夢旅路

沙雨ななゆ

夢旅路

 夢は遠く、とおくまどろむ。鮮やかに、たおやかに、荒々しく禍々しく、しかし決して色は失わず。


「とん!」

 名を呼ばれたから、振り向いた。そこには泥だらけの手がわらっている。おうい、とん! 手の主はもう一度少年を呼ばわる。こっちに来い! 面白いもの、見せてやる! ぶんぶん振られる手が、やや高い陽光を遮っている。その手から光が漏れ出るたび、視界がぐらつきそうになるけれど、ふんっ、と鼻から息を吐いてぐいと傍の剣を握った。

「わかった!」

 少年は答える。手の彼は満足げにうなずいた。早くな、と少年を急かし、背を向ける。陽が、その背の輪郭を覆う。

 瞬間、少年は目を見張った。

(っ、)

 それは何にも変え難いくらいの、あたりにもまばゆい光だったから。

「……くっ」

 拳をつよく握り、少年は駆ける。ゆるい勾配の生暖かい砂が視界を焦がす。その頭上には青い空。それは陽の大きな光を一身に受け止めて輝く空。彼のようだと思う。一瞬立ち止まって、抱きしめるように手を伸ばせば、届かない空はしかし一方で少年を受け止める。きらりと、玉がごとくに輝くそれを手中に収めて、少年はまた走り出す。遅いぞと丘の上で声に呼ばれる。少年は今度は答えずに、顔を上げてにいと笑った。

 少年が丘の上までたどり着くと、彼はまた叱咤した。遅いぞと目が語っている。ごめんと少年はまた笑う。瞬間眼前ににゅっと手が差し出される。二、三回瞬いたのち、少年はその手を取って、すると、ぐいと引き寄せられたのでつんのめった。はははと彼が笑う、それを、少年はまたまぶしく見上げる。手の主は太陽の欠片を手に入れたように、圧倒的な力でここに立っている。

(きっと)

 これは、英雄の手だ。

 ぎゅうと握る手に力を込める。「何だ?」英雄が振り向いた。少年は無言のまま、今度は自分から英雄の手を引く。後ろで草が舞っている。土のにおいがすんと鼻を通り抜ける。

 どこまでも駆けていけるとおもう。おまえとならば。おもいを握りしめて、少年は英雄の名を呼ぶのだ。

「もうとく!」

 そして、少年の英雄はとびきりの笑顔で少年を呼ばわる。

「惇! 俺について来い!」

 うん、──とつぶやくと同時に目が覚めた。眼前には青い空のような瞳がある。夏侯惇はひょっと肩を上下させて立ち上がる。瞬間眼前の人物と額がぶつかった。「……孟徳」曹操だった。いい年をした大人が何をしているのだろう。そんな言葉が脳裏に浮かび、夏侯惇はため息をつく。おうい、と曹操が追いかけてきた。そのまま夏侯惇を追い越して、銅雀台から二番目に高い段にひょんと座った。ひゅうと風が吹く。そのにおいを捉えると、当然のようにあいつがいる、と思われて、夏侯惇は一瞬前のひとに手を伸ばしかける。

 しかし、それは結局行為として実ることはない。

 手を引っ込めた。むこうがわには鬼がいる。鬼がいて、夏侯惇とその英雄の背を、こんなにもとおく感じさせているらしい。

(何なんだよ。)

 寿春の風は戻らない。恨んでみても仕方のないことだった。そっと息を吐く。

 どこまで歩いてきたのか、どこから歩いてきたのか、どれほどの時間を歩んできたのか。誰と、何を、どのようにして、そんなことは難しすぎて、夏侯惇には分からないけれど。

(きっと)

 おまえは歩みを止めない。

 皮肉なことに、それがあいつの意志でもあるらしい。

 言葉の代わりに吐息して、もう一度それを飲み込んだ。ぐにゃりとへんな味がする。戦場で飢えたってこんなものは食わないと思う。主な原因である背中を見つめる。そいつはまだ、ばかみたいに英雄のかたちをしている。

「おい」

 声を投げる。何だ、と、へらりとした返答が膝にぶつかる。拾い上げて手に取って、丁寧に広げて中身を見た。ここにも英雄はいる。やめてしまえ、と呪うように目を閉じて、そうすると曹操は何も言わない。その字がこぼれ落ちた。耳のいい彼はひょっと振り返って、どうしたんだ、とゆるくわらう。

何でもないと言おうとして、夏侯惇はちょっと瞬いた。するとその目に見慣れた青が飛び込んできた、ふと空だ、と再認識する。

 この空に似ていた。曹操は、目の前の英雄は、この空に似ていた。空で、空だったのだ。きっとそれは百年が経過しても変わらないこと。目頭の温度が急に上がった。

(なあ)

 あんたはそれを知ってたんだろ。そうしてこいつに解らせたのだ。きょとんと目を丸くする曹操を見ながら考える。知っていただけではなくて、その正確な意味さえ、夏侯惇の主で、従兄で、英雄で、戦友で、相棒で、唯一無二である人間に持たせるそれを、あいつは分かっていたに違いなかった。

「お前ついにぼけたのか」

 曹操がくつくつ笑って言った。

「ぼけてねえよ、ばあか、……」

 そう投げて、夏侯惇は立ち上がる。向こう側に許褚の影が見える。典韋亡き後の曹魏の屯田兵は、夏侯惇と、その許褚が担っていた。

 おうい、と許褚が手を振る。

「元譲どのお」

 その大きな口から夏侯惇の字も放たれた。

「今いく」

 そう返して、主に拱手する。銅雀台の階段に座ったままのこの国を持つ男は、うん、とおのれの額を撫でながら右手を上げた。

 小走りで段を降りていく。許褚の泥だらけの顔が迫ってくる。いつか、別にお前が耕す必要はないのだがと言えば、元譲どのもしておられるのですから、とぼんやり笑ったのを思い出した。

「仲康」

「はい」

「じゃ、行くか」

「はい!」

 とん、と許褚の肩を叩く。青い青い空が頭上に広がっている。年甲斐もなく走り出した二人に、曹操があとで戻ってこいよと笑った。二人は顔をちょっと見合わせて再び駆け出す。二人の横をすり抜けて行く風はあの日のままで、そんなことに気づいたのはきっと夏侯惇だけだ。そんなふうに。

