第3話
「え、目白台で蘭学者が蘭学者を殺した?」
篤胤が声を荒らげた。
読売を広げて板敷に横になり腹を出している篤胤の横で寅吉は、文机について書籍を渉猟している。
裁縫はまだ続いており、千枝も、えっとそれには反応した。
とんだ滅法界をやらかしたもんだ。
土佐塾とかいう小屋で観た浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵でも大石内蔵助が吉良上野介に抜刀するのを必死に堪える心理描写が執拗に演出されていたのを思い出した。
ついこの間まで、ときは文政である。
ご先祖さまの御世で、こんなに平和ないい世はないと大人たちが言い合っていた。
殺人、強盗、強姦といった極悪犯罪はなりを潜め、少なくとも千枝は身近で聞いたことがなかった。それだけに刀を抜いたということには重苦しい理由があったのだろう。
「目白台のどこです?」
寅吉は篤胤に訊いた。
「じょうじょう亭という牛鍋屋だそうだ。本郷が住処という彦根藩の白波某という者が津山松平藩の黒尾某という侍を刺し殺したのだと」
「くろお?」
「知っておるのか?」
「もしかしたらら宇田川先生のところの津山藩士のあの黒尾かもしれませんよ、ねえ、姉さん」
寅吉は振り返った。
寅吉と千枝は、浜町河岸の久松町にある宇田川榕庵先生の屋敷で蘭語と英語を教わっていたのだ。
千枝はそれだけでなく、先生の専門の植物の写生の仕事をさせてもらい、ちょっとした小遣いを頂いていた。
「何考えてるかわからないような人でしたけど、温厚そうだったけどなあ」
千枝はそれには驚いたが、加害者の白波某という男が本郷に住んでいたということがそれ以上に気になった。
湯島天神と本郷は、切通坂に面しつつ背中合わせになっている。ということは、ここら辺にも出没していたような人でもおかしくない。だとしたら、気味が悪い。
「お養父さん、やはり牛肉というものは食すとなると怒りっぽくなるものなのでしょうか。血ですし肉ですし。だって大人しい印象の蘭学者が狼藉をはたらくようでは」
寅吉は、不謹慎にもそんな凄惨な事件に平然と面白がっていた。千枝は父の言うことも信用しないが、ときに突然言い出す寅吉のもっと変なこともまったく信用していなかった。
世の中もそんな寅吉と大差なく変な迷信が蔓延っていて、獣肉屋(ももんじや)や牛鍋屋を出入りするのはゴロツキか迷信など気にしない蘭学者と相場は決まっていた。
「おお、それより変なことが書いてある。そのじょうじょう亭殺人事件の後、路上に白馬の奔馬が現れて暴れまくり、まもなく射殺されたんだと。白波某は牛門山伏町が住処だそうだ」
牛肉を食べて、人を殺めるわけがない。だとしたら、英人や蘭人は全員、殺人者だ。きっと蘭学者なりの彦根藩なりの沽券に関わる何かで揉めて、些細なことで刃傷沙汰になったに違いない。
そんなことより、最近とみに気になるのはムカつくとはいえ、養弟、寅吉の身の処し方だ。
彼は一体何者なのだ。
侍でない、医者でない、職人でもない、学者でもない。ただの浪人だ。早く自らの生業を見つけ所帯をもってもらわないと。
しかし、今にはじまったわけでなく、浪人が何か商売をはじめて成功したなどという話はついぞ聞かない。至難の技だった。寅吉もそれをわきまえていて、養父の薫陶を受けて二世の国学者という七光りを狙っている。
それはわかるのだが、それだけ努力しているのか。怪しいものだ。本当にどうするのだろうか。最期に野垂れ死にしようが知らないが、少なくとも平田家には迷惑をかけないで欲しい。
つぼ天狗 花見川晴一 @amida1972
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。つぼ天狗の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます