彼女と借金取りと史上最悪な先物トレード

湾多珠巳

前編





 ネットトレードをやっていると、千載一遇のチャンスを棒に振って慚愧の念に駆られる、ということが、数年に一度はある。トレード歴六年の俺でも、すでに二回経験した。

 一回目は言うまでもなく、例の宇宙人降臨の日。そして二回目が、その続編と言うべきこの前のアレだ。

 共に世界中のトレーダーが半狂乱になった"千年に一度の"事変だから、マイナスにならなかっただけマシと言うべきなのだろう。ただ、二回目に関して言えば、実は俺は莫大な財を成した。成したにもかかわらず、儲けにならなかった。

 意味がわからないよな? 順を追って話そう。



 あの日は、昼過ぎまでおおむね普通通りの一日だった。

 俺が起きたのは午前八時過ぎ。

 ボロアパートの戸口からチャイムの音が聞こえたのは、きっかりその五分後だった。

「……おはよう」

「ああ、おはよう」

 そう言ってナノミを部屋に入れる。

 ナノミは俺の彼女だ。いや、本当の意味では"彼女"とは呼べないと思うんだが、とにかく世間的にはそういうことになっているらしい。そもそもどこから来て、どこに帰っていってるのかも訊いたことはないんだけど。

 今年の春、突如桜の枝から落ちてきた女の子が、そのまま俺の目の前でノビてしまった、という事件があった。

 人気ひとけの少ない早朝の河原並木だった。救急車を呼ぶほどの重症にも見えず、かと言ってほっとくわけにもいかない。仕方ないので拾って介抱してやった。正確に言うと、自転車の荷台にのっけてアパートの部屋まで(エレベーター経由で)運んでやった。その時の娘がナノミだ。

 いや、ネコの話をしてるんじゃない。少なくとも、ナノミは人間だ。たぶんそのはずだ。外見で見る限り、俺より少し年下の、二十代半ばの女性に間違いないと思う。

 ただ、ちょっと変わった女の子、とは言えるだろう。たとえば、ナノミの話をつなぎ合わせると、彼女が落ちてきたのは桜の枝からでなく、上空三万メートルの強行巡察艦からなのだそうだ。降下にやや失敗して地面に転がってしまった、と本人は主張している。普通、肉塊になると思うんだが。

 そして、彼女の身分はとある星の一応お姫様みたいな立場で、ちょっと訳ありで地球人に紛れているのだそうだ。

 地球外天体が正式にコンタクトをしてきたばかりで、その手の話題が色々盛り上がっている時勢である。とは言え、ナノミの話は昔ながらのごくフツーのファンタジー設定であり、とりあえず俺は、否定も肯定もせず、行間に何らかの真実があるのかもと思うことにした……のだが。


「今日で四分割期やねん」

 トースト主体の軽い朝食を二人で黙々と食べていると、さっそくナノミが得体の知れないことを喋りだした。ウェーブのかかったセミロングのふわふわした外見にふわふわした喋り方。会った時から不思議ちゃん丸出しの眠たくなるような関西訛り。にしても、こんな謎単語はないだろう。俺が首を傾げていると、

「今日でこの惑星の四分の一公転周期経ってん」

「……つまり、四分の一年が過ぎた、と言う意味?」

「肯定」

「いつから?」

「私がイクトとうてから」

「ああ」

 そう言えば、ナノミが桜の木から落ちたのは四月三日だったか。今日は七月三日だ。

「ええと。どこか、食事にでも出かけたいとか、そういうこと?」

「? 否定」

 そういう、世間的なカップルの行事なんてものに全く頓着してこなかったのが、ナノミだった。と言うか、そもそも俺達は本当に彼女彼氏の関係なのか、という問題だ。「介抱してやったら、なぜか毎日通うようになった」というのが実態で、通うというのは文字通りの意味だ。決して古語辞典に載ってるような意味合いは含まれない。

 俺が性に淡白だったせいもあるが、ナノミもナノミで、まるで俺のそういうスタンスに合わせたみたいに、自然体で部屋の中に居座るようになっていた。恋人と言うよりは家族、あるいは生活のパートナー、そんな感じ。

 むしろ、俺の方が、何かもっとカップルらしいアクションを求められているんじゃないかと時々悩ましい気分になるのだが、ナノミからはそんな気配を感じたことはない。

 だから、その日の朝の言葉は、意外と言えば意外だった。

「あー、じゃあ、何かプレゼントがほしいとか、そういう?」

「?? 否定」

「なら、いったい――」

 会話はアラームで中断された。チャートに設定してあった到達通知だ。シカゴの日経平均先物にっけいへいきんさきものが前週高値を超えた。東京市場しじょう寄り付き直前で、ずいぶん思わせぶりな値動きをしてくれる。

 俺とナノミはそのまんま口をもぐもぐ動かしながら、食卓から一メートルと離れていないモニターディスプレイをのぞきこんだ。一度こうなると、もう俺達の間に日常的な会話はほとんどない。話すのはトレードの中身だけ。注文を出すか、出さないか。この値動きの意味はなにか。これから半日先、一日先の予想はどうか。

 ナノミがどういう経歴を持っているのかは知らない。が、少なくとも、金融関係の経験はないだろう。四月に会った当初は、俺がトレーダーであることも、ネットトレーディングという仕事の中身も、納得するまでだいぶんかかった。

 けれどいったん理解すると、トレーダーとして、ナノミは実に頼りがいのあるアシスタントになってくれた。いや、それはあまりに迂遠な言い方だろう。はっきり言って、彼女の相場そうば勘はこの道数年の俺なんかよりもずっといい。なんというか、複雑な力が絡みあっている中での大局を見るすべに長けていると言うか――。

 とは言え、結局その日の午前中は、俺もナノミもひらめきを発揮する機会がなかった。俺のテリトリーは先物系とFXなんだが、どの銘柄もこれと言ったエントリーポイントがなく、発注数はゼロのままだったのだ。よくあることだ。

 東京市場はもちろん、香港も上海も見掛け倒しだったことが判明した十一時台になってから、俺はふと、朝の話を思い出した。

「そういえば今日で三ヶ月経ったって話、あの続きは何?」

「…………」

 そのまましれっと聞き流すのか思いきや、ナノミはわざわざイスの向きを変え、全身を俺に向ける形で座り直した。典型的な「お話があります」のポーズ。俺も横向きのままではいられなくなって、イスの角度を変えて膝付き合わせる形になる。

「今日で、四分の一公転周期」

「うん」

「明日で、四分の一公転周期と一日」

「う、うん」

「ええのん?」

「な、何が?」

「このまんま今日が終わって、明日もおんなじような一日。それでええのん?」

 じいっと俺の目の奥を覗き込むような瞳。俺はちょっと焦った。言葉づらだけ見ると、「定職に就くでもなし、無為な毎日を送り続けて、お前は満足か」とかそういう意味にも取れそうだが、どうもそんな雰囲気じゃない。これはナノミと俺との関係についての話であるはずだ。

「それは、つまり……これからもこの部屋に通い続けるけど、それでいいのか、とかそういう意味?」

「肯定!」

 一瞬、ぱっとナノミの顔が輝いたような気がした。そんな彼女を見るのは初めてだったから、俺はつい、えっという顔になってしまったほどだ。

「ええと、三ヶ月目の区切りにそういうことを聞いたのは、何か意味が?」

「……四分の一公転周期続いた関係は、そこで止めへんのやったら一公転周期続く」

「そ、そうなんかな?」

「一公転周期続く関係やったら、三公転周期までは持つ」

「へ、へえ」

「そやから、今日訊いた」

 ――つまりは、これから三年間この部屋に通い続けるが、よろしいか? という意味らしい。これは……どう判断すればいいのだろうか。押しかけ彼女の本領をいよいよ発揮してきた、と見るべきか、当面の自分の居場所を確保しただけ、と見るべきか。そもそも俺はナノミがここに通い続けることが嫌なのか。

 そんなことはない、と思った。

 最初の時こそ、何だこの女、とか思ったけれど、異物のような印象はほんの二、三時間だけだった。何も相手しなければそのうち向こうからいなくなるだろう、とも思ったが、うちにやってきたナノミは終始俺の隣で――隣でいながら全然邪魔にならない距離感で――俺のやることを見守り、そのうちに同じタイミングで同じ空気を吸ってるような存在になってきた。