 息を吸い込む。すべてはあの日。あの太陽の日から続く夢が、あいつのようにわらっていた。



「荀彧、字を文若と申します、夏侯殿。殿にお仕えしてからは日が浅い者ですが、何卒よろしくお願い申し上げます」

 冠に引っ詰められた髪は予想に反して明るい色をしていた。冠があるだけで、その人がこの漢帝国の文官であることが察せられる。ただこの場は従兄の陣営であって、夏侯惇も諸王諸侯百官ではないのだから、いっそ小布でも良いと思う(のちに訊けば従兄が勝手に、この文官の予定も聞かずに、彼がいたであろうその場からとつぜん連れてきたらしいから、仕方がないのかもしれない)。その人の表情を見れば、眉も鼻も唇も、あらゆる箇所がツンとしていて、なんだか居心地が悪くなる。いかにも厳格そうな儒者、文官のそれ。でも、これほどまでに顔立ちが整っているだろうのに、まだ仲良くなれそうな気がするのはなんでなんだろう。ん、と頭を捻ってみれば、その目元かな、と思った。わずかに従兄と似ている。ちょっと目を合わせてみる。……やっぱりだめかな、と思い直した。だって、その人の身丈は夏侯惇よりも少し小さいくらいなのに、背筋なんて夏侯惇たちよりもはるかにピンと伸びている。厳格、清廉、ってこういうときに言うのかもしれない、とさえ思う。

(この人が)

 従兄、我らが曹操、それできっと英雄であるひとが大いに信頼している「わが子房」なのだという。曹操はその人の隣で誇らしげに笑っている。夏侯惇はしげしげとその人を見る。その人の笑顔は涼しそうである。

 ふと、ぼんやり、いつか従弟に、この曹操と目の前の人について話したことを思い出す。

「孟徳は、意地悪だよ」

 夏侯惇がそう従弟に言うと、従弟は笑って肯定した。

「そりゃあだって、だって兄貴だもの」

「そりゃあそうだけれど……」

 従弟のあっけらかんとした口調は夏侯惇のもやもやした心を否定したようにも感じられて、夏侯惇は項垂れた。屋根の影からはみ出した光が後頭部を焼いていた。お世辞にも整っているとは言い難い髪がちりりと傷んだ。

 そんな夏侯惇を見て、何かあったの、と従弟が尋ねる。どこかぼんやりとした口調は相変わらずだ。何でもなきゃこんな話しねえよなんて、夏侯惇は苦笑いする。従弟は何も言わない。ただ少しだけ笑い声を漏らした。

「……なんかさ」

 孟徳は、たまに、おれに意地が悪いから。そんな言葉を呑み込んだ。わかってるよおと従弟はうなずく。隣の体温で腕があたたかくなる。ひょおと風が吹いている。暑いそれ。あの日の空と同じにおいがする。しかし今の夏侯惇には、それが何だか胸にずしんとおりてきて、もやもやとうごめき始めている。

「元譲くんよ」数拍して従弟が零した。考えすぎなんじゃないのって。どうせ兄貴にまた袁殿の御曹司みたいな人間が現れたとしても、なんか、きっと大丈夫だよって。袁の御曹司は兄貴を置いていっちゃうかもしれないけれど、これから兄貴のところに来る人、きっと兄貴のためにいる人だと、思うんだよって。

(そういう、ことじゃ)

 そういうことかもしれないけれど。たぶんそれは違うことで、なんてどうせ夏侯惇にも分かってはいない。

「……よしっ」

 元譲くん。従弟が夏侯惇の字を呼ぶ。従弟は夏侯惇を慰めはしない。やさしいな、お前、夏侯惇は従弟へ振り向いて、そうしてその両頬を引っ張る。むにゅりと指が沈んだ。妙才はやわらかいなあと言うと、何それ、と従弟の眉がへらりと下がった。妙才がいてくれて助かるという、曹操の言葉が分かった気がする。同じ色の瞳を持つ彼を見る。変な元譲くん、と従弟は口角を上げた。

 夏侯惇の英雄は、この頃夏侯惇の知らない英雄になりつつあった。今ここにいるあの文官、荀彧は頭の良さそうな人間に見えた。それに少し前は、サイヨウとかいう文士とも親しげにしていた。夏侯惇は槍を振るい、刃を掲げて進むしか能がない。むかし、夏侯惇の英雄が少しだけ偉くなったとき、夏侯惇の英雄は無力にくるしんでいた。だから夏侯惇は、夏侯惇の英雄の刃になろうと思ったのだ。たぶん、それしか夏侯惇の英雄のためにできることがなかった。夏侯惇の英雄はそれをゆるした。夏侯惇にはそれがすべてであったのに。

 座っていた石畳に汗が落ちる。吹く風は生暖かく、夏侯惇の熱を冷ましはしない。なるようになるよ、と従弟は言った。しかしその時ほどにはのんびりとしたやさしい音は、もう耳の横側をすり抜けていったりはしない。

「夏侯どの、夏侯、……元譲どの」

 ふと字を呼ばれたもので、それによって夏侯惇の意識はそこへ帰ってくる。何ぼうっとしてんだよ、と曹操に小突かれる。ごめん、と一拍遅れてつぶやくと、わかりゃいいんだ、なんてちょっと生意気な声をきいた。

 目の前の人は笑っていた。ふわふわ、後毛が風に揺られる。

(すきなんだろうなあ)

 本能的に分かってしまった。分かってしまったから、認めるしか術がない。曹操は元から人間を愛する性分だったから、この目の前の人のことをすきになるのも、きっと当たり前といえば当たり前だった。その人の礼はうつくしかった。曹操がうつくしいものを愛していることを、夏侯惇は知っている。そのうつくしさがなぜ愛されるのか、たった今、分かってしまったから、手の指がごにょっと動いて仕方がない。

(おれ、なんか、ちっちぇえ……)

 曹操の陣営はずっと、夏侯惇や従弟たちによって支えられていたから、手勢も少なく人材も偏っていた。夏侯惇たちにできることと言ったら曹操の刃となって戦場を駆けまわることだけだった。だから勝つこともあって、負けることも同じくらいたくさんあった。それに、だんだんと数多の色が置かれ始めているのだ。それはきっと喜ばしいことだった。同時に、妬いていないといえばそれもうそだった。けれども。

 夏侯惇も拱手する。右手の骨と左手の骨ががつんとぶつかる。目の前のうつくしい人は一分も動かずにそれを受ける。氏を荀、名を彧、字は確か文若。口内でそれを嚙み砕く。そのまま気づかれないように嚥下して、まっすぐにそのひとを見た。空より明るい翡翠の光。黒目の中に宿されたそれに、夏侯惇は息を飲んだ。似ているのは、目尻だけじゃなかった。

