妹世界

ぷにばら

マイワールド

 俺には妹がいる。

 その妹は他人から見えないタイプの妹だから、他人に言うべきではないと気づくまでにわりと時間がかかった。

 4歳くらいの頃は妹の存在を主張しても、両親は空想上の友人だと思ったのか優しく諭してくれた。

 小学生になった頃、妹の話をすると母親は俺の頬をぶって「そんな子はいない」と激しく叱った。

 その時、俺は「妹のことを人に話すと怒られたり怖がられるんだな」と薄々勘づいていたことを身をもって実感した。


 妹はいつもどこに行くにもついてきた。

 後ろを振り向くと妹は常にぬぼーっとした表情でこちらを見ている。

 肩くらいの黒髪をボブカットにしているが、妹を初めて認識した時からこの髪型は変わらない。


 妹について印象的な出来事がある。

 小学3年生の夏休み、母からのお使いを済ませた帰り道、俺はコンビニに寄った。

 外は灼熱地獄で、日光も強い。アイスでも食べるかと思い、パピコを買った。

 店内のイートインで袋から出したパピコをパキっと割って、当然のことのように付いてきていた妹に渡した。

 妹は受け取ろうとして手を伸ばしたが、ホログラムのようにその手はアイスを通り過ぎてしまう。

 しまったと思った。

 この妹は他人から見えないだけでなく、実体を持たないのだ。

 そのことを忘れていた俺は誤魔化すように「冗談だよ」とおどけて両方のパピコの蓋を開けて2つ食べようとした。

 その時、俺の手首をなにかがぎゅっと掴む。

 驚いて見ると、俺の手首を掴んでいたのは妹だった。

さわれるの!?」

 俺はパピコを放ってその手を握る。

 ぷにぷにとした柔らかい手の平。

 確かにれることができる。

 妹は自分でも驚いているような気配を見せたが、すぐにあまり動かない表情に戻る。

 その顔はいつも変わらなかったが、心なしかこちらを責めているように感じた。

 昔、アイスを一度に沢山食べてお腹を壊したことを心配しているのか、と思った。

 妹がテーブルに転がる片方のパピコを拾って食べ始める。

 俺はその姿を見て、心から安堵していることに気づいた。

 この子は他人から見えないだけで、ちゃんと存在しているのだ。

 俺の頭の中だけで生きているのではなく、世間がこの子を認識できていないのだ、と。


 それ以来、歩くときに妹の手を握ることが慣習となった。

 その手は普通の人とは違い、体温を感じなかったが、それもまだ俺が認識できていないだけなのだろうと思った。

 また、物に触れられると分かってからは妹と前より積極的に遊ぶようになった。

 縄跳び、あやとり、お絵描き、テレビゲーム、あらゆる遊びを楽しんだ。

 不思議だったのは、妹が物を動していても他人からはそれを認識できないらしいことだ。

 例えば一輪車をしている時、二人で一台ずつ乗っていても妹が触れている一輪車は他人から見えないらしく、俺は一人で遊んでいるように見えるようだった。

 よって、俺はぼっちで楽しそうに遊ぶ変な奴としてクラスから浮いていたが、別段気にしなかった。

 修学旅行の班行動の際にもいつの間にか班員がいなくなっていたが、妹と思う存分京都を観光できたため、むしろ好都合だった。

 そんな調子で小学校を卒業して、中学校も似たような感じで学校生活を過ごして卒業した。


 高校受験が終わり、俺は県内でそこそこ学力の高い学校に入ることができた。

 勉強は全教科において優秀だったが、これにはちょっとした裏がある。

 俺は文系が得意で理系が苦手だったが、妹はその逆だ。なので苦手科目は解くのを手伝ってもらったのだ。

 おかげで本来身の丈に合わない高校に入学できた。

 とはいえ、俺は生活を変える気はないため、小中学校とそう変わらない学校生活を送ると思っていた。

 俺は人前で妹に話しかけたりはしない。けれど別に妹のことを無視するわけではない。妹がいれば避けて歩くし、ふと妹のことが気になって斜め後ろを見たりもする。

 クラスメイトは俺の仕草に目敏めざとかった。目立たないながらも異質な行動をする俺に、話しかける人間が徐々にいなくなるのが通例だった。

「次、理科室だよな。いこーぜ、須藤」

 ただし、俺にやたら爽やかに話しかけてくるこいつだけは例外らしい。名前を中田という。

 小中高でサッカーをやっているとのことで、スポーツマン特有の笑みが清々しい。身長も高くてガタイもいい。当然人受けもよく、クラスの中心人物者だ。

 俺はなぜか中田に気に入られている。

 一度「クラスでハブられているから話しかけてくれるのか」と尋ねたことがある。

 回答は「そういうことを真正面から訊いてくるところが面白いから」とのことだ。

 俺も話しかけてきてくれる分には悪い気はしない。

 机から教科書を取り出して、中田と共に教室を出る。

 ふと目をやると妹が所在なさげに俺の席の隣に突っ立ってる。

 最近こういうことが増えた。多分俺が誰かと一緒にいることにまだ慣れておらず、どうしていいか分からないのだと思う。

 俺は中田に「ちょっと待ってて」と断りを入れて、妹のところに行く。

 妹はいつも通りぬぼーっとした表情で、こちらを見ている。

 いまは中学2~3年生くらいの背格好だけど、この表情だけは変わらない。

 小さな頃は全部同じに見えたけど、徐々にその機微が分かるようになった。

 俺はやっぱり不安だったのだなと思って、周りに聞こえないように「ほら、一緒に行こう」と言って手を取った。

 そのまま中田のところへ戻ると「忘れ物?」と尋ねられる。

 俺は曖昧に頷いた。

 