 いなければいないで気にならないんだが、と考えようとして、そもそもこの三ヶ月、ナノミが来ない日は一日たりともなかった。これでは判断しようがない。

 ナノミが毎朝顔を見せるたびに、ああ今日も来てくれたんだ、とささやかな幸福感を感じるようにはなってきている。正直、これからも来るという意思表示を聞いて、内心、すごく嬉しい。

 ただ、その気持ちをどう伝えればいいのか。

「ナノミさえよければ……三年でも五年でも、好きなだけいたらいいよ。俺もその方がいい」

 そっぽを向いたままで、それだけ言う。もしかしたら、俺は照れていたのかも知れない。だから、その時ナノミがどんな顔でどんな動きをしていたのか、よく分からない。なんだか、ツボを揉まれて身をくねらせているネコみたいな妙な動きが、目の隅に見えたような気はしたんだが。

 二人っきりってのは、こういう時に困る。タカヤあたりがこの場にいたら、適当に冷やかしたり拗ねたりしていくらでも場の空気を変えてくれるのに。そう言えば、最近あいつ連絡ないな。また当面の資金すっちまって、金庫代わりの女でも物色してるのか。

 つい、チャート横のニュース用に割り当てているウィンドウをムダにスクロールしてると、とあるヘッドラインが目に留まった。


 ――人類史上最激動の一日から、三ヶ月! ワテラノ星人の謎に迫る!


「ああ、そう言えば」

 我知らず、口が動いていた。

「ナノミに会ったのって、宇宙人が降りてきた日の翌々日だったなあ」

 口の中で呟いただけのつもりだったけれども、横のナノミがはっきりと反応したのが分った。自身も宇宙のお姫様を自認しているナノミとしては、スルーできない話題と思ったのか。

「あの時はひどかったよな。あれだけ荒れたんなら、市場は全世界で一律休業にすべきだった」

 もちろん、ワテラノ星人降臨の日の話である。ほぼすべての指数先物が前日比七十パーセント以上の振れ幅で動くという、とんでもない一日だったのだ。サーキットブレーカーは発動しっぱなしだし、株式に至ってはストップ安・ストップ高が大半で、市場を開ける意味などありはしない。

 それでも、そんな日だからこそ、と鼻息を荒くする者もいれば、そのおこぼれでひと儲けしようとするコバンザメの群れもいる。俺達みたいな。

 そう、何だかんだ言って、俺は史上最大級の大津波に乗っかって、てっぺん目指す気満々だったってわけだ。

 まあ結局、ほうほうの体で撤退戦をやらかすのが関の山だったんだけど。

 その大元凶となったワテラノ星人であるが、連中は一応地球のことをリサーチしていたと見え、最初から国連本部にコンタクトを取ってきた。そして、交渉窓口として南洋の小さな島国を指定して、使節艦を着陸させた。それが四月の一日と二日。

 それから後のことはよく分からない。数日間は完全に庶民と別世界で事態が動いてたし、最初のインパクトが過ぎると、あとはせいぜい「その宇宙人はタコ型か、ネコ型か?」という小学生レベルのことしか話題にならなかった。

 少しずつ開示され始めた情報によると、彼ら彼女らは地球人型らしい。――「彼ら彼女ら」という性別があるのかすら定かではないけれども。

 公式発表では、未だに代表者の写真さえ出てきていない。

 にもかかわらず、俺がクリックしたそのニュース記事では、妙に具体的かつ俗っぽい情報が、連載形式で詳細に述べたてられていた。いったいこういう対談相手を、どこで見つけてどこで話をしているのやら。

 今日のトピックは、ひときわ女性週刊誌的な内容だ。


  ワテラノンのセレブリーダー・モアラ女史が語る、降臨星人たちの恋愛観!

問い:ワテラノ星にも恋愛という関係の形は存在するんでしょうか?

答え:地球と類似のものが、あるにはあります。

問い:どう違うのですか?

答え:アメリカ州やヨーロッパ州の感覚と比べると、我々のそれは多分に思い入れが少なくて、内面的とさえ言えるかも知れません。

問い:具体的には?

答え:地球人は、パートナーの愛情を常に確認しようとするでしょう? 私達の常識だと、相手の気持ちを試すような行いは、むしろ禁忌に触れます。デートという習慣もないですね。ただ、過ごしやすい相手と共に日常を送る、というだけで。

問い:では、相手が信じられなくなったらどうするのですか?

答え:相手を信じるとはどういうことですか?

問い:その、バートナーが自分こそをいちばん大事にしてくれているという確信を……。

答え:それは見れば分かるのではありませんか?

問い:ええと、でも、嘘をついたりとか。

答え:嘘が見抜けないのは問題なのではありませんか?


 どちらが質問者でどちらが回答者なのかわからなくなってる。なんだか面白そうな記事だったが、俺の目が真ん中あたりまで進んだところで、不意にナノミが言った。

「イクトは、なんであの朝、あんなところにおったん?」

「……桜の樹から落ちた時?」

「上空三万から」

「うん、上空三万からね。あの時は二徹明けでさ」

「ニテツ?」

「そう。宇宙人騒ぎで市場が荒れに荒れて、初っ端から大損出したし、まああんな状況で寝てる暇なんてなかったから。とりあえず丸二日頑張って、週末ギリギリまで張り付いてたら、土曜の朝だったってわけ」

「…………」

「それでも興奮して寝付けなかったから、朝の散歩に出たら、ナノミが降ってきた」

「んなら、普通やったらあんなところ、歩いてなかったん?」

「そだな。全くの偶然だな。天文学的な」

 冗談めかしていったつもりだけど、ナノミはその言葉にぴくっと体を震わせた。なんだろう、突如、陶酔の波に体を洗われた、みたいな?

 改めて見たナノミの顔は、ほとんど変化のない、クールと言ってもいい表情だったけれども、少しだけ口角が上がっていた。何か嬉しいことでも思い出したんだろうか?


 問い:では、あなた達の恋愛で、もっとも中心的な価値観は何ですか?

 答え:運命です。私達は、その日その時に出会ったという事実を、何よりも上に置きます。


 さっきの記事の下の方で、なんだか気になるフレーズが目についた気がして、パッドに手を伸ばそうとした――ちょうどその時、今日二回目のアラームが鳴った。

「なんだろ?」

 二人してチャートを全部確認して回ると、それは資源系の先物の一群だった。ずーっとフラットだった複数のグラフが、にょーっと角度をつけて上に伸びている。時刻はまもなく正午。

 念のためフラッシュニュースに目を走らせ、他のチャートの動向も見る。ダウさき、日経平均、原油先物、いずれも目立った動きはない。金属資源系だけの急上昇。

 よくあることだった。あまりにもありふれていて、いちいちニュースにもならない。俺も実際のところはわからないんだが、たぶん金属先物に関わりのあるどこかの誰かが、何らかの事情で今日中に賭けている分を手仕舞う必要が出来た、あるいは現金が必要になった、そんなところだと思う。

 このパターンなら、零時零分零秒をピークに、すぐ元の価格まで落ちる。そして、この手の針山グラフが出来た時は――。

「よし、売りっ」

 勢い込んで、五つの銘柄の商品先物に売り注文を出す。鉄、銅、亜鉛、錫、タングステン。いずれもめったに手を出さない銘柄だが、こんな形がチャートに出てくると、しばらく後で急落することがままあるのだ。それほど高い確率ではないものの、針山のてっぺんで売れるものなら、最小限の逆指値ぎゃくさしねをつけておけば、なかなかに割のいいギャンブルになる。

 ……と、結構自信たっぷりに決断したのに、ナノミは「む?」という顔でチャートを睨んだまま、動かない。

「え、何かまずかったかな?」

 グラフは俺の思惑通り、きれいなとんがり帽子になって、すでに正午前と同様、横一直線の閑散相場に戻っている。

「まずくはないけど……」

「大して落ちる局面じゃない?」

「んんんんんん」

 何となく渋い顔で唸るナノミに、もう少し話を聞こうと口を開きかけた、その時だった。

 家の固定電話が鳴った。

 狭いアパートだ。食卓を真ん中に、一方の壁には書物机とパソコンとディスプレイが、その反対側には簡易ベッドがぎゅう詰めになっている。電話はその中間だ。ちらっとチャートの群れを見て、手が放せる状況なのを確認してから、俺は受話器に手を伸ばした。

「はい?」

『お、お、イクト! まだ生きていたかあっ!』

 悪友兼トレーダー仲間のタカヤである。しかしなんだ、この大げさな反応は?

