物とかの金融取引を、ワテラノ星人がどのように認識しているのか、今ひとつはっきりしない。もしかしたら前時代的かつ野蛮な、悪に染まった行為と見ているのかも知れない」
「それは……俺にも何とも言えませんね」
「だとしたら、ナノミ王女のこれまでの行為は、悪党どもに交じってバカ騒ぎを監視する、潜入捜査みたいなものだったのかも知れない」
「…………」
「むろん、そうではないかも知れない。すまない。職業柄、我々はあらゆるケースを想定しないといけないんでね」
「いえ……」
「外務省としては、ワテラノンの本音がどうあれ、民間レベルで良好な関係が築けるものなら、ぜひその動きを大事にしたいし、応援したいとも思っている」
「それは……ありがとうございます」
「うん。また連絡するよ」
大曽根氏が部屋を去ってから、間もなく俺は退院を言い渡された。実のところ、俺の体にどんな異常があったのか病院でも判断しかねたようなんだが、要するに過剰な刺激でショックを受けただけだろうから、何かあったらまた来てね、という、しごく心もとない診断を胸に建物を出た。入院費用その他は外務省が持ってくれたらしいのが、せめてもの慰めだ。
病院は京王線沿線だった。アパートまではそれほど長距離ではない。確か三日前、俺は手ぶらで出てきたはずだが、きれいに洗濯されたシャツの胸ポケットには、安物だが真新しい財布と二万円ほどが入っていた。これも外務省の心付けか、あるいはワテラノ星人からの贈り物か。
というささやかな小遣い銭でちょっと浮かれてしまったんで、アパートに着くまで忘れていた。鍵がないじゃないか。
おっかなびっくりで、自室のドアノブを回してみる。開いている。そっとドアを開くと、少なくとも空き巣に荒らされた様子はないようだ。風通しもいいし、なにやらキーボードを叩く音も……って、あれ?
「ん。おか、えり」
モニターディスプレイの前に座ったままで、ナノミが言った。発音がおかしい。声に出したのは初めてだったのだろう、ひらがな四文字の女性の名前に聞こえる。
「……ただいま」
他に言いようがないので、そう答えた。そこから言葉が続かない。何を訊けばいいのか。何を質せばいいのか。君がこの部屋にいるのは、潜入捜査のためなのか、なんて質問を、ストレートにぶつけた方がいいのか。それとも――
「なあ」
たたきから中に上がらないでいた俺の目の前に、いつの間にかナノミが立っていた。
「今日で四分割期と三日」
「うん」
「ええのん?」
「それは」
ナノミの返事次第だ、と言い放って、質問を始める?
先に釈明なり何なり、あって当然じゃないか、と怒ってみる?
違う。全然違う。何かを訊いて、何かを主張して、そこからどんな関係が出てくるというのか。もうその時点で、不平不満をぶちまけるその理由探しになってしまってはいないか。
仮にナノミがこの部屋を地上支部の出張所代わりに確保したのだとする。それで俺は不満か?
いいや、そんなことはない。なぜなら、ずっとナノミと過ごした日常があったから。
ナノミが実はネットトレーダーという人種を悪魔族か何かと認識していて、ここには潜入工作で来ているとする。それは許せないことだろうか?
ノープロブレムだ。悪魔族と最低三年は一緒にいたいと明言した天使族。それは、毎日ケンカに明け暮れる悪魔族の同棲相手などとは比較にもならない。
なら、俺が今ここで言うべきは――。
ふと、ナノミが胸の前で握りしめている、両手のこぶしが目に入る。
細かく震えていた。
俺の心の奥底を覗き込むような大きな瞳と、一見平静な顔の表情。
でも、この娘は今、大きな不安を必死に抑え込もうとして、隠しきれないでいる。地球人と全く同じように。
――信じて。
ああそうか、と思う。ワテラノンだって、信じるのは怖いし、信じてもらうまでは不安なんだ。
そういう時、地球人はたくさんの言葉を連ねて言質を取りまくる道に走る。でも、そんなことをする以前にすべき何かがあることを、この人たちは長い歴史の知恵として身につけているのかも知れない。
そう、俺が今すべきことは。ナノミに語るべきことは。
「ナノミ、もうそんなことは訊くな」
「え?」
「俺は、明日一緒にいるために、今日ナノミと過ごしたい。あさって顔を合わせたいから、明日もそばにいてほしい」
そう聞いた時のナノミの驚いた顔と言ったら。両こぶしを口に当てて――いやもう、こういうところは地球人と全然変わらない――たっぷり三十秒は、俺をじいっと見つめていた。ようやく口が聞けるようになって、ぼそりと一言。
「感動した」
「そ、そう?」
「嬉しい」
「うん」
「じゃあ」
すっかり安心しきった顔で、俺のトレード画面を手で指し示して、言った。
「このユーロとポンド、一年かけて、二十パーの価格に落としたいん」
「はっ!?」
「んで、円を対ドルで五倍ぐらいにしたいん」
「なっ!?」
「やってええ?」
「やるって! どうやって!?」
「え、三日前みたいに」
何を学んだ!? あのトレードで、ナノミはこの星の金融市場をどう理解したんだ!?
「あれは反則だっ! ほんとなら証券取引法に思いっきり引っかってるから!」
「ええ? でも」
「ナノミ! 話し合おう! 俺達には対話が必要だ!」
「私、早う自分の口座持って、先物でブイブイ言わせたいん……」
「どこでそんな言葉を覚えたぁぁぁ!」
そう、俺達の日常は続いていく。続いていかざるを得ない。月が幾度満ち欠けようとも。地球が何十回公転しようとも。
日本と世界のマーケットのために。地球の平和のために。そしてたぶん、宇宙の未来のためにも。
<了>
彼女と借金取りと史上最悪な先物トレード 湾多珠巳 @wonder_tamami
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