15
「クルス君! 脚立取ってきて脚立!」
ファジュル・ワマブベシが叫んだ。「学校」はちょうど昼休憩のはずなのだが、今日は休む暇もないらしい。シャツの袖で額の汗を拭ってから、ギルバート・クルスは聖堂の離れにある倉庫の方へと駆けていく。しばらくすると、砂埃で汚れた踏み台を抱えて戻ってきた。
「ありがとうね、クルス君。ボクも君もお子様みたいな身長しているからさ、要るよね。どうしても──うん、ちょうどいい高さだ。やっぱ背丈が同じくらいだと通じるものがあるのかな」
「ミス・ワマブベシ──」クルスは目を半眼にして尋ねた。「もしかして、バカにしています?」
「ごめんごめん、からかい過ぎたね。……そんな睨まなくてもいいじゃないか。機嫌直してくれよ。あとワマブベシってのも止めてくれ。本当、ボクが悪かったから」
二人は応接室の照明を取り換えていた。窓の向こうでは児童たちが拭き掃除を手伝ってくれている。シュジャア司祭やミスター・ヤチャチクは正門の方に当たっているはずだ。ミスター・ロジとミセス・ブンディは教室清掃の担当だったか。重要な来客を迎えるとき、聖堂は毎度このようにして慌ただしくなる。
「で、ファジュル先生」点けると無闇に明滅するようになった電球を取り外しながら切り出す。「ワトゥ・アーサー・ニェウシが来るって、そんな
ファジュル・ワマブベシは人差し指を左右に振りながら「分かってないなあ、クルス君は」と口の端を歪めた。「獣人が情報を得るときは、新聞なんか使わないのさ。特に、ニェウシは獣人解放を唱える連中のなかでも極端だからね。穏健なリベラルのヌエバ・エラ社からも煙たがられているわけだ。だから新聞社はどいつもこいつもニェウシを過小評価するような記事ばかり出す」
「じゃあ、どうやって?」
「噂話と雑誌さ。新聞なんてヒトの視点から書かれたものしかないからね。一応、雑誌ならKWAU社が発行しているものもある。あそこの社主は互助会のナシーム・ンシチャナだ。最低限の信頼はできるし……いや、あー、すまない。話を戻そう」
ワトゥ・アーサー・ニェウシ。人種差別撤廃運動における獣人の優越を説く、急進的な活動家。巧みな演説とカリスマによって都市部の獣人たちから熱狂的な支持を受けている。一方で、ヒトリベラルからは蛇蝎のように嫌われているという。ニェウシが彼らを「獣人に施しを与えているつもりの偽善者ども。あいつらは良識を持っているから差別に反対しているんじゃない。獣人の報復を恐れているから、反対するふりをしているだけなんだ」と罵倒したためである。全人種の平等を説く獣人による組織「
「SSOに所属している司祭様とは対立する立場だけど……まあ仲が悪いってわけじゃない。聖堂で学校の代表として話をする分には何事もなく終わるだろうさ。まあそれでも相手は獣人解放運動における頂点の一角だ。気を引き締めておいて損はない」
──ちょっと喉が乾いちゃった。クルス君、一休みして水でも飲もうか。
ファジュル・ワマブベシが胸元を扇ぐように手を動かす。頭を中空に凭せ掛けてへにゃりと笑った。クルスは「はい」と淡泊に頷くと、敷地に一つだけある水道まで向かう。蛇口から流れる水が冷たくて心地いい。水筒いっぱいに汲んでから、応接室の方に戻っていく。途中で視界の端にシュジャア司祭の姿が見えた。ミスター・ヤチャチクと別段話をするわけでもなく、さっさと正門前を掃き清めている。クルスがしばらく見つめているのに気付いたのか、腰を伸ばしたついでに手をこちらに振った。会釈で返す。そのまま立ち去ろうとしたところを呼び止められた。
「ミスター・クルス、少しよろしいですか」
司祭殿の方まで駆け寄ると、のんきそうな微笑みを浮かべていた。最近になってようやく気付いたのだが、この表情はどうもオースティン・シュジャアにとっての自己防衛の手段らしい。トラブルがあったときも、具合の悪いときも、真意を包み隠すかのようにのほほんと笑っている。それは逆説的な形で、一種の怪物めいた威厳を彼に与えていた。何があろうと表情を変えない、彫像のような不気味さがある。
「今日のニェウシ氏の訪問のことなのですが」
ここでクルスは先程呆けながらシュジャアを見ていたことを後悔した。わざわざ自分に声が掛かる理由など、まあそう多くは思いつかない。次の授業時間は空いていたので、ファジュル・ワマブベシや他の職員何人かと昼食に向かう予定だったのだが。
「今回はあなたに対応を手伝ってもらいたいのです。ここで働いている以上、獣人解放運動に纏わる様々なものには関わらざるを得なくなりますからね。避けるにしても、受け入れるにしても、多少の経験や知識はあった方がいいでしょうから」
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