「しばらくぶりじゃないか。何してたんだ?」

『んなことあどうでもいいっ! イクトお前、モロー投資の件、覚えているか!?』

「モロー? ああ、あのモグリデス諸島連邦の」

『お前、連帯責任のところに判押したよな?』

「え? いや待て、あれってでももうとっくに――」

『押したよな?』

「押した……けど」

 一年前だったか、タカヤが妙な投資案件を持ってきたことがあった。超インフレで通貨価値が下落している島国があって、それがモグリデス諸島だった。どうやらまだ底が見えないらしいから、それで儲けないか、という話だった。

 言うなれば、普通のFXの売り注文だ。十万円分のモグリデス通貨を空売りし、充分下落したところで買い戻す。その差額が儲けになる。

 ところが、まずモローなんてマイナーな通貨、普通の証券会社じゃ扱ってない。加えてタカヤは当時ろくに資金がなかった。ので、海外投資に詳しいトレーダー仲間を頼ってモローの売り注文を出してもらい、その際に必要な証拠金十万円は、将来的な儲けと相殺する形で後日払います、という証文を書いた。つまり、全く金を出さないまま、口先だけで勝負に乗っかっていたのだ。

 その時の契約は、タカヤからトレーダー仲間への借金という形になっていたから、連帯保証人が必要だった。そこで呼ばれたのが、俺だ。

 正直、俺自身証文を精査したわけじゃなかったから、甘いと言われれば甘かった。でも、タカヤの発想は悪くなかったのだ。モグリデス連邦の通貨危機は本物ぽかったし、専門家だって、その案件を危険な投資とは判断しなかったろう。一年前なら。

「そういえば、今ようやく気がついたんだが、モグリデスっつーたら」

『そうだよ、あの全世界のアツい眼差し浴びてるモグリデスだよっ。言いたいことはもう分かるな!?』

 連邦の通貨危機は、それほど深刻にならないまま、中途半端に収まった。そして今から三ヶ月前、なんとモグリデスは、ワテラノ星人の地球窓口に指名されて、突然セレブ国家の仲間入りを果たしてしまった。投機筋の煽りもあってモローは急騰し、歴史上稀に見る大暴落ならぬ大暴騰の新記録を打ち立てた。一年前は円の十分の一程度の通貨価値しかなかったモローは、今やドルやユーロをケタ単位でぶち抜く、ほとんどレア古銭の域の値がついてしまっている。

 おわかりだろう。つまり、俺達の売り注文は、天文学的な損失につながってしまったのだ。

「って言うか、お前、あの金まだ返してなかったのか!? いや、その前に、その借りた相手ってさっさと処分しようとは――」

『思わなかったんだよ! 俺以上にヘボトレーダーだったんだ! 今さら言っても始まらねえよっ!』

「いや、待て待てっ。確かCFD差金決済取引だったよな? そもそもの証拠金下回った時点で強制決済されて損失は最低限に抑えられてるはずじゃ――」

『中途半端に金持ってて信用がある顧客だったんだよ、あのおっさん! いったんは下がると甘く見積もって、支払い猶予を申し入れたのが運の尽きだっ。そういう融通の利く証券会社だったのが、またマズかったっ。結局どうしようもなくなるまで放置して、よりにもよって天井になってから損失確定しやがった! 間に銀行が入って、当座の利子払いだけでもたせてたようだが、どうも埒が明かねえってんて悪いところが取り立てに入ってきたらしくて、とうとうこっちにまで――』

「だ、だけどっ! それはもう俺らの責任じゃ」

『責任なんだ! そこんところだけはどうしょうもない! 借用書の控え、後で読んでみろ、最終的な損失はすべて俺とお前が負うことになってる!』

「え、え、今、いったい」

『聞いて驚け、六十億だっ!』

「六十……億、だと?」

「そういうわけだ! すまん、イクト、もう時間がない! 俺は逃げる! お前も大至急逃げろ! もし間に合わなかったらごめん! 生きてたら、また会おう!』

 ムダに爽やかな響きを残して電話は切れた。俺はたっぷり十秒間そのまんまでフリーズしてた。

「イクト?」

 ナノミの声ではっと我に返る。はっきりと心配そうな顔つきで、ナノミが俺を見つめていた。その途端、俺の脳みそは一挙にトップスピードで回転を始めた。

 ナノミをこの件に巻き込んではならない。

 彼女と今すぐ縁を切るべきだ。そのためには。

「ナノミ。突然でびっくりするだろうけど、俺にはとんでもない借金があるんだ」

「シャッキン? 負債のこと?」

「そ、そう。それも、急いで返さなきゃならない負債」

「金額は?」

「日本円にして六十億っ!」

 これでよし。いくらナノミが不思議ちゃんでも、この数字を聞けば血相を変えて逃げ出す――

「ん、分った」

 って、ええええーっ!?