 妹は俺が中田といると徐々に不安定になっていくような感じがした。

 顕著なのは中田が俺の家に遊びにきた時だった。

 遊びにくると決まった時からどこか様子がおかしかったが、中田が家に足を踏み入れた瞬間、それは明確になった。

 一瞬、妹がまるで乱暴に消しゴムで擦られたみたいにかき消えた。

 俺はギョッとして中田の腕を掴んで家から出す。

 慌てて見直すとまるで勘違いかのように、妹は元に戻っていた。

 俺は中田に謝って場所を変えてもらった。

 あのまま中田が家に入っていたらと考えると、俺は気が気でならない。 


 高校入学してから半年が経ったある帰り道、中田が何気ない話題を振るかのように尋ねてきた。

「お前、たまにあらぬ方向を向いたり、なにかを気にかけたりと珍妙な動きをすることあるよな。あれって実際なんか見えてんだろ?」

 俺はその的を射た質問に驚く。

 言葉を濁す俺に中田が笑う。

「いや、最初は霊感アピール?的なあれかと思ってたんだけど、半年付き合っててなんとなくガチっぽいなって」

「……そう?」

「うん。ていうか多分見えてるのって人だろ? それでいて女の子」

 半年一緒にいればボロがでるということなのか。それとも中田が鋭いのか。

 俺は話すべきかと妹のほうを見るが、珍しく表情が読めなかった。

 けどそこまで見抜かれているなら隠していても仕方ないと思い、俺は全部話すことにした。

 物心ついた時から他人に見えないタイプの妹が見えていること、その妹と一緒に過ごしてきたことを話す。

「へぇー、つまりそれって今もここにいるってことか?」

 説明を聞いた後の開口一番がそれだった。呑み込みがよすぎる。

 俺は後ろにいる妹の表情を伺う。いつものぬぼーっとした表情、ではない。明確な戸惑いがそこに浮かんでいる。

 やっぱり話すのはまずかったのだろうか。

「そこにいるのか?」

 中田が俺の視線を辿った先を見る。

「うん。でも突然話しかけられて怖がってるかも」

 俺がそう言うと、申し訳なさそうに「ごめんな」と中田が謝る。

 中田は俺の話を事実として捉えているようだった。

 俺は「悪い奴じゃないって伝えとくから大丈夫」とフォローしつつ、妹のことが気がかりでならなかった。


 それから1週間経った日曜日、俺と妹は中田の家に来ていた。

 中田の家に入る時、妹がまた消えてしまうのではないかと危惧していたが、今回は何ともなかった。

 中田の自室に通された俺は隣にちょこんと座っている妹を見る。

 今回、中田家を訪問したのは珍しく妹が希望したためだ。

 先週、中田が雑談として妹がいるという話をした時に、妹が俺の制服を引っ張ったのだ。それは数えるほどしか記憶にない能動的な反応だった。

 俺は「妹が中田の妹に会いたいって」と伝えて、それなら、ということで、今日は中田家にお邪魔することになった。

「おまたせ」

 しばらくして、中田が戻ってくる。その隣には、おどおどとした印象の女の子が立っていた。

「こっちがこの前話した俺の妹、千佳」と中田が妹を紹介する。

「よ、よろしくお願いします……」

 人見知り気味なのか、どこか緊張した様子で挨拶をしてくれる千佳ちゃん。

「んで、そっちが俺の友達、須藤」

「よろし、っくぅ!!!?」

 俺は途中目を疑う光景を見たせいで、エキセントリックな挨拶をしてしまった。

 突然の大声に千佳ちゃんがビクッと身体を震わせる。

 俺は笑顔で誤魔化しながら、千佳ちゃんの隣にいつの間にかいる妹に注意がいく。

 妹は千佳ちゃんをガン見していた。傾注というレベルではない。顔と顔がくっつきそうなくらい近くで、妹は千佳ちゃんを見ている。

 その目はまるでそこだけ別の生き物かのようにぎゅるぎゅると駆動している。

「……?」

 中田の訝しげな表情を受けて、俺は何事もないように振舞ってなんとかその場を切り抜けた。


 翌日、異変は起きた。

 朝起きると、妹が千佳ちゃんになっていた。

 厳密に言うと、千佳ちゃんらしきなにかだ。

 遠目から見ると千佳ちゃんに見えるが、その目や口や鼻などの顔の部位は常に位置を探るようにうごめいている。

 複数人の顔をCGで合成するモーフィングの最中のような、奇妙な光景だった。

「それ、どうしたんだ……?」

 俺が声をかけると、妹は千佳ちゃんが笑うかのように微笑んだ。

 違う、お前はそういう風には笑わないはずだろう。

 俺が困ったと思ったのか、妹は心配そうな表情を見せる。

 しかしまだうまく表情の形を作れないのか、鼻が傾いて目尻が半回転している。

「――っ!!」

 俺はたまらなくなって、妹を抱きすくめた。

 妹はなにかに不安を感じていて、変わろうとしているのかもしれない。

 けど、

「お前がお前だからいいんだ。誰かになろうとしなくていい!」

 俺は祈るように言った。

 そうしてしばらく経ったのち、妹はいつも顔に戻っていた。

 俺はほっとした後、抱きしめた時に妹に体温があったことに後で気づいた。


 後日、俺は妹に起きたことを中田に話した。

 中田は難しい顔をして、「それはもしかすると、自分探しの途中なんじゃないか」と言った。

「どういうこと?」

「妹さんは自分がなにかを分かっていなくて、悩んでいるんじゃないかってことだ」

 なんとなく思い当たる節がある気がした。

 今まで俺はほとんど妹としか関わってこなかった。

 しかし、俺は高校生になって中田という友人ができて、俺と妹と中田という関係性が否が応にもできてしまった。

 家族以外の親しい他者が関係に含まれたことで、妹は改めて自分について考えているのではないだろうか。

「そういえば、妹さんの名前ってないのか?」

「ああ、なんとなく妹は妹って感じだから……」

 そう言って、じゃあ名前を付けてみるのはどうだろうと考えた。

 名前をつけてあげることで、初めて分かることがあるかもしれない。

 俺は中田にお礼を言って、さっそく名前を考え始めた。

 ちょうど1週間後は、俺の誕生日だった。


 誕生日を迎える3分前。

 俺は妹を呼んだ。普段はほとんど常に一緒にいるのだが、最近は気づくといないことがある。それでも声をかけるとすぐに姿を現すから安心している。

 妹はいつもと変わらないぬぼーっとした表情で、目の前に現れる。

「もうすぐ俺、16歳の誕生日なんだよ」

 妹が表情でおめでとうと伝えてくれる。

「ありがと。それでさ、考えていたことがあったんだ」

 俺にはある確信めいた直感があった。

 それは、妹は俺が生まれてからすぐあとに存在し始めたのではないか、ということだ。

「つまり妹は俺と誕生日が同じなんじゃないかって思うんだ」

 妹が頷く。

「だから誕生日プレゼントを用意したんだ」

 妹が首をかしげる。

「いつまでも妹だと不便だろ? 名前をあげたいと思って」

 そう言った俺は緊張していて、そこから先の妹の表情はもう見えていなかった。

「なんていうか、照れくさいんだけど。でも気に入ってくれると思うんだ。聞いてくれるか? お前の新しい名前は――」

 新しい名前を口に出そうとした時、

 ――パン!と何かが弾ける音がした。

 反射的に目を瞑るが、数秒待ってもなにもない。

 目を開けて周囲を確認しても異変はなかった。

 妹がいなくなっていることを除いては。

「は?」

 俺は慌てて妹を呼ぶ。反応がない。

 こんなことは初めてで俺は焦る。

 自室の物をひっくり返して妹を探す。いない。

 リビング、台所、キッチン、物置部屋を探す。いない。

 ――妹が消えた。

 俺はいても経ってもいられなくなり、既に日付が超えたことなど関係なく家を飛び出した。


 通学路、コンビニ、土手、学校。

 どこを探しても妹はいなかった。

「――ぃも――」

 俺の声はもうしゃがれて、ほとんど通らない。

 叫びすぎたせいかもしれないし、さっき出合い頭の車に轢かれて肺が破れたせいかもしれなかった。

 俺は足と口を動かしながら考える。

 なにがいけなかったのか。

 俺はただ名前をあげて、妹に喜んでほしかっただけなのに。

 そもそも妹は名前を喜んでいただろうか。

 いやきっと違うだろう、と思う。

 だって妹は16年間、名前を求めたりしなかったじゃないか。

 きっと妹は名前を付けられた”個”であることよりも、妹という”総体”でいたかったのだ。

 妹は”個”になることを望んではいなかったのだ。

 思えば初めからそうだった。

 妹の表情が読めるようになったのは俺が意思疎通を図りたいと思ったからだ。

 妹に触れることができたのも俺がパピコを分け合いたいと思ったからだ。

 俺が求めたから、徐々に形を決めようとしてくれた。

 妹が妹である定義を決めようとしたんだ。

 でもその固まりかけた定義を崩したのも俺だ。

 中田と知り合い、関係性を著しく変え、妹の中の妹の定義を大きく揺るがした。

 だから応急措置的に千佳ちゃんになって、他人の妹になることで代替しようとしたんだ。

 でもやっぱりそれも俺が壊してしまった。

 最近傍にいなかったのもあらゆる妹の形を学ぼうとしていたからではないか。

 しかしそのうえで名前という”個”となる縛りを与えられて、限界を迎えてしまったのだ。 

 妹はもともとは掴みどころがなくて、ふわふわした存在だった。 

 妹の本質はもっと概念的なものなんだ。

 透明で、不定形。

 いつでもそこにあって、いつでもそこにない。

 ただあるがままの存在。

 それって――

「それって、まるで世界みたいじゃないか」

 掠れた声でつぶやく。

 そうか、と思う。


 

 

 俺は今更ながらに気づく。


「――妹はただそこに在るだけで、よかった」


 光が差した。

 夜明けが来ていた。

 

 俺はもう何も言わない。

 何も求めない。

 妹がただ自由であればいいと願いながら、俺は意識を失った。

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