 このひとなら、もういいのかも、とすこし思えた。


「……元譲殿」

 よろしいですか、と声がして、あまりに涼やかなそれに飛び起きる。神経がしんと鳴る。ぼんやりとした頭が冴えはじめて、そこで夏侯惇はそれが先刻の文官、荀彧の声だと知る。

「なんですか」

 夏侯惇は口数が少ない。とくに夜はなおさらだ。不本意だが二語喋っただけで驚かれたこともある。

 荀彧は外で夏侯惇を待っているらしい。ぱちんと両頬を叩いて両目を擦ってから、夏侯惇は外へ出る。

 はたして荀彧は昼と同じような姿でそこにいた。まどろみの向こうを知らなさそうな目が夏侯惇を見る。ふとこの人の重ねた苦労は如何程なのか、と思い立つ。その人は何も言わない。己れの視線の下にいる人を再度見て、どうしたものか、と頭をかいた。もやもやした間が横たわっている。

 それを先に打開したのは荀彧からだった。

「ちょっと、お散歩でもしませんか」

 そうして、わたしと星を見ませんか。

(え?)

 疑問を口にする間も無く手を引かれる。骨ばった右手だ。優男風の雰囲気とはかけ離れたそれに、夏侯惇はさらにうろたえる。荀彧は無言のままで、ずんずん陣営の外側へ進む。そうして夏侯惇たちの軍の陣営の、最後の柵をこえたとき、ふっと荀彧が立ち止まった。夏侯惇はつんのめりかける。何とか立てなおして、今度は夏侯惇から荀彧に声をかける。「あの……荀殿」

 荀彧は少しく肩を上下させて、一拍のちにはい、と返答した。なかなか歯がゆそうな声である。夏侯惇はゆっくりと首を傾けた。それを待っていたのか、荀彧は夏侯惇に振り向いて、その手を取った。

(えっ、何?)

「ねえ、夏侯殿、いや元譲殿」

 とつぜん手を掴まれたこともさることながら、字を呼ばれて狼狽する。そのひとはそんな夏侯惇を無視して、反対側の手の人差し指を空に掲げる。そうして尋ねた。あの星が見えますか。夏侯惇は一拍して頷いた。「では、あの星が曹公といたしましょう。」揺るぎない声だった。

「……え」

「あの星、あれはこの空でいちばん輝く星です。そしてあの弱い星はかつて光を放っていた星です。あの、生き物は、星を目印に生きています。わたしも、あなたも。だから、空には星がないといけないのです。それも強力な星が」

 荀彧の瞳はまっすぐだった。そうして夏侯惇は息を飲む。赤い星を見据えて、まるでそれに未来を見ているようなそのひとの声を、その強さを、夏侯惇は知っている。

(おなじだ)

 そう思った。だからこのひとはここにいるのだろう。うつくしいばかりではなくて。綺麗なばかりではなくて、その瞳の光の強さでもって。

 文若どの。字を呼ぶ。はいと微笑まれる。うつくしい笑みである。手を握り返す。一瞬きょとんとして、しかし荀彧はそれに応じた。このひとを知らないと思う。これから知っていけばいいと思う。また一つ知った。このひとの瞳にも青がある。

 けれども、とふと思う。このひとはあの赤い星をこのくにに据えようとしているけれど。あの隣の弱っていく星をどうするつもりなのか。あのやさしい英雄を何にするつもりなのか。

 目をつむる。分からないことがあったとしても、おれたちが同じ方向を向いていることに変わりはない。戻りましょうかと笑うひとに首肯で返して、夏侯惇はそのひとの影をぼんやりおぼえることにした。

 夢は遠く、とおくまどろむ。



 視界が烟る。砂と熱気が押し寄せてくる。刃を横に構えてそれらを斬り裂いて進む。馬のひづめの音が心地よい。続け! 夏侯惇は将兵へ叫んだ。即座に将兵が呼応する。痛いくらいに頬をなぶる風を全身で受け止めて、鎧を高らかに鳴らす。

 空が近い。青い空が夏侯惇を見据えている。それへ向ける言葉を知っていた。「……、」ある名をつぶやく。大切に大切にしていたものが、ふと口をついてこぼれ落ちた。

(いまさら)

 いまさら分かったことがある。

 これは、こぼれおちるほどの愛だったのだ。

 いつおもったのかは分からなかった。あの従兄の大きな背に背負われてねむったあたりからかもしれないし、くやしいと泣いた日を認めてくれたあたりからかもしれない。あるいはもっとずっと前、上質な衣を破って止血してくれたあたり。あの頃の夏侯惇は今よりもずいぶん小さくて、そしてあの従兄はそんな夏侯惇の、いつだってその前で風に向かっていた。夏侯惇はそんな従兄のことを尊敬していた。すきだった。近づきたいと思った。そしてそれは、彼が挙兵してからずっと夏侯惇の中で生き続ける光である。

(たとえば、)

 降り続ける矢を斬っては落として、薙いでは飛ばして、拳を握って駆け出した。途端、将軍、と叫ぶ声を後ろにきく。ズンという衝撃とともに、眼球のうちがわがひどく傷んだ。けれども、これで歩みを止めたとしたら、それはもはや夏侯惇ではない。だから夏侯惇は前へ進む。友の、英雄の、そしてその英雄を英雄にするもののために。すべてすべて、夏侯惇があいするもののために、夏侯惇は夏侯惇として土を食むように踏みしめた。

「引くな!  絶対、引くな!」

 銅鑼が鳴る。夏侯惇の怒号が響く。一瞬ひるんだ味方の将兵は、しかしその言葉で前へ進む。なんでもいい、と夏侯惇は思った。なんでもいい。ただ、おれの英雄に勝利を。

 知っている、ともう一度思う。ともすれば倒れそうな体を馬上で立て直す。夏侯惇は夏侯惇を正しく理解していたから、己れがどれほどこの場に相応しくないか、そんなことも本当は理解している。空が青い。だから、この空の名は彼らの名だった。暗くなる視界を無視して叫ぶ。「放て!」途端、弩が一斉にキュゥと鳴って、空気が震えた。敵の動きが止まる。これだ。

「行けーーーーっっっ!」

 鋭い勝利が叫びをあげる。馬の音をとおくにきいた。足元はおぼつかないし、視界もあまりにも安定しない。けれども今は砂煙さえ尊かった。思い出す。だから超えなければならない。あの夜を超えて、このくにを掴んで、星を導いて──夢は遠く、とおくまどろむ。鮮やかに、たおやかに、荒々しく禍々しく、しかし決して色は失わず。そういうふうに生きてきた。おれたちが。手綱はまだ放していない。

(おれの英雄たちよ)

 手を、合わせた。直前、光る青を掴めるように目を閉じた。


 夢を見た。あの英雄の背中はただのひとりだった。手は伸ばせない。だれもあの背には近寄れない。いつだったかの記憶のはなしだ。けれどもそれは真実であった。

(これは俺のものだ。この痛みは俺のものだ。友を奪われたことも父をうしなったこともそのこころを剥き出しにしたまま民をころしたこともそれであいつが離れていったこともお前の右目も息子をあやめたことも部下を見殺しにしたこともすべてすべて、一切合切、それは誰にでも譲るものでなく俺のものだ。俺はこれからもひとりで生きていく。俺のこれまでもひとりで生きてきたものだ。誰のことばも要らぬ。誰のこころも要らぬ。)

 そう背を向けてつぶやいた声は呪詛のようだった。けれども、おれは確かにその背が無意識に欲しているものを分かっているとおもう。字を呼ばわる。もはや夏侯惇しか呼ばなくなったそれを。振り返られることはない。だけれども、夏侯惇はちゃんと知っているから。分かっているから。

「──元譲殿!」

 よかった、目を覚ましたんですね。視界に翡翠の光が射し込む。「……ええっと」あたりがやわらかい。どうやら夏侯惇は寝ていたらしい。文若、元譲はどうだと、聞き慣れた声も聞こえてきた。

 なんともないですよと言ったのは荀彧だった。何となく現状の把握ができてきた。己れはあの下邳の戦いで右目を失い、そのまま落馬する、直前に味方の兵に助けられたらしい。敵将の呂布は捕らえられ、処刑。つまり自軍の勝利である。

「これで漢へ良い報告ができますので」

 傍で荀彧がそわそわしている。曰く、ようやく天下に曹操ありと胸を張れるらしい。「それは……」なんか、めちゃくちゃ良かったですね。とかなんとか、言おうとして咳き込んでは、荀彧と、そして飛び込んできた従弟と、手の動きがごちゃごちゃした曹操に、なんだか変な顔をされる。荀彧がこほん、と咳払いをする。

「文若〜」

 へにゃり。われらが主公曹操殿は情けない声をだしていた。夏侯惇と荀彧は顔を見合わせる。

 忘れてはいけない。きょうまでの日々はこのときのためにあったのだ。そのための右目ならいくらでもとは言えないけれど、それでもそれを賭ける価値は十分にあったはずだ。およそ四百年続いた漢帝国は衰え、群雄が割拠する時代になって久しい。荒廃した都を立て直し、漢の後ろ盾として中華に安寧をもたらすため、夏侯惇たちは旗を揚げた。その上には当然英雄がいる。それが曹操、字を孟徳その人だと皆がおもっている。肝心のそのひとは今まさに仲間の中で隠れようとしているけれど。

「曹公」陣の中にりんとした声が響く。荀彧だ。「……はい」「ようやくここまで、です。けれどもこれは始まりです。呂布だけではない、中華の安寧を乱す輩はまだまだいるのです」「はい……」「わたしは次は北だと思っていますけれど」「ええ……」「ええではない」「はい……」「よろしい。ではまず北へ書状を、懐柔できるのならばしなければなりませんし、それから当然戦の準備も進めておきましょう」

 一息でそこまで告げてから、すんすんと荀彧は曹操に近づいた。つい先刻まで英雄のかたちをしていたものなのに、今の曹操はあまりにも夏侯惇のただの従兄だ。陣がどっと笑う。笑うなあと曹操が言う。夏侯惇も笑った。右目がずきりと痛み、ふっと意識が遠のく。

 途端曹操は夏侯惇に駆け寄ってきて、げんじょう、とひどく心配そうに夏侯惇を呼ぶ。夏侯惇は視線をそらした。荀彧は、何も言わない。

(そんなかおを)

「……なあ」

 主公であるはずのひとの声は弱々しい。「みんな、どうか、聞いてくれ」それ続く言葉はきっと、今この場で望まれているものではないから、言うべきではない。荀彧を見る。荀彧は、このやさしい英雄をまっすぐ見つめている。

「……俺はお前たちを大切にしたいのだ。けれども俺は、やはり民を、どうあっても、しあわせに、してやりたいのだ」

 誰もが息を飲んでいた。その言葉は皆々に酷だった。けれどもそこに込められた覚悟は、たしかに英雄のもつそれだった。この言葉には溢れかえるほどの矛盾があって、そしてそれはすでに氾濫している。そういうことのすべてが分からないほど皆々未熟ではない。だから、おまえが考えるほどにはおれたちはぜんぜん大丈夫なんだ。だってここはおまえの陣営だから。

(たとえおまえが何を背負い、何を呪っていたとしても)

 空は青い。まだまだ青い。青いことは見なくても分かる。それと同じくらいに、いやそれ以上に、各々が胸を叩く。

「応!」

 その声に、夏侯惇は曹操を見た。曹操は荀彧を見て、夏侯惇を見た。荀彧は曹操を見つめ直してから、夏侯惇と顔を見合わせた。うんと大きく曹操がうなずく。夏侯惇もうれしくなって拳を握った。荀彧もそうだといいとおもう。おもうことは信じることだ。

 北はきっと獲れるだろう。

 夢は鮮やかにまどろむ。



 それが起こったのは、曹操が北を獲って間もない日だった。

「殿、殿、との、曹孟徳さま。黙って聞いていてください、殿はきっと寝てしまっているから、そうせざるを得ないのでしょうが。卑怯者のわたしをおゆるしください、具体的には、殿がここで目覚められてもどうか寝たふりをして聞いていてください。……本当は、告げるべきではないことはわかっています。いつか殿は己れを天のものだとおっしゃった。よく覚えていますとも。あれはよく晴れた日のことでしたね。わたしはそれでこそわが殿だと思いました。この不肖荀文若、殿の小柄な、けれども大きな背中を見て、確かにそう思いました。その思いは今でも変わっていません。変わるはずもありません。これまでもこれからも、わたしは常に殿のおそばにあって、その目となり耳となり脳となりましょうぞ。殿。……然れども、時折思うのです。あなたは漢の臣である。あなたは漢の忠臣である。その漢は? 漢とは何なのでしょう。例えば、……陛下は漢でありましょうや。漢室は漢でありましょうや。むしろ、……否、やはり告げるべきではございませなんだな。殿。おやすみなさいませ、良い夢を。」

 星のまたたく夜だった。ふわりと静かな衣擦れの音がして、曹操の閨の前からあの優男が去る。曹操がぱちりと目を開けるのが分かった。

(そんなにきかれたくないのならば言わなければいいのに)

 夏侯惇は息を継ぐ。王佐の才と呼ばれていた、そんな彼にも理屈では割れぬことがあるらしいと、隣のひとは言うのだろうか。「もうとく」字を呼んでみる。ぴくりともしない。目をつむる。ひとしきり吐いた息はぼんやりと冷たい。

 夏侯惇は曹操を考えた。そして先刻の荀彧を思考した。隣の曹操は彼を何と呼んでいただろう。いつものように字の文若、誇張してわが子房、それから、それからそれから。曹操はよくよく口ずさんでいたはずだった。額に手を当てる。彼の影が歪んだようにわらっている。

 従兄を呼んだ。返答は未だなく、そして恐らくこれからもなかった。曹操はむくりと体を起こし、体勢を変えてみるらしい。不思議と頭痛のしない夜だと曹操が言う。何をもって彼を寝かせないものか、そんな思考はわずかの間宙に捨てる。

(たぶん)

 あの優男は、あの小綺麗に整った顔を今にも泣きそうなくらい歪めて、やっと息を吐いていたのだろう。あの荀彧は、そして、あの形良く薄いくちびるを震わせながら、やっと言葉を継いでいたのだろう。最近はいくつかそんな表情をする彼を見ることはあった。曹操はその度に気づかないふりをしていたけれど。だってそれは彼の主にしか見せないものだったのだから、その方が互いの都合も良かったのかもしれない。そうして今宵のことのように、あれよあれよといううちに、しばらくの間を共にいきてきたふたりには、それは知らぬうちに暗黙の了解になっていたのだ。曹操にとっても、荀彧にとっても心地の良い距離感を作って。

 曹操はもう一度寝返りをうった。背中がぎしりと歪んだ音を立てる。ずいぶん疲れたと夏侯惇は思った。そしてまた荀彧のことをおもい、この隣で眠る男の抱えるものたちをおもうた。

 あの声はきっと。

 あの声たちはきっと。

(あいしてくれとは言わないのだろう)

 それがどれほど残酷なことか、こいつも、そして彼らもまだ知らなかった。けれどもこいつはいつかそれがまざまざと突きつけられることを知っている気がする。分かる日が来なければいいと夏侯惇は願った。

 そのときひゅうと一陣の風が吹いて、従兄──曹操の髪をなぶっていった。

 夢はたおやかにまどろむ。



 おもう。思い出す。そして聞いていた。聞こえていた。聞かせるつもりだったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。

北を獲り、南へ征き、群雄はたしかにこちらの側に傾いて、宮中はあの荒廃の日々を思い出せない。漢帝国は着実にその形を取り戻しつつあったし、この中華に曹操ありということは誰の目にも明瞭な事実になっていた。

 夏侯惇は国力増強のため、田を耕して兵を育てる。泥を被った髪が痛い。刃を下ろした腕がこんと鳴っていた。

 昼になれば陣を歩く。今もその中途である。これは、そんなときだった。ぐるぐる歩いて、そうして何となしにある陣のある屋を見た。薄明かりの窓の向こうには人影がある。

(……どうか、お願いいたします。わたしのことをわかりたい、だなんておっしゃってくれますな。あいしたい、だなんておっしゃってくれますな。あなたにわたしのすべては委ねられない。あなたにわたしのすべては打ち明けられない。もうこれ以上は申し上げるものか。それでも、あなたのことに無関心でいられるほど、わたしのこころは無情でもないのでしょう。ゆるしてほしいとは言わない。わたしは何もゆるされない。そもそもこれは罪ではないのだから。)

 だから、おもう。

 あの北を獲った宴の日。ぶんじゃく、とかのひとの字を呼んで、唯一無二であったけれど、相棒ではなく、戦友でもなく、英雄でもなく、もちろんそのひと自身に己れが仕えていた記憶もないひとに、英雄になりたかったひとはわらいかけていた。そのひとは花束を抱えていた。しようと言ったのは誰だったか、誰だっただろう。

 ほむらのひとみがまろくなる。鋭い犬歯がするりと愛嬌にかわって、目尻もふわっと、凡そ彼自身の目方に合わせるようにやわらかくなるのだ。夏侯惇はそれを見ていた。……との。数拍置いて荀彧が息を継ぐ。曹操が笑う。

「文若。ぶんじゃく、俺は、きっとお前に、たくさん伝えなければならないことがあるのだ。よくきいてほしい。いいかな。」

「……はい」

「まず文若。こたび、官渡のこと、俺はまことにお前に励まされたのだ。うそではない。俺はきっと、お前がいなかったら、袁紹に……本初兄いに勝つことは、できなかったとおもう」

 彼はまっすぐにそのひとを見ていた。夏侯惇だけが彼が震えていることを知っていた。幼馴染で、かけがえのない人と対峙することは、ひどくこわかった、なんて、曹操は絶対言わないのだろう。このひとは、あんなに大勢臣がいる中で、弱音なんて絶対に吐かないのだ。このひとは公のひとだから。それは、これからもこれまでも変わらないこと。

 知っていることを知っていた。分かっていることを分かっていた。彼が、この陣営の主たろうとして、気丈に振る舞っているところが少なからずあることを。漢帝国の王臣たろうとして、等身大のじぶんを歩いていることを。そのひとがそれを知っていることを、分かっていることを、夏侯惇は。

 そして、荀彧はそれらをすべて知っているから、むしろ知らないようにわらっているのだろうか。わらっていたのだろうか。やはりおもう。あの言葉は誰にかかる言葉だったか。誰にかかる言葉だったか。

 あの日、明るい空の色をうつした彼の瞳は、間違いなくずっとあいつばかりを捉えている。

「俺は、お前がいてくれて、有難いと思うのだ……っ」

 ずきんと体の芯が化膿した。

 夢は荒々しくて禍々しいものだった。



「ぶんじゃく」

 文若、文若。そのひとは何度も荀彧の字を呼ぶ。やめていただけませんか、本当に。あなたはいつから左様におばかになられたので。あまりにしつこいそれだから、荀彧は段々腹が立ってきてしまって、あろうことか仮にも己れが主たるそのひとに向かってひどい言葉を吐く、否、吐こうと思った。けれどもそれは、形となる前に数寸先にこぼれおちる。こぽ、と喉が鳴った。水が欲しいと思った。そんな荀彧を察したのか、静かにそれを出してくれる付きの者の存在はいつもよりもありがたく感ぜられる。

 身を起こす。伏したままだと思われることが嫌だった。病です、と告げたときでさえ一分の曇りもなく笑っていたのだ。己れは完璧だ。己れの笑顔は完璧だ。だからこそ今、戸を隔てて相対しているのであろうそのひとに、「病」であると思われることが嫌だった。

「殿」

 ぐっと拳を握りしめる。吐息は深くはなかっただろうか。軽すぎやしなかっただろうか。ぶんじゃく、と弾かれたような声が向こうでした。同時に大丈夫だと口角を上げる。それは一種滑稽な風景であった。

「お引き取りください」

 わたしが、殿に申し上げることなど、もはや何もございませぬゆえ。

「……っ」

 荒くなる息を再度飲み込む。どうかどうかそのまま立ち去って、荀彧はそう念じながら額の汗を拭った。骨がきしみ、身が削られていく音を確かに聞く。けれども荀彧はまだ笑っていた。気丈な声も出すことができる。たぶん、だから。そのうちぶんじゃく、と言いかけた声は途中で消えて、ぱたぱたと失意の足音だけが残っていく。しばし荀彧はそのままにして、ようやく安心したのか床に倒れこんだ。

(わたしには)

 本当に、もう、何もできないのだ。

 歯がゆくて仕方がない事実を、荀彧はやっと認めつつある。

 水を、と侍従に告げる声はか細い。かの荀令君がこんなことでは、と己れを叱咤するものの、やはり力を出せるのは先刻のしつこいひとの前でだけだ。否、そのひとしかここに訪ねてこないというものではあるのだけれど。けれどもきっと己れはたとえばそのひとの将兵や文官がそうしても、先刻の姿勢を貫くのだろう。矜持の幅と、その高さは誰よりも広く高いはずだ。荀彧はまた口元に笑みを浮かべて、そっと目を閉じる。

 そうして、何もかもが己れの手を経て後戻りできないものになっていくのだ。それでいい、とさえ思う。

(さいごに笑うのはわたしだ)

 たとえば。荀彧はふと天を仰ぎ見た。無論ここは室内であるのだから、想像のうちの蒼天を駆けたのみである。しかし荀彧はそこで確信する。こんなにかあおい、こんなにもあおい、それはあの日荀彧がわが英雄と呼んだひとの瞳にいつだってうつっていたものだ。あのいろを追いかけて皆ここまで来た。そのうちに景色はずいぶんと変わってしまって、周りの自分たちを見る目もずいぶんと変わってしまったものだけれど、あのいろだけはいつだって変わらずにそこにあったのだと、今は認めざるを得なくなってしまった。

 苦笑する。咳が出そうになるのを無理に止めて口もとに右手をやった。飲み込んだそれはどことなく鉄の味がする。部屋をできるだけ暗くしておいて正解だ。寝台に近いところに果物がある。ここ最近は何も食べていないので、新鮮なそれに少しく喉が鳴る。

 ゆるりと起き上がる。そのまま再び地に足をつける。爪先と膝がぎしりと嫌な音を立てた。無視をして、ほのかな芳香を放つ果実の方へと体を向ける。視界がゆがむ。ぐらり、とぐらついた足もとを厳しく制して、荀彧は一歩踏み出した。器の中の果実に手を伸ばす。引き上げられたそれは荀彧の右手に収まり、荀彧はちょっと笑ってみる。

 ――ガリリ。果実を食む。新鮮な甘さが喉を満たした。

 寝台に戻ろうと思った。てろりと垂れた果汁が煩わしい。布を、と侍従を見やる。しばらくして運ばれてきた濡れ布で腕を拭って、荀彧は寝台近くで靴を脱いだ。大量の汗を感じる。こめかみが痛い。簡易にまとめた髪を抱きしめて、震えの止まらない腕に巻きつける。

(悔しい、悔しい、悔しい悔しい悔しい悔しい――)

 なぜこうも体は己れの意思に反しているのだろうか。これでは本当にかのひとへの出仕を拒んでいる理由が「病」にあると思えるではないか。冗談ではない、と思った。そんなことは、あってはならない。

 頭巾を頭から被る。とうとう視界が真暗になった。目を動かす。感覚だけがそこに残る。震える喉をこくりと鳴らせば、聴覚が微妙にキィンと鳴る。再びまぶたを閉じた。

 ふと、文若はちょうどばかですねえ、と聞き慣れた声がする。ほんとうに、と向こうでもう一つの声が笑っている。釣られて荀彧も口角を上げた。二人が笑う。指をさして腹を抱えている。力が入っていないのだろうと分かる。死者は、自由で良い。

 ぱちりと目を開けた。しばらく怠いような不調は引いている。

(もう少し、)

 どうか、なんて柄にもないことだ。

「……文若殿、お加減は」

 今度は本当に声がした。うつつの声だ。この世の声だ。長文、とその子の字を呼ぶと、大丈夫ですか、と尋ねられる。中には入ってこない。あくまで彼は扉を隔てている。この律義な性分が、荀彧は結構気に入っている。もう平気です、と気丈な声を、出そうと思って、そうしたら、出た。ふっと口内で吐息して、そろそろ出仕しますとお伝えください、と向こうに言を投げた。はい、と緊張したような返事をして、彼はここを後にする。靴を履いた。骨のきしむ音はいつもよりはしない。

 だから、己れの進退くらいは己れで決められるだろう。

 むん、と背伸びをして扉を開けた。爽やかな光が射し込んでくる。そっと目を瞑って胸に手を当てた。心ノ臓が誰からも見えないというのは、何やら都合が良い。

 そうして荀彧はまた笑うのだ。――いつの世も勝者は笑うものなのだから。


 その春、荀彧は寿春へ遠征を命じられ、間もなくしてその生を終える。それから幾何もしないうちに、曹操は魏公に封じられた。

 それを人は噂した。――曹公の政を支えた荀令君は、邪魔になったために曹公より死を賜った。

 以後、曹操の権力は絶大なものとなる。



「まあなんだ、そんな顔をせずに少しくらい付き合ってくれたっていいじゃないか。ああどうせお前のことだからまたかとか言うんだろう……あ、図星って顔をしているな。まあ、いいじゃないか。老いぼれの戯言に付き合うことだって側近の役目さ。そんな役目はない? 当たり前だ、たった今俺が決めたばかりだからな。何、横暴だと。はは、それくらい許せよ。良いから聞け。酒の肴くらいにはなるだろうさ。

 それで、わたしはあなたさまのことを、何とお呼びしたら良いのでしょう、主公、ご主君、曹公、曹さま、曹殿、それから。そうやって指を一つずつその手中に折り曲げながら、うたうように告げた瞳をおぼえている。ふわふわと揺れる色素の薄い髪のことも、長くてすらりとした指も、整った顔立ちも。そのときふと、ああ彼が令君か、なんてぼんやり考えて、そうしたらちょっと、と見とがめられたのだ。すべてに寛容そうな顔をしながら半ばすねたように表情を崩すあいつのことを、だけれども俺はちゃんと見ていて、きっと視線を逸らしたわけではなかったろう。むしろしっかり彼の方を向いていたものだから、それに気づいたらしいあいつははっとして先に視線を逸らしてしまった。とにかく何が良いですか、とそれでも再度尋ねる口調がけなげに感ぜられて、笑ったら、もう、とくちびるをとがらせる所作までもを、たぶん、否こころから好きだった、あいしていた。そのときからずっと。

 では君は本初のことを何と呼んでいたのだと、数拍置いて俺は尋ねたろう。あいつは一瞬困ったような顔をして、うーんとうなった。実に絵になる構図だった。分かるだろう? それに釣られて(多分当時だってあいつの意図はそこにあったのだろうけれども)まあそう急がずとも良いさと言おうとしたら、袁殿と呼んでいましたねと答えたもので、それでは袁術の野郎と区別がつかなくないかと揚げ足を取ったら、いえその方ならば袁様と呼んでおりましたとか、恐らくそんなことをしれっと答えて、こいつはと頭を抱えたのは果たして俺の方だった。あいつはそれで何か感づいたらしい、その方に何か恨みでもと少しく口角を上げながら言ったものだから、おい笑みを隠せていないぞと恨めしそうに俺は告げたと思う。だけれどもどうだ、そうしたらあいつは何と言ったと思う──だっておさえていませんもの。つまりそれはあいつが俺を釣るための策だったのだ! 俺はびっくりしてあいつを見る。あいつは涼しそうな顔で俺を見ていた。なんと数拍の間に立ち位置が入れ替わってしまった。驚くべきことだった。

 俺はそんなものはないよ、と言った。あいつはそれ以上何も俺に尋ねようとはしなかった。そういえばそこで俺は何の話だったか忘れていたことに気づいて椀をすすった。茶はもう飲み干されていた。しまった、と思った。口内には己れの唾の味ばかりが広がっていた。

 だけれどもそうして乾いたくちびるで空を見ると、恐ろしいくらい綺麗な月が花の枝にかかっていた。ふっとそこで俺はひとつ思い起こした、そして告げた。俺のことは殿と呼んでくれないだろうか。それからしっかり三拍目に、あいつはあの翡翠っぽい瞳をくるくるさせて、ようやく微笑んだのだ。御意、わが殿。またそれが非の打ち所がない礼で、やはり俺はうろたえた。思えばあいつには明確に勝った覚えがないな、何とも腹立たしい奴だよ。

 で今度は俺がきく番だった。お前のことは何と呼んだら良いのかな。するとあいつは即答した。文若でも令君でもお前でも君でも王佐でも何でも。それならばお前のことを子房と呼ぶぞとにやにやしたら、高祖なんて今時はやりませんよとあきれられた。だから俺はあいつを文若と呼ぶことにした。いやだから、という文言は相応しくないな。文若という響きが単にそのときに感じた詩情にぴたりと合ったからかもしれない。俺のことだ、おそらくそんな理由だろう。

 かくして俺とあいつは主従になった。正確には仕事仲間と言った方がいいだろう。少なくとも俺はそうだと思っていたし、あいつもそうだったに違いない。詰まる所俺とあいつの関係は、他人が信じるほど親密ではなかったけれど、他人が疑うほど希薄でもなかったというところかな。……いやいや、今だからこそそう割り切れるだけで、当時の俺はあいつとはそれ以上であると思っていたし、望んでもいたのだろう。お前に話していたらそんな気もしてきたなる、ははは。

 ところで、何だか今日の酒は早くないか? もう二升だぞ。だがまだいけるよな? よし。俺だってまだいけるぞ。なかなかこの程度でとしだとは思われたくないものでね。そもそも俺は酒は好きな方だ、ほら故郷でもお前とは浴びるほど飲んだだろう。仁や淵や洪も。そういえばこの呼び方はいまだに直らないな。お前のこともたまに惇と呼びそうになる。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。話の続き? お前、そんなに俺の話が聞きたかったのか。まったくお前も愛い奴だな。いやぁ俺は幸せだ。幸せだよ。おい、そんな顔をするなよ。

 何だったかな。あぁあいつの話だ、文若の話だ。今日は文若の野郎がいかにうそつきかという話をしようと思ったのだ。そうだ、文若はうそつきだった、それもこの中華一の。まったくたちが悪いことこの上ないではないか。だってお前想像もしてみろ、あの顔で、あの声で、この俺さえも騙すうそをつくのだよ。正直なことを言うと、あれには何度か出し抜かれたものだし、その都度さすがにあきれてさいごのさいごには尊敬もした。荀文若、あいつは中華一の大うそつきだ。これからその訳をしっかり話して聞かせてやるから、惇、お前だけはおぼえていろ。それは例えば俺が忘れても、だ。約束だからな、……命、ではなくて、約束だ。

 あいつは、文若はうそつきだった。まず俺が本初と戦いたくないと言ったとき、あいつ俺にそんな弱腰の殿はわが殿ではありませんから故郷に帰りますと言ってのけたのだ。冷静に考えればはったりなのはよく分かるのだけれど、そのときの俺はやたら気がめいっていたものだから簡単に信じてしまって、そして官渡の大戦だよ。ああその前に、ミカドのことについてもうそだらけだったな。荒廃した都から漢帝国のミカドを保護し奉り、この曹操は王臣忠臣として中華に秩序をもたらすとか何とかだ。まあ深くは触れるまいよ。

 中でもとりわけ強烈だったうそは、そうだな、俺の忠へのうそだ。あいつ俺が魏公に封ぜられるとき、それは簒奪にあたるのではないですか、なんて俺の目を見て言ったんだぜ。もうあの頃には、……お前だって覚えているだろう。中華は俺たちの北と、孫権の南と、それから劉備の少しの西に別れてしまっていてどうしようもなかった。赤壁の戦は、……あれは、本当は俺はしたくなかったのだけれど、もう時もなく、あいつらだって中華に従おうとしなかったから、仕方がなかった。そんな戦は勝つはずもない、当たり前のことだった。もう俺の代での一統は不可能だったから、俺の息子たちへ位とかを引き継がなければならなかった。俺はいいと思ったんだよ。魏公っていうのはただの位、俺が獲ったものが世襲できるようになるための処置だと思って。けれどもあいつにはそう見えなかったのだろうな。漢帝国の血を引かぬ俺が王侯の位を賜るということは、あいつにとっては簒奪だったのかもしれない。

 あいつはそれ以上は言わなかった。言わずに、その真剣な瞳でひとたび俺を貫いたあと、いつも通りににこりと笑って、何と言ったと思う。わたしの曹公はそんなことはいたしませんよね、だとよ。俺は、多分、意味もわからずに笑うしかできなかった。そのあとあいつを誘って久しぶりに二人で飲んだんだ。だがその日を境にその後病だ何だといって、あいつ俺と会おうとすらしなかった。あーあ、文若ってひどいやつだな。何なんだよ、あいつの考えてた俺って、お前分かるか? あいや期待をしているわけじゃあないさ、お前俺の従弟たちの中でも飛び抜けて頭の回転が悪かったから……あ、怒るな。だがなぁ元譲。文若は、やはり、ひどい奴だったのだよ。しかもよく考えたら天下の荀文若は、俺の子房は、大うそつきの上に、この上なくひどい奴だった、……。」

 そう言って、夏侯惇の目の前にいる、齢はとうに六十を過ぎた魏王はへらりとわらった。月は半分ほど欠けていた、その光はやけに穏やかで、夏侯惇は意味もわからず背筋を伸ばす。

 もうおひらきにしようか、と彼はまたわらって言った。そうだなと夏侯惇は答えた。だがおれは知っていたとおもうた。彼の背中はいつも以上に小さく見えた。

 空には月が輝いている。それは片翼の空だった。天高く何かが鳴いた。彼ではないといいなと思った。

 結局、彼らは酒を二升分しか飲まなかった。



 たぶんおれはこの中華史上いちばんばかな男に仕えているのだろう。

「……」

 ふう、と息を吐いた。どちらからともなく、今日で何度目かも分からないそれ。けれども決して決して互いには咎め合わないそれ。ばかだなあ、なんて思って、おれはまた吐息した。春と言えどもここは寒い。北風に吹かれて散っていく梅を横目に見る。白い花弁だ。あいにく色をそれなりに形容する言葉はこれしか出てこない。

 もうとく、とあいつを呼ぶ。おれのいちばんばかな主公だ。主公というよりは兄弟みたいなそれだけれど。やつはこちらを向かなかった。ただ、馬鹿、とつぶやいた。

 何が馬鹿なの、と問うてみる。それが誰に発せられた言葉であるか、本当はおれは知っているのに。しかしちゃんと分かっているわけではないから、残酷なことを平気で問えるのだ。しばらくしてくつくつとおれのばかな主公が笑う。元譲、とそのままおれの字を呼んだ。ゆるい声は、けれども、確かにおれを呼ばわったのだ。おれは応えなかった、だって、応えたらきっとだめな気がしたから。

(ほんとうに、ばかだなあ)

 おれも、おまえも。なんて絶対に言わないけれど。

 そしてそれは、おそらく、多分、きっと、……絶対に、あいつのせいに違いない。

(あんたのこと、いつまでも引きずってるんだよ)

 これからもずっと。死ぬまで。

「なあ、孟徳」

「どうした」

 あおい瞳がくるりとこちらを向いた。うみのようなそれ。おれたちの故郷にはそんなものはなかったから、いつしかおれはそれを空と呼んだ。孟徳、おまえはきっとそれを知っていたから、あいつをそこへ返したんだろう。おくったのかもしれない。だからおまえは空のような目をしているのか、それはきっとおまえとあいつにしか分からないこと。

 おれは無言で桃を放った。何するんだ、としっかり捉えたらしい声がごねる。食べようぜとおれは言った。瞬間背後でがりりと喰らう音を聴いた。「元譲」声がおれを呼ぶ。おれは黙々と桃を食べる。しゃりしゃり。がりがり。不規則な音がもっと不規則なそれを重ねて呑み込む。奥歯で桃の破片を砕く。

(べつに、)

 そんなことをして、かなしみが和らぐだなんて、思っちゃいないさ。

(自己満足なんだ)

 所詮。最近分かったことなのだが、こうして自己満足をそうだと認められるようになると、次に咀嚼する桃の欠片もいささか宴時のものと同等にうまく感じさえする。

 うまいな、これ。うしろで孟徳が吐息する。ばかなおいぼれがふたり居る。だろ、とおれは高く言った。おれも最近知ったんだ。お前ならわかってくれると思ってたぜ、とか、そういう意味のをくちびるに乗せて。へえ、お前にしては、と余計な一言が後ろからする。そうすると、互いの顔は見えていないのに、距離も溶けあうような気がしてなかなか不思議だった。

 んしょ、と孟徳が立ち上がる。桃を食べ終えたべとべとの腕が光っている。そのままおれの方に歩いて来て、やや乱暴に手を引く。水っぽいそれは孟徳の汗だったのか、桃の果汁だったのか、今となっては分からなかった。気づかれないように字を呼ばわる。果たして孟徳は振り向かない。

 頭上にはまばゆいばかりの空が広がっている。

「っ、元讓」

「何だ」

「飛んでいけそうだな、」

 この空は、なんて。

 そうやって。

(……おまえは)

 それでいいかもしれないけれど。本当にいいのか? 問おうとした空に変化はない。なあ孟徳。孟徳。もうとく。何度か呼ばわった言葉は、夢のようにここに溶けていくのに。手があつい。そこから火が出そうだ。孟徳を見る。孟徳は当然のようにおれを見なかった。窓枠から反射した光が途端おれを射抜く。

 帰るか、と孟徳がつぶやく。どこに帰るのかなんて、きっとおれが尋ねることのできない場所なのだろう。桃ならまだあるよとおれは言った。ひどい言葉だなと思った。

 おもむろに立ち上がって、今度はおれから手を引く。孟徳は少しく目を丸めておれを見る。いつもよりも丸くなったそれに、なんだかちょっと可笑しくなって、口の端から声が漏れ出た。

 だから、まだ、あんたにこいつをやるわけにはいかないんだ。

 旅はまだ終わりじゃない。

 夢は決して色を失わない。

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夢旅路 沙雨ななゆ @pluie227

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