16


 ティムはサイドブレーキを下げると、ハンドルの付け根に刺さったキーを引っこ抜いた。後部座席では端整な顔立ちの狼獣人が本を読んでいる。なにやら少し顔色が悪い。酔ったのだろう。それでもこの男は懸命に文字を追っていた。表紙には『怒涛の行き着く先』と書かれている。クリスティーネ・スタイン著。彼が昔からご執心の作家様だ。新作が出る度に夢中になって読んでいるようだが、あれの何がそんなに良いのか。ティムは釈然としない思いを抱いていた。


「ニェウシ、着いたぞ」


 呼び掛けると、白銀の毛並みの青年は低く呻くような声で反応した。だいぶ参ってしまっているらしい。


「立てるか?」

「ああ」

「本なんかいつでも読めるだろ。今そんな苦しんでまで読むものか?」


 軽く背中をさすってやる。ニェウシは首を横に振りながら「今じゃなきゃいつ読めばいい? 知ってるだろ。俺には時間がないんだ。読書に割ける余暇も、将来も」と吐き捨てる。ティムは自分の眉尻が下がるのを感じた。


 実際、ニェウシには時間がない。彼はあまりに多くに手を伸ばしすぎていた。人種隔離政策に対する様々な抗議活動、困窮している獣人を援助するための仕組みづくり、彼を支持する人々の顔役としての仕事、人種法が撤廃された後を想定した新たな体制への提言を……いや、いちいち数え上げていればきりがない。あまつさえ、反体制的な獣人の活動家など、いつ殺されてもおかしくないような身分である。あらゆることが、できるうちにしておかないと、そのままできなくなる。ニェウシの場合、多忙も相俟ってその傾向が顕著だった。それは彼の秘書として、陰日向に支えてきたティムだからこそ、誰よりも深く実感していることである。


「けどさ、」


 ──俺にはお前が、自分の寿命を必要以上に削って生きているように見えて、怖いんだよ。


 ティムはそう口にしかけて躊躇った。縁起でもない、と思ったから。実際、ニェウシは傍から見る分には活力に溢れている。車から降りて颯爽と歩いていく姿はとても、忙殺されて弱り切っていた人物には見えないほどだ。そこには、付き合いの長いティムですら未だに呑まれそうになるような、覇気がある。きっと彼には、英雄として獣人たちを救うために生まれてきたかのような、天性の資質があるのだろう。ニェウシは、強い。俺なんかが心配するのがおこがましいくらいに。だから、余計なことなんて言うべきじゃないんだ。


 それでも、ティムは気に入らなかった。ニェウシの振る舞いの全てに僅かな諦観が滲み出ているように思えて。──お前は、自分が夭逝したときのことばかり考えて動いている。今日死んでも良いように、明日死んでも良いように。ニェウシは個人的な付き合いをあまりしない。数少ない友人であるティムに対しては「きっと、俺はお前を置いていくよ」なんて言ってみたりもする。それはいつか、ティムが受けるであろう傷を浅くするために。ある日突然、全くの不意な衝撃を受けて、彼が崩れ落ちてしまわないように。


 けどさ、それでも。


「馬鹿言うなよ。お前はきっと有り余るほどの時間を手に入れるよ。じじいになったら解放運動の第一線からは身を引くことになるだろうしさ。何なら俺たちの代で全人種の平等が達成されるかもしれない。そしたらお前は大英雄サマだ。後は悠々自適のお大尽みたいに過ごせるだろうよ」


 すると「俺は、そんな理由で戦ってるんじゃない。五十年後だろうが百年後だろうが、やるべきことは無限にあるんだ。脚が動かなくなっても休むものか。じゃなきゃ、俺を支持してくれた人たちに見せられる顔がなくなる」なんて拗ねるものだから、ああお前らしいと笑みを零す。


「おう。じゃあ長生きしろよ。長生きしたらその分、たくさんのことができる。お前のことを必要としているやつらは多いんだ。だろ、先生?」

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親愛なるけものたちの闘い 藤田桜 @24ta-sakura

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