「んなら、その金額まで、利益積み増ししていったらええんね?」

 言いながら、さっきの商品先物のトレード画面を呼び出す。俺の証拠金残高をちらっと確認すると、買い忘れたカレールウに手を伸ばすような口ぶりで言った。

「じゃ、これも売っとこ」

 金と銀とプラチナ。それも限度額のぎりぎりまで枚数を上げて。おいおい大丈夫か? いや、その前に。

「そ、そんなものでうまくいっても、六十億なんて到底――」

「期限はいつ?」

「タカヤの口ぶりだと、多分今日なんじゃ」

 そう答えたまさにその時、部屋の呼び鈴が不吉に鳴り響いた。ナノミとつい視線を合わせてしまう。一瞬、窓から飛び降りることも考えたが、ここは四階。冒険するには、ちょっと微妙な高さだ。それに、どうせ逃げるあてはない。

 二回目のピンポンが静かに鳴った。イカれた連打をいきなり仕掛けたりしてこない辺り、却って迫力を感じる。俺は観念して、ドアのチェーンを外し、扉を開けた。

 立っていたのは、この暑い中に紳士服をきっちり着込んだ、ひょろ高い人物だった。多分男性なんだろうが、紙の買い物袋に穴を開けたのを頭にかぶっていたので、人相はわからない。

「モグリデス投資の件で参りました。能戸村のとむら幾斗様でいらっしゃいますね?」

 慇懃で丁寧な物言い。何となく話し合いが通じそうな気配を漂わせているが、ちらっと背後を見ると、同じような紙袋を頭にかぶった筋肉隆々の面々が、五人ばかり控えている。

 ダメだこれは。

「あの、支度に少しだけ時間をいただければ」

「身一つでおいでくだされば結構です」

「いや、その」

 言葉遣いとは裏腹に、強引に腕を引っ張って連れ出そうとする紳士服。むちゃな奴らだ。天ぷらとか揚げてる最中だったらどうするつもりなんだ。

「イクト!」

 ナノミが飛び出してきた。聞いたことがないような切迫した声音で、見たことがないような怒気を全身にまとっていた。

「こちらの方は?」

 落ち着いた声で尋ねる買い物袋に、俺は反射的に叫んでいた。

「このアパートの管理人だ! ただ電話回線のチェックに来ただけだ!」

 ちょっとだけ訪問者たちがひるんだように沈黙した。俺は奴らをまとめて押し出すようにしながら、なおも叫んだ。

「モグリデスの件は俺個人の問題だろう! この人は全く無関係だ! 一切の手出しは無用に願う!」

 そのままドアの外まで一緒に飛び出すつもりだったのだが、不意に、背中に何がのしかかってきて、慌てて動きを止めた。ナノミだった。

 これまで、ほとんど手も握りあったことがないナノミが、俺の背中に自分から抱きついてきたのだ。こんな事態の中ながら、俺はひどく焦った。自慢じゃないが、この手の経験は初めてだ。

「十五時」

 ひどく冷めた声の囁きが、俺の耳に吹き込まれた。

「大底は十五時。今日の十五時ゼロ分。信じて」

 問い返そうと首を巡らせた時は、もう扉が閉まっていた。幻のような声の中身を反芻していると、「では参りましょうか」と紳士服が顎をしゃくった。五人の筋肉達が俺を取り囲む。少なくとも、ナノミを相手にする空気だけはないようなのを確認して、俺はおとなしく連行された。

 連れて行かれたのは、アパートのすぐ脇に止めてある黒塗りのバン。窓まで真っ黒だ。いかにもすぎてさすがに引いたが、もうこうなったら仕方ない。言われるままに後部座席の真ん中に座り、無言で車がスタートするのを待つ。全員黙りこくった中で、最初の信号を曲がった直後に、せめて交渉の糸口をと思って、「それで」と口を開いてみる。

 途端、首の付け根にチクッとした痛みが走って、意識が途絶えた